第109話「継ぐ」
「鳴ってる」
「どこですか」
「奥」
「石がですか」
「石だ」
俺は耳を壁に当てた。当てても、何も来なかった。
「聞こえないです」
「聞こえる」
「ミオさんだけですね」
「うん」
「危ないですか」
「危なくない」
「じゃあ、あとにします」
「いいの」
「今日は、門なので」
ミオさんはうなずいて、奥のほうを一度見た。見てから、俺の三歩前に立った。三歩前は、この人の場所だ。
門の前に人が並んでいた。オズワルドさんと、メッツさんがいる。
若い技師が六人いた。
いちばん端に家令が立っていた。伯爵さまの家令だ。この人は、命令を復唱しない。
「八日目です」
「そうだ」
「期限は、十日ですね」
「十日だ」
「二日、余ってます」
「余っておらん」
「余ってますよ」
「明日、水が要る」
「そうですね」
俺は門の前にしゃがんだ。石の色は前と同じだった。
右が、灰色。だが、左が、灰色でない。
境目はまっすぐではない。刷毛を途中で止めた形のままだ。二十年、そこで止まっている。
「オズワルドさん」
「なんだ」
「壊すのは、しないです」
「わかっとる」
「作り直すのも、しないです」
「では、何をする」
「続きから、やります」
「……続き」
「はい。半分、終わってるので」
その人は答えずに、灯りを持つ手を下げた。下げたので、俺の手元が暗くなった。
メッツさんが横から灯りを入れた。
「技師長」
「……」
「灯りが、下がっております」
「……ああ」
「私が持ちます」
「頼む」
俺は掌を石に当てた。当てた場所は、境目の上だ。
左でも、右でもない。止まったところに、置いた。
目を閉じた。思うのは門ではない。石の左半分だ。
左半分は、もう本当の色をしている。本当を右へ移す。
移すのではない。左が覚えているものを、右に思い出させる。
指の下が温くなった。温いのは、石が動いているからだ。
境目が動いた。刷毛の跡が右へ滲んだ。滲んだところから、色が変わっていく。
灰色が深い色になる。濡れて見えるのに、乾いている。
塩の粒が面に浮いた。浮いて、はじけて、散った。
散った粒が灯りの中で光った。
千年ぶんの塩だ。
「塩が出ております」
「出ますね」
「石から、でございますか」
「石からです」
「拭いましょうか」
「触らないでください」
「はい」
「落ちるので、そのままで」
色は指の幅ずつ進んだ。速くはない。
速くしようとすると、止まる。
石の端まで半刻かかった。半刻で境目が消えた。消えたあとは、どこが半分だったか分からない。
「……境が、無い」
「無くなりました」
「どちらが左だ」
「わからないです」
「わからんのか」
「両方、同じなので」
次は、青銅だ。左の歯は光っている。
右の歯には、緑青が乗っている。厚く乗って、粉を吹いていた。
俺は両方に手を掛けた。
左の歯は冷たい。右の歯はぬるい。
同じ門の、同じ金属だ。
左から、右へ、手を滑らせた。滑らせた道に、緑が薄くなった。
緑青は剥がれなかった。剥がれずに、下へ沈んだ。沈んで、地肌に吸われた。
吸われた面が灰色になった。
灰色の中で結晶の目が動いた。
目が隣を探した。探して、噛み合った。噛み合うたびに、小さい音がした。
「音が、増えとる」
「増えてます」
「何の音だ」
「噛み合う音です」
「歯車ではないぞ」
「歯車じゃないです」
「では、何が噛む」
「粒です」
「粒」
「小さいのが、隣を探してます」
「探して、どうなる」
「見つけたら、面になります」
その音が、右へ移っていく。
左の歯が、右の歯へ教えていた。教わった歯から、鏡になった。
鏡が灯りを返した。返した光が上へ走った。上へ走って、門の頂で止まった。
「はい、いいですよ」
俺は手を離した。離した瞬間、門が鳴った。
鳴ったのは、歯だった。上下の歯が互いを見つけた音だ。
見つけて、噛んだ。噛んで、下りた。
下りるとき、石の枠が受けた。受けた音は、低かった。
低いのに、階段の上まで届いた。届いた音が戻ってきた。戻ってきた音を、誰も遮らなかった。
閘門が閉じた。二十年ぶりだった。
誰も動かなかった。
メッツさんの灯りが傾いていた。傾いたまま、直されなかった。
ダグさんは腕を組んでいた。
シルフィさんは目を閉じていた。閉じたまま、口が動いていた。
声は、出ていない。
「メッツさん」
「……はい」
「灯り、傾いてますよ」
「……失礼」
「濡れると、消えるので」
「はい」
「大丈夫ですか」
「……四十年、この門は閉じませんでした」
「そう聞きました」
「私は、十二年です」
「十二年ですか」
「十二年、閉じないものだと思っておりました」
「閉じましたね」
「……閉じました」
オズワルドさんが動いた。その人は抱えていた図面の束を下ろした。下ろして、上から一枚、抜いた。
抜いた紙を、灯りへ向けた。
「オズワルドさん」
「なんだ」
「それ、七番のですね」
「七番だ」
「いつのですか」
「三十一年前」
「古いですね」
「古い」
「よく残ってますね」
「毎年、写し直しとる」
「三十一回ですか」
「三十一回だ」
その人は紙を両手で持った。持って、真ん中から裂いた。
裂く音は、乾いていた。
もう一度、裂いた。
四つになった。
「もう、いらん」
「はい」
「これは、直せんという紙だ」
「そうですか」
「直せんものを、三十一回、写した」
「はい」
「馬鹿な話だ」
「そんなことないですよ」
「なぜだ」
「三十一回、見てたってことなので」
その人は手を開いた。紙が落ちた。
落ちた先に、水が残っていた。底に溜まった、指ひとつぶんの水だ。
紙は面で浮いた。浮いて、端から色が変わった。
線が滲んだ。滲んで、読めなくなってから、沈んだ。
誰も拾わなかった。
家令が前へ出て、門の前に立った。立って、上から下まで見た。
見るのに、時間をかけた。
途中で、二度しゃがんだ。二度とも、歯の噛み合わせを見た。
「……八日目にて、条件は満たされました」
「はい」
「復命いたします」
「お願いします」
「一つ、伺ってよろしいか」
「はい」
「これは、修理でございますか」
「違います」
「では、なんと」
「続きです」
「……承知しました」
家令はそれ以上聞かなかった。聞かずに、階段のほうへ歩いた。
メッツさんが上流の口を見上げた。
「技師長」
「……」
「開けます」
「開けよ」
上の弁が鳴った。鳴ったあと、静かになった。
水が来る音を、待った。
十を数えた。
二十を数えた。
五十まで、数えた。
「ミオさん」
「……」
「来てますか」
「来てない」
「上ですか」
「上でも、動いてない」
門は閉じている。閉じた門は、正しく水を止める。止めるものが来ていない。
七番は、通った。
通っても、その上が死んでいた。
十二の区画のうち、七割だ。




