第114話「印のある石」
技師局の広間は机を全部どけてあった。どけた机が壁際に積んである。
床が板だけになっていて、板の目が端まで見える。こんなに広い床だとは、思っていなかった。
「そこへ立つな」
「はい」
「靴を脱げ」
「脱ぎます」
「六人とも脱げ」
「はい」
若い技師が六人いた。六人が、束を担いで入ってきた。
三日前に地下へ運んだ束だ。運び下ろして、また運び上げたことになる。
「メッツ」
「はい」
「東の端から並べよ」
「順は」
「番号のとおりだ」
「十二区画、全部でございますか」
「全部だ」
紙が床に置かれた。二枚目を、端で重ねると、重ねた縁が線で合った。
合うように、四十年前から写してある。
三枚目が置かれた。
十枚目で、俺の靴の位置まで来た。二十枚目で、壁に着いた。置き終わるまで、誰も口をきかなかった。
紙が広間いっぱいになった。継ぎ目が、床の板の目と直角に走っている。
上から見ると、一本の水路だ。千年ぶんの水路が、床の上にあった。
「見えるか」
「見えます」
「何が見える」
「線です」
「線の上に、何がある」
朱が点いていた。細かい朱の点だ。
線に沿ってではない。線の途中に、ばらばらに散っている。
多いところと、無いところがある。
「赤いのはなんですか」
「印だ」
「印」
「四十年、印のある石だけを塗ってきた」
「四十年ですか」
「四十年だ」
「毎年ですか」
「見つけるたびにだ」
「意味は」
「意味は、わからんかった」
「そうですか」
「だが、こうなる」
その人はそこで屈んで、床の端の紙を指した。指の先に、朱が三つ並んでいた。
「ここは、一度落ちとる」
「落ちた」
「天井が抜けた跡が、石組みに残っとる。記録より前だ」
「直したんですね」
「直した」
「誰がですか」
「わからん」
「印がありますね」
「ある」
その人は指を動かした。動かした先に朱が無い。
「ここは、一度も落ちておらん」
「無いですね」
「無い」
「じゃあ」
「印は、建てたときの石にはない」
「はい」
「必ず、一度壊れて、直された石にある」
俺は床を見渡した。朱の点が散っている。散り方に、意味があった。
水路の弱いところに多い。曲がりの外側に多い。
だが、支えの上に、少ない。
千年、壊れやすい場所に印が集まっている。
俺は少し笑った。笑ったのは、分かりやすかったからだ。
「……工房の印ですね」
「なんだと」
「うちにも看板ありますし」
「看板」
「直したら、名前書くじゃないですか」
「……書くか」
「書きます」
「なぜだ」
「次に直す人が困るので」
「困る」
「はい」
「なぜ困る」
「どこを触ったか、分からないと」
「……」
「同じところを、二回やることになるので」
誰も、何も言わなかった。言わないので、俺は続けた。
「二回やると、傷むんです」
「……」
「だから、書いときます」
「……そうか」
オズワルドさんの声が途中で切れて、次が出てこなかった。その人は床に手をついた。
ついた手が、紙の縁を押さえた。
押さえた指が、震えていた。
三日、図面を繰り続けた指だ。繰っているときは、震えなかった。
後ろで音がした。紙の束が、落ちた音だった。
メッツさんの手から落ちて、床を滑った。滑って、朱の点の上で止まった。
メッツさんは拾わずに、そのまま座り込んだ。膝が、板を打った。
「……副技師長」
「……」
「大丈夫ですか」
「……私は」
「はい」
「十二年、この局におります」
「聞きました」
「壁の札を、毎朝拭いております」
「そうですか」
「拭くたびに、四つしか動いていないと思っておりました」
「動きましたね」
「動きました」
「よかったです」
「……あなたは」
「はい」
「今、何とおっしゃいました」
「看板の話ですか」
「……はい」
「うち、看板が六回彫り直されてるんです」
「六回」
「風で落ちたり、雨で腐ったりして」
「……はい」
「そのたびに、名前を彫ってます」
メッツさんは返さずに、床を見ていた。床には、四十年ぶんの朱があった。
「これを、見てもらいたかった」
オズワルドさんが懐から一枚出した。小さい紙だ。
二つ折りにしてあって、折り目が擦り切れている。
開くと、形が一つ描いてあった。
「印の形だ」
「はい」
「四十年前に、わしが写した」
「見ます」
線が四本あった。三本が、横に並んでいる。
一本が、下から上へ抜けている。抜けた先が右へはねていた。
「これ、見たことあります」
「どこでだ」
「道具袋、ここです」
俺は袋を下ろした。下ろして、金槌を出した。
柄の窪みは、そのままにしてある。
頭の平らな面を、上に向けた。紙の横へ置いた。
線の数が、同じだった。はねの向きも、同じだった。
オズワルドさんは動かなかった。動かずに、それを見ていた。
「……これは」
「親方のです」
「親方」
「俺を拾った人です」
「その者は」
「死にました。冬に」
「……どこの工房だ」
「聞いてないです」
「聞かんかったのか」
「屋号だと思ってたので」
「……」
「聞いておけば、よかったです」
その人は床に膝をついたままだった。ついたまま、紙と金槌を交互に見ていた。
三度、往復した。
それから、額を押さえた。
押さえた手の下から、息が漏れた。声は出さなかった。
俺は金槌を仕舞って、紙を返した。
返した紙を、その人は受け取らなかった。
受け取れないようだったので、床に置いた。
そのとき、後ろで衣擦れがした。シルフィさんだった。
この人は、いつも聞かれてから答える。
自分から前に出たのを、俺は見たことが無い。
その人が前へ出た。出て、床の紙の端に膝をついた。靴はとうに脱いでいた。
紙の上の朱を、指でなぞった。
なぞって、手を膝へ戻した。
それから、俺のほうを向いた。目が、赤くなっていた。
「ルーク様」
「はい」
「一つ、お伺いしてよろしいですか」
「どうぞ」
「その金槌の印は、いつ出ましたか」
「錆を落としたときです」
「錆の下に」
「ありました」
「彫られたのでは、ないのですね」
「彫ってないです」
「……はい」
「もとから、あったんだと思います」
シルフィさんは目を閉じて、しばらくそのままだった。
開いたとき、姿勢が変わっていた。背が、前より真っすぐだった。
「ルーク様」
「はい」
「わたくしは、長いあいだ、黙っておりました」
「疲れてましたもんね」
「いいえ」
「違うんですか」
「違います」
「じゃあ、なんですか」
その人は両手を膝に置いた。置いて、指を揃えた。
「……お話し、します」




