↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
111/118

第111話「三日三晩」

「そこは後世だ」


「はい」


「そこは本来だ」


「はい」


「そこは……わからん。飛ばせ」


「はい」


 俺は手を右へ滑らせた。滑らせた先の石だけを、思う。


 飛ばせと言われた石には触らない。触らないと決めた場所は、そのままにする。


 オズワルドさんは俺の左に座っていた。膝の上で紙を繰っている。繰る手だけが、動き続けていた。


「三十七枚目」


「はい」


「そこは、わしが二十九のときに写した」


「新しいですね」


「新しい」


「じゃあ、後世ですね」


「後世だ」


「残します」


 石が位置を思い出した。落ちていた角が、隣を探す。


 探して、面を合わせた。合わせた面から水の跡が消えていく。


 消えたあとに勾配が戻った。


 勾配は目には見えない。見えないが、埃が転がりはじめた。


 転がる向きが、変わっていた。


「オズワルドさん」


「なんだ」


「埃が下へ行きます」


「……行くか」


「行きます」


「二十年、そこは平らだった」


「平らじゃなくなりました」


 千年ぶんの泥が浮いた。塊では浮かない。


 粒になって、底から離れていく。離れた粒が流れに乗った。


 乗って、下がっていく。


 下がった先がいちど濁って、それから澄んだ。


「次だ」


「はい」


「四十枚目から、五十枚目まで飛ぶ」


「間はどうしますか」


「間は無い」


「無いんですか」


「写した者が死んだ」


「そうですか」


「続きから、やれ」


「はい」


 閘門が順に噛んだ。青銅が、上下で互いを見つける音だ。


 見つけて、噛んで、下りる。


 その音が奥へ走っていった。走って、返ってこない。


 返ってこないのは、まだ先があるからだ。


「何番まで行った」


「わからないです」


「音は」


「まだ、鳴ってます」


「三つか」


「四つですね」


「四つ」


「五つ目が、いま鳴りました」


 オズワルドさんは数えずに、次の紙を出した。


 出した手が紙の端を破っていた。破ったことに、気づいていない。



 二日目になった。昼か夜かは、分からない。


 地下には外が無い。分かるのは、灯りの油を三度足したことだけだ。


「ルーク様」


「はい」


「油を替えます」


「お願いします」


「お手を止めずに」


「止めないです」


 指の先が鈍くなっていた。


 石の冷たさが分からない。


 分からないので、目で見て確かめる。


 見て、触れているのを確かめてから、思う。


 その手順が、一つ増えた。増えると、遅くなる。


「止まってる」


「ミオさん」


「奥」


「何がですか」


「押してくる」


「水がですか」


「水じゃない」


 ミオさんの耳が伏せた。伏せたのは、初めて見た。


「戻ってきてる」


「どこまでですか」


「もう、そこ」


 澱みの溜まった区画が、押し返してきた。押し返したのは水ではない。


 水の形をした重いものだ。通ってきた道を逆にたどってくる。


「堰板、支えろ!」


 ダグさんの声が天井を叩いた。


 技師の六人が板に取りついて、肩を入れた。


 板が鳴って、指の幅ぶん下がった。


「下がったぞ」


「押さえろ」


「押さえてます」


「もう一枚だ」


 メッツさんが板を担いで走った。走って、足を滑らせた。滑ったところを、ダグさんが襟で受けた。


「立て」


「はい」


「板だ」


「はい」


 俺は堰板を見なかった。見ても、俺にできることが無い。


 できるのは、上流の石だ。上流が通れば、押し返しは行き先を得る。


「ダグさん」


「言え」


「あと、二百数えてください」


「二百か」


「二百です」


「持たせる」


「お願いします」


「お前は振り向くな」


「はい」


「オズワルドさん」


「なんだ」


「上、開けます」


「持つのか」


「持ちます」


「では、開けよ」


 俺は手を石へ戻して、目を閉じた。背中で板の鳴る音がしていた。鳴る音は、数えないことにした。



 三日目に声が出なくなった。


 喉が痛いのではない。息を吸うのを忘れていた。


「ルーク様」


「……」


「息を」


「……」


「……息をしてください」


 吸った。吸ったら、咳が出た。咳のあいだ、手は石に置いたままだった。


 離すと途中で固まる。途中は、壊れているより始末が悪い。


 背中に手が当たった。当たった手は押さない。支えるだけだ。


 支えられているあいだ、俺の背骨は真っすぐだった。


 真っすぐなら、息が入る。


「シルフィさん」


「はい」


「重くないですか」


「重うございます」


「じゃあ、離してください」


「離しません」


「疲れますよ」


「疲れております」


「すみません」


「謝られますな」


「はい」


「わたくしは、いま、できることがあります」


「ありますね」


「はい」


「水」


「……」


「飲んで」


 ミオさんが椀を口へ当てた。俺は手を離さずに飲んだ。


 こぼれたぶんが、袖を濡らした。誰も、拭かなかった。


 ダグさんは階段の口に立っていた。立って、誰も下ろさなかった。


 役人が来ても、下ろさなかった。伯爵さまの家令が来ても、そこで止めた。


「見るだけだ」


「見るのも、駄目だ」


「なぜだ」


「見られると、気が散る」


「……承知した」


 オズワルドさんは三日、眠らなかった。


 食べたところも、見ていない。


 図面を繰る指だけが動いていた。


 その人が、何度も同じことを言った。


「そこは後世だ」


「はい」


「そこは本来だ」


「はい」


「そこは……わからん」


「飛ばします」


「頼む」


 俺には、どれが後世か分からない。その人には、どれが直せるか分からない。


 二人とも半分しか持っていない。半分ずつしか無い。無いまま、奥へ進んだ。


 最後の一枚が床に落ちた。


「終わりだ」


「これで、全部ですか」


「全部だ」


「四十年ぶんですね」


「……四十年ぶんだ」


 俺は最後の閘門に手を掛けた。掛けた指が、震えていた。


 震えたまま、思った。思うのに、時間がかかった。かかったが来た。


 青銅の粒が隣を探した。探して、噛み合った。


 噛み合う音が上へ抜けた。石の枠が、それを受けた。


「はい、いいですよ」


 手を、離した。門が上がった。


 上がりきって、止まったあと、しばらく何も無かった。


 誰もしゃべらなかった。


 ミオさんの耳が、一度だけ動いた。動いて、そのまま止まった。


 遠くで、水の音がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。