第111話「三日三晩」
「そこは後世だ」
「はい」
「そこは本来だ」
「はい」
「そこは……わからん。飛ばせ」
「はい」
俺は手を右へ滑らせた。滑らせた先の石だけを、思う。
飛ばせと言われた石には触らない。触らないと決めた場所は、そのままにする。
オズワルドさんは俺の左に座っていた。膝の上で紙を繰っている。繰る手だけが、動き続けていた。
「三十七枚目」
「はい」
「そこは、わしが二十九のときに写した」
「新しいですね」
「新しい」
「じゃあ、後世ですね」
「後世だ」
「残します」
石が位置を思い出した。落ちていた角が、隣を探す。
探して、面を合わせた。合わせた面から水の跡が消えていく。
消えたあとに勾配が戻った。
勾配は目には見えない。見えないが、埃が転がりはじめた。
転がる向きが、変わっていた。
「オズワルドさん」
「なんだ」
「埃が下へ行きます」
「……行くか」
「行きます」
「二十年、そこは平らだった」
「平らじゃなくなりました」
千年ぶんの泥が浮いた。塊では浮かない。
粒になって、底から離れていく。離れた粒が流れに乗った。
乗って、下がっていく。
下がった先がいちど濁って、それから澄んだ。
「次だ」
「はい」
「四十枚目から、五十枚目まで飛ぶ」
「間はどうしますか」
「間は無い」
「無いんですか」
「写した者が死んだ」
「そうですか」
「続きから、やれ」
「はい」
閘門が順に噛んだ。青銅が、上下で互いを見つける音だ。
見つけて、噛んで、下りる。
その音が奥へ走っていった。走って、返ってこない。
返ってこないのは、まだ先があるからだ。
「何番まで行った」
「わからないです」
「音は」
「まだ、鳴ってます」
「三つか」
「四つですね」
「四つ」
「五つ目が、いま鳴りました」
オズワルドさんは数えずに、次の紙を出した。
出した手が紙の端を破っていた。破ったことに、気づいていない。
二日目になった。昼か夜かは、分からない。
地下には外が無い。分かるのは、灯りの油を三度足したことだけだ。
「ルーク様」
「はい」
「油を替えます」
「お願いします」
「お手を止めずに」
「止めないです」
指の先が鈍くなっていた。
石の冷たさが分からない。
分からないので、目で見て確かめる。
見て、触れているのを確かめてから、思う。
その手順が、一つ増えた。増えると、遅くなる。
「止まってる」
「ミオさん」
「奥」
「何がですか」
「押してくる」
「水がですか」
「水じゃない」
ミオさんの耳が伏せた。伏せたのは、初めて見た。
「戻ってきてる」
「どこまでですか」
「もう、そこ」
澱みの溜まった区画が、押し返してきた。押し返したのは水ではない。
水の形をした重いものだ。通ってきた道を逆にたどってくる。
「堰板、支えろ!」
ダグさんの声が天井を叩いた。
技師の六人が板に取りついて、肩を入れた。
板が鳴って、指の幅ぶん下がった。
「下がったぞ」
「押さえろ」
「押さえてます」
「もう一枚だ」
メッツさんが板を担いで走った。走って、足を滑らせた。滑ったところを、ダグさんが襟で受けた。
「立て」
「はい」
「板だ」
「はい」
俺は堰板を見なかった。見ても、俺にできることが無い。
できるのは、上流の石だ。上流が通れば、押し返しは行き先を得る。
「ダグさん」
「言え」
「あと、二百数えてください」
「二百か」
「二百です」
「持たせる」
「お願いします」
「お前は振り向くな」
「はい」
「オズワルドさん」
「なんだ」
「上、開けます」
「持つのか」
「持ちます」
「では、開けよ」
俺は手を石へ戻して、目を閉じた。背中で板の鳴る音がしていた。鳴る音は、数えないことにした。
三日目に声が出なくなった。
喉が痛いのではない。息を吸うのを忘れていた。
「ルーク様」
「……」
「息を」
「……」
「……息をしてください」
吸った。吸ったら、咳が出た。咳のあいだ、手は石に置いたままだった。
離すと途中で固まる。途中は、壊れているより始末が悪い。
背中に手が当たった。当たった手は押さない。支えるだけだ。
支えられているあいだ、俺の背骨は真っすぐだった。
真っすぐなら、息が入る。
「シルフィさん」
「はい」
「重くないですか」
「重うございます」
「じゃあ、離してください」
「離しません」
「疲れますよ」
「疲れております」
「すみません」
「謝られますな」
「はい」
「わたくしは、いま、できることがあります」
「ありますね」
「はい」
「水」
「……」
「飲んで」
ミオさんが椀を口へ当てた。俺は手を離さずに飲んだ。
こぼれたぶんが、袖を濡らした。誰も、拭かなかった。
ダグさんは階段の口に立っていた。立って、誰も下ろさなかった。
役人が来ても、下ろさなかった。伯爵さまの家令が来ても、そこで止めた。
「見るだけだ」
「見るのも、駄目だ」
「なぜだ」
「見られると、気が散る」
「……承知した」
オズワルドさんは三日、眠らなかった。
食べたところも、見ていない。
図面を繰る指だけが動いていた。
その人が、何度も同じことを言った。
「そこは後世だ」
「はい」
「そこは本来だ」
「はい」
「そこは……わからん」
「飛ばします」
「頼む」
俺には、どれが後世か分からない。その人には、どれが直せるか分からない。
二人とも半分しか持っていない。半分ずつしか無い。無いまま、奥へ進んだ。
最後の一枚が床に落ちた。
「終わりだ」
「これで、全部ですか」
「全部だ」
「四十年ぶんですね」
「……四十年ぶんだ」
俺は最後の閘門に手を掛けた。掛けた指が、震えていた。
震えたまま、思った。思うのに、時間がかかった。かかったが来た。
青銅の粒が隣を探した。探して、噛み合った。
噛み合う音が上へ抜けた。石の枠が、それを受けた。
「はい、いいですよ」
手を、離した。門が上がった。
上がりきって、止まったあと、しばらく何も無かった。
誰もしゃべらなかった。
ミオさんの耳が、一度だけ動いた。動いて、そのまま止まった。
遠くで、水の音がした。




