第113話「腐り始めた」
「腐り始めた、とは」
「そのままです」
「何が腐った」
「……全部です」
「全部とは、なんだ」
「置いてあったものが全部でございます」
技師の若いのはそれ以上言えなかった。言えないので、手で下を指した。指した手が、震えていた。
「行きます」
「行くのか」
「見ないと、分からないので」
「そうだな」
「オズワルドさん、歩けますか」
「歩ける」
「三日、寝てないですよ」
「お前もだ」
「俺は若いです」
「……そうか」
九番の区画はいちばん奥だった。水が来る前は、そこだけ静かだった。
澱みが溜まっていた場所だ。
入ると、まず耳が違った。音が返ってくる。前は、返ってこなかった。
「ミオさん」
「うん」
「音、どうですか」
「返る」
「前は」
「吸われてた」
「今は」
「ぶつかって、戻ってくる」
「普通ですね」
「普通ニャ」
床に木箱が積んであった。三十はある。
誰が置いたかは、記録に無い。百年、そのままだったと聞いた。
その木箱が黒ずんでいた。角から黒くなっている。
触ると、指が沈んだ。沈んだところから、繊維が崩れた。
「これ、いつからですか」
「昨日は白かった」
「一日ですか」
「一日だ」
「早いですね」
「早い」
箱の中にパンがあった。乾いて、石のようになったパンだ。誰かの弁当だったのだと思う。
そのパンに黴が回っていた。青い黴だ。縁から、輪になって広がっている。
輪の外側が白い。白いところが、いちばん新しい。
「黴です」
「見える」
「昨日は」
「無かった」
壁に縄が張ってあった。道しるべの縄だ。
張った者は、たぶん死んでいる。
その縄が垂れていた。垂れて、床に着いていた。
撚りがほどけている。
持ち上げると、途中で切れた。切れ口は粉になった。
そして、匂いがした。湿った、酸っぱい匂いだ。
黴と、腐った木の匂いだった。いい匂いではない。
「臭いですね」
「臭い」
「ここ、前は無臭でしたよね」
「無臭だった」
「四十年、ですか」
「四十年、何の匂いもせんかった」
俺はもう一度、息を吸った。吸って、思った。
この匂いは、外の匂いだ。物置の匂いだ。
オルトの、雨のあとの物置の匂いだった。
オズワルドさんはしゃがんで、木箱の角を指で押していた。
押すたびに、指が沈む。沈むのを、何度も繰り返した。
「オズワルドさん」
「……」
「大丈夫ですか」
「壊れとる」
「壊れてますね」
「腐っとる」
「腐ってます」
「……よかった」
その人はそこで手を止めて、立ち上がらなかった。しゃがんだまま、しばらく動かなかった。
「聞いてよいか」
「はい」
「水が来たから、澱みが薄れたのか」
「わからないです」
「澱みが薄れたから、水が来たのか」
「それも、わからないです」
「わしもだ」
「そうですか」
「水が止まったから澱んだのか、澱んだから水が止まったのか」
「はい」
「それは、わからん」
「はい」
「四十年、考えた」
「はい」
「わからんかった」
「じゃあ、わからないままですね」
「わからんままだ」
その人はそこで初めて立った。膝が鳴った。
「だが、腐るようになった」
「なりましたね」
「腐るというのは、覚えとるということだ」
「そうですか」
「壊れることを、思い出した」
俺には、難しい話だった。難しいので、木箱を見た。
黒くなって、崩れかけている。
これは直せる。直せるが、直さない。
壊れていないものは直さない、の逆だ。
これは壊れたばかりだから、そのままでいい。
持ち主が、いない。
階段を上がった。百二十七段ある。上がりきる前に、音が聞こえた。人の声だ。
石蓋の口が明るかった。明るいのは、外だからだ。
三日ぶりの外だった。
目が痛かった。痛いので、しばらく下を向いていた。向いていたら、声が来た。
「神匠様!」
「神匠様だ!」
「出てこられた!」
人がいた。広場が全部人だった。坂の上まで続いている。
桶を持ったままの者が多い。
その人たちが膝をついた。前から、順についていく。
波のように、下へ広がっていった。
石に額をつける者がいた。名を呼ぶ者がいた。泣いている者がいた。
誰かが、俺の袖に触った。触って、すぐに手を引いた。引いた手を押し戴くようにしていた。
俺は階段の口に立っていた。立って、手すりに掴まっていた。
三日ぶんの足だ。掴まらないと、上がれない。
掴まったら、手すりが動いた。
「あ」
「どうした」
「この手すり、緩んでますね」
「……手すり」
「根元です」
俺はしゃがんだ。しゃがんで、根元を見た。
石に穴を開けて、鉄を差してある。差した周りに、鉛を流し込んである。
その鉛が痩せていた。痩せたぶん、隙間ができている。
隙間があると、揺れる。
揺れると、そのうち抜ける。
「ここ、抜けます」
「今か」
「今日じゃないですけど」
「では、あとでよい」
「よくないです」
「なぜだ」
「毎日、ここを人が上るので」
「……上るな」
「上りますよね」
「上る」
「じゃあ、直します」
俺は鉄の根元に手を当てた。当てて、思った。
鉛が動いた。痩せた面が、外へ膨らむ。膨らんで、石の穴の内側を探した。
探して、当たった。
当たった先から、隙間が埋まっていく。
埋まる音は、しない。しないが、手すりが動かなくなった。
俺は押してみた。動かない。
「はい、いいですよ」
立ち上がって、初めて広場を見た。みんな、こちらを見ていた。
膝をついたままだった。
「あの」
「……」
「立ってていいですよ」
誰も、立たなかった。
シルフィさんだけが違った。この人は、群衆を見ていなかった。上を見ていた。
石蓋の口には、迫り持ちの枠がある。その真ん中に、大きい石が一つ嵌まっている。
要石だ。
シルフィさんはそれを見ていた。
まばたきを、していなかった。
「シルフィさん」
「……はい」
「どうかしましたか」
「いいえ」
「そうですか」
「……いいえ」
オズワルドさんが横に来て、俺の袖を引いた。人前で、初めて見た動きだった。
「ルークとやら」
「はい」
「局へ来い」
「今からですか」
「今からだ」
「三日、寝てないですよ」
「寝る前でよい」
「何がですか」
「もう一つ、見せるものがある」




