第112話「水が来た日」
坂の上に共同水盤がある。石でできた、四角い桶だ。
縁が内側だけ丸くなっている。丸いのは、人の手が触った跡だ。
三代、水は出ていない。出ていないのに、縁だけが減っている。
「これ、何ですか」
「水盤だ」
「使ってないですよね」
「使っておらん」
「でも、減ってます」
「……減っとる」
「触ってた人がいますね」
口の中を覗くと、中が乾いていた。
乾いた面に、白い粉が張っている。
石の塩だ。三代ぶんの塩が、そこで待っていた。
最初に音がした。
「鳴った」
「ミオさん」
「下から」
「来ますか」
「来る」
口が鳴った。鳴ったのは、水ではない。空気だ。
押し出された空気が、細く鳴いた。
鳴きながら、白い粉を吹き飛ばした。
粉が宙で散った。散ったあとに水が出た。
最初は指ほどだった。
指が腕になった。腕になって落ちた。落ちた先で跳ねた。
「水、出ましたね」
誰も、返さなかった。返さないので、俺はもう一度言った。
「オズワルドさん、出ましたよ」
「……ああ」
「詰まってなかったですね」
「……詰まっておらん」
「よかったです」
列が動いた。桶を持った列だ。石蓋まで桶を運んでいた列が、そのまま横へ動いた。
動いて、水盤の前に並び直した。
誰も指図しなかった。
いちばん前に子どもがいた。小さい桶を両手で提げている。
その子は、桶を置いた。置いて、両手を水へ突っ込んだ。肘まで入れた。
「冷たい」
「冷たいですね」
「なんで冷たいの」
「地の下から来てるからです」
「ずっと下」
「ずっと下です」
「ぼくより下」
「だいぶ下ですね」
子どもの母親が腕を掴んで、引き戻そうとした。
戻そうとして、やめた。やめて、自分も手を入れた。入れたまま、しゃがみ込んだ。
肩が揺れていた。
声は、出ていない。
シルフィさんが列の外に立って、坂の下を見ていた。坂の下は、灯りの切れている側だ。
「シルフィさん」
「はい」
「下も、来ますかね」
「参ります」
「そうですか」
「……ルーク様」
「はい」
「あの家々は三代、待っておりました」
「長いですね」
「はい」
「待ってた人はもういないですね」
「……おりません」
ロッタさんは列に並ばなかった。天秤を担いだまま、離れて立っていた。
しばらく、そうしていた。
それから、桶を地面に下ろして、天秤も下ろした。
肩を回さなかった。回さずに、そのまま立っていた。
「ロッタさん」
「……」
「並ばないんですか」
「……並ぶよ」
「どうぞ」
「あんた」
「はい」
「あたしは、五十年、これを担いできた」
「はい」
「明日から、担がない」
「そうですね」
「……そうかい」
その人はそれきり黙って、水盤の縁に手を置いた。置いた手が動かなかった。
俺はその手を見た。内側だけ丸くなった縁と、同じ形をしていた。
技師局の広間に人が集まった。壁の板に、木札が十二枚吊ってある。
四十年、四枚だけが裏を向いていた札だ。
いまは、十二枚とも裏を向いている。黒い面が端まで並んでいた。
「オズワルドさん」
「なんだ」
「端の札、紐が違いますね」
「違う」
「替えますか」
「替えん」
「褪せてないですよ」
「そのままでよい」
「そうですか」
「一枚だけ色が違うほうが、いい」
卓の上に箱が置いてあった。黒い箱だ。留め金が金でできている。
クレイス伯爵さまが、自分で運んできた。
「ジェラルドさま」
「うむ」
「読み上げよ、とのことか」
「陛下の仰せだ」
「では、開ける」
箱の中に紙が一枚あった。厚い紙だ。
端が焼けたように茶色い。
ジェラルド公が、それを両手で持って、灯りへ向けた。
「先代の勅許である」
「はい」
「水利は、クレイス家に与える」
「はい」
「以下、続きだ」
その人はそこで一度息を入れた。
「——大水道が復するまで」
誰も、動かなかった。
俺は意味が分からなかった。分からないので、隣に聞いた。
「オズワルドさん」
「なんだ」
「どういうことですか」
「終いだ」
「何がですか」
「あの家の水利が、だ」
「取り上げるんですか」
「取り上げん」
「じゃあ、続くんですね」
「続かん」
「どっちですか」
「……最初から、そう書いてあった」
俺はまだ分からなかった。
紙は直していない。触ってもいない。インクは、沈み直していない。文字も、並び替わっていない。
俺がやったのは、下の水道だけだ。なのに、紙のほうが変わったことになっている。
「触ってないんですけど」
「触っておらん」
「じゃあ、俺じゃないです」
「……お前ではない」
「よかったです」
クレイス伯爵さまは騒がなかった。声も、上げなかった。
箱の蓋に手を掛けて、閉めた。
留め金が鳴った。鳴らしたのは、家令ではない。自分の手だった。
「伯」
「……」
「何か、申されるか」
その人は指輪を見た。波が三本、彫ってある。鍵は無い。
見てから、顔を上げた。
「……わしは、配っていたのだ」
それだけだった。
言って、箱を抱えた。抱えて、歩いた。
家令が扉を開けた。開けた家令は、何も復唱しなかった。
陛下は椅子に掛けていた。
背を、あまり起こしていない。
起こさないまま、話を聞いた。聞き終えて、少し身を起こした。
「クレイスを、どうするかと聞かれた」
「はい」
「答える」
「はい」
「配った者を裁く法は、この国にはない」
ジェラルド公が下を向いた。
「三代、あの家は水を売った」
「はい」
「売らねば、下町は死んでいた」
「はい」
「高く売った。それは別に問う」
「はい」
「だが、それは今日ではない」
陛下はそこで手を上げた。上げた先に、下町の者が並んでいた。
桶を提げたままの、水売りたちだ。ロッタさんがいちばん端にいた。
「水を運んでいた者」
「……はい」
「面を上げよ」
「……はい」
「大水道の管理は、水を運んでいた者に任せる」
誰も返さなかった。ロッタさんが、天秤を握り直した。握ったまま、動けなかった。
「陛下」
「なんだ」
「あたしは、字が読めません」
「読める者を雇え」
「銭が」
「出す」
「……はい」
「桶の場所を知っている者は、この国にお前たちしかおらん」
俺は後ろで聞いていた。法の話は、何一つ分からなかった。
分からないので、天秤を見ていた。
ロッタさんの天秤は、真ん中が減っている。肩の当たる場所だけ、細い。
あれは、直さないほうがいい。直すと、肩に合わなくなる。
「オズワルドさん」
「なんだ」
「あの天秤、明日から使わないんですかね」
「使わんだろう」
「もったいないです」
「……そうか」
人が走ってきた。技師の若いのが、階段を三つ飛ばしで上がってきた。息が続いていない。
「技師長」
「言え」
「九番の、澱み溜まりから報せです」
「水は通ったか」
「通りました」
「では、何だ」
「……腐り始めました」




