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113/114

第113話「腐り始めた」

「腐り始めた、とは」


「そのままです」


「何が腐った」


「……全部です」


「全部とは、なんだ」


「置いてあったものが全部でございます」


 技師の若いのはそれ以上言えなかった。言えないので、手で下を指した。指した手が、震えていた。


「行きます」


「行くのか」


「見ないと、分からないので」


「そうだな」


「オズワルドさん、歩けますか」


「歩ける」


「三日、寝てないですよ」


「お前もだ」


「俺は若いです」


「……そうか」


 九番の区画はいちばん奥だった。水が来る前は、そこだけ静かだった。


 澱みが溜まっていた場所だ。


 入ると、まず耳が違った。音が返ってくる。前は、返ってこなかった。


「ミオさん」


「うん」


「音、どうですか」


「返る」


「前は」


「吸われてた」


「今は」


「ぶつかって、戻ってくる」


「普通ですね」


「普通ニャ」


 床に木箱が積んであった。三十はある。


 誰が置いたかは、記録に無い。百年、そのままだったと聞いた。


 その木箱が黒ずんでいた。角から黒くなっている。


 触ると、指が沈んだ。沈んだところから、繊維が崩れた。


「これ、いつからですか」


「昨日は白かった」


「一日ですか」


「一日だ」


「早いですね」


「早い」


 箱の中にパンがあった。乾いて、石のようになったパンだ。誰かの弁当だったのだと思う。


 そのパンに黴が回っていた。青い黴だ。縁から、輪になって広がっている。


 輪の外側が白い。白いところが、いちばん新しい。


「黴です」


「見える」


「昨日は」


「無かった」


 壁に縄が張ってあった。道しるべの縄だ。


 張った者は、たぶん死んでいる。


 その縄が垂れていた。垂れて、床に着いていた。


 撚りがほどけている。


 持ち上げると、途中で切れた。切れ口は粉になった。


 そして、匂いがした。湿った、酸っぱい匂いだ。


 黴と、腐った木の匂いだった。いい匂いではない。


「臭いですね」


「臭い」


「ここ、前は無臭でしたよね」


「無臭だった」


「四十年、ですか」


「四十年、何の匂いもせんかった」


 俺はもう一度、息を吸った。吸って、思った。


 この匂いは、外の匂いだ。物置の匂いだ。


 オルトの、雨のあとの物置の匂いだった。


 オズワルドさんはしゃがんで、木箱の角を指で押していた。


 押すたびに、指が沈む。沈むのを、何度も繰り返した。


「オズワルドさん」


「……」


「大丈夫ですか」


「壊れとる」


「壊れてますね」


「腐っとる」


「腐ってます」


「……よかった」


 その人はそこで手を止めて、立ち上がらなかった。しゃがんだまま、しばらく動かなかった。


「聞いてよいか」


「はい」


「水が来たから、澱みが薄れたのか」


「わからないです」


「澱みが薄れたから、水が来たのか」


「それも、わからないです」


「わしもだ」


「そうですか」


「水が止まったから澱んだのか、澱んだから水が止まったのか」


「はい」


「それは、わからん」


「はい」


「四十年、考えた」


「はい」


「わからんかった」


「じゃあ、わからないままですね」


「わからんままだ」


 その人はそこで初めて立った。膝が鳴った。


「だが、腐るようになった」


「なりましたね」


「腐るというのは、覚えとるということだ」


「そうですか」


「壊れることを、思い出した」


 俺には、難しい話だった。難しいので、木箱を見た。


 黒くなって、崩れかけている。


 これは直せる。直せるが、直さない。


 壊れていないものは直さない、の逆だ。


 これは壊れたばかりだから、そのままでいい。


 持ち主が、いない。



 階段を上がった。百二十七段ある。上がりきる前に、音が聞こえた。人の声だ。


 石蓋の口が明るかった。明るいのは、外だからだ。


 三日ぶりの外だった。


 目が痛かった。痛いので、しばらく下を向いていた。向いていたら、声が来た。


「神匠様!」


「神匠様だ!」


「出てこられた!」


 人がいた。広場が全部人だった。坂の上まで続いている。


 桶を持ったままの者が多い。


 その人たちが膝をついた。前から、順についていく。


 波のように、下へ広がっていった。


 石に額をつける者がいた。名を呼ぶ者がいた。泣いている者がいた。


 誰かが、俺の袖に触った。触って、すぐに手を引いた。引いた手を押し戴くようにしていた。


 俺は階段の口に立っていた。立って、手すりに掴まっていた。


 三日ぶんの足だ。掴まらないと、上がれない。


 掴まったら、手すりが動いた。


「あ」


「どうした」


「この手すり、緩んでますね」


「……手すり」


「根元です」


 俺はしゃがんだ。しゃがんで、根元を見た。


 石に穴を開けて、鉄を差してある。差した周りに、鉛を流し込んである。


 その鉛が痩せていた。痩せたぶん、隙間ができている。


 隙間があると、揺れる。


 揺れると、そのうち抜ける。


「ここ、抜けます」


「今か」


「今日じゃないですけど」


「では、あとでよい」


「よくないです」


「なぜだ」


「毎日、ここを人が上るので」


「……上るな」


「上りますよね」


「上る」


「じゃあ、直します」


 俺は鉄の根元に手を当てた。当てて、思った。


 鉛が動いた。痩せた面が、外へ膨らむ。膨らんで、石の穴の内側を探した。


 探して、当たった。


 当たった先から、隙間が埋まっていく。


 埋まる音は、しない。しないが、手すりが動かなくなった。


 俺は押してみた。動かない。


「はい、いいですよ」


 立ち上がって、初めて広場を見た。みんな、こちらを見ていた。


 膝をついたままだった。


「あの」


「……」


「立ってていいですよ」


 誰も、立たなかった。


 シルフィさんだけが違った。この人は、群衆を見ていなかった。上を見ていた。


 石蓋の口には、迫り持ちの枠がある。その真ん中に、大きい石が一つ嵌まっている。


 要石だ。


 シルフィさんはそれを見ていた。


 まばたきを、していなかった。


「シルフィさん」


「……はい」


「どうかしましたか」


「いいえ」


「そうですか」


「……いいえ」


 オズワルドさんが横に来て、俺の袖を引いた。人前で、初めて見た動きだった。


「ルークとやら」


「はい」


「局へ来い」


「今からですか」


「今からだ」


「三日、寝てないですよ」


「寝る前でよい」


「何がですか」


「もう一つ、見せるものがある」

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