第108話「【幕間】見習いの夜」
ミオは寝ていなかった。寝台の上で、目を開けている。開けたまま、天井の梁を数えていた。
梁は七本ある。七本目まで数えると、また一本目に戻る。
三晩、それをしていた。
落とした音を、覚えている。乾いた音だった。
石床は音をよく返す。返した音の長さまで、耳が覚えていた。
覚えてしまったものは消えない。斥候の耳はそういう作りになっている。
隣の寝台でシルフィが眠っている。
エルフの息は細い。細いのに、間隔が一定だ。この人は眠り方まで揃っている。
ミオはそっと起き上がった。床板が鳴らない場所を、三日で覚えていた。
覚えるのは得意だ。得意なことだけが増えていく。
窓の枠に足を掛けて、外へ出た。
瓦は湿っていた。王都の瓦は夜に湿る。
湿ると、滑る。滑る面の歩き方は、体が知っている。
爪を立てず、指の腹で乗る。
腹で乗ると、音が出ない。
屋根の峰まで、七歩だった。
峰に、先客がいた。
「早いな」
「……ダグ」
「座れ」
「そこ、滑る」
「もう座ってる」
「落ちても知らない」
「落ちたら拾え」
ミオは二歩離れて座った。二歩は、逃げるのに要る距離だ。
誰に習ったのでもない。テオがいつもその距離にいた。
下町の灯りが、坂に沿って並んでいて、途中で切れていた。切れた先は、水の来ない側だ。
灯りが無いのではない。油を買う銭を、水に使っている。
ミオは耳を動かした。動かすと、音が仕分けられる。
いちばん近いのが、宿の樋の滴りだ。
その下に、荷車が二台。もっと下に、犬が三匹。
東の井戸の桶が鳴っている。桶の音の向こうに、人の列がある。
列はこの時刻でも動いていた。
もう一つ、下から来る音がある。石を通って上がってくる、低い音だ。
あれだけは仕分けられない。
「聞こえてるのか」
「うん」
「何が聞こえる」
「全部」
「多いな」
「多い」
「疲れるだろう」
「慣れてる」
「慣れてないから、寝てないんだろう」
「寝てる」
「何日だ」
「……三日」
「三日、寝てないんだな」
「寝てる。目は閉じてる」
「それは寝てるとは言わん」
「言う」
「言わん」
「うるさいニャ」
「そうか」
ミオは返さなかった。返さないのを、ダグは待たなかった。
「三日前だ」
「……なに」
「あいつが、水の中で手を止めた」
「止めてない」
「止めてた」
「見てない」
「俺は後ろにいた」
ミオは膝を抱えた。抱えた腕に、顎を載せた。
「あの水は、上から来てた」
「うん」
「音が変わったのは、三つ数えるぶん先だ」
「二つ」
「二つか」
「二つと、半分」
「お前が言った」
「言った」
「言われて、みんな下がった」
「下がっただけだ」
「下がらなけりゃ、流されてた」
「流されない。あいつは重い」
「あいつは重い。だが、手は水の中だ」
「手を抜けばいい」
「抜かん」
「抜けって言えばいい」
「言っても抜かん」
「じゃあ、どうしようもない」
「だから、先に言うんだ」
「先に」
「あいつが手を入れる前にな」
ダグはそこで一度、言葉を切った。
「お前の耳がなけりゃ、あいつは水の中で手を止めてた」
ミオは顔を上げなかった。上げないまま、耳が一度だけ倒れた。
「……あたし、直せないニャ」
「知ってる」
「あんたも知ってる」
「知ってる」
「みんな知ってる」
「そうだな」
「あたしだけ、何もできない」
「直すのはあいつの仕事だ」
「うん」
「お前の仕事は、先に行くことだろう」
ミオは少し黙った。黙ってから、言った。
「先に行って、危ないって言うだけニャ」
「そうだ」
「それだけだ」
「それだけで、人は死なずに済む」
ダグはそれ以上を言わずに、木の手で膝を押さえた。
木の手は、夜に鳴る。
乾くと、鳴る。
鳴らないように、押さえていた。
ミオはその手を見た。見て、目を戻した。
誰も慰めなかった。
だが、慰められなかったので、逃げ場が無かった。逃げ場が無いと、考えるしかない。
ミオは考えた。
壊さない練習、と言われた。あの日から、意味が分からなかった。分からないまま、袋を掛けていた。
道具は、落とした。落としたのは、練習していなかったからだ。
いや、と思い直す。練習は、していた。
床板の鳴らない場所を覚えた。
瓦の乗り方を覚えた。
水の音が変わる先を、二つと半分で数えた。
それは、全部、壊さないためのものだ。
自分が壊れないためではない。
先に行って、何も動かさずに戻ってくる。動かさなければ、そこは壊れない。
壊れていない場所へ、あいつが来る。来て、直す。順番がそうなっている。
「ダグ」
「なんだ」
「あいつ、なんであたしを怒らなかったと思う」
「知らん」
「知らないの」
「知らん」
「考えたことある」
「ある」
「答えは」
「無い」
「あんた、リーダーだったのに」
「昔だ」
「昔でも、答えは持ってた」
「持ってたのは、退路だ」
「退路」
「答えじゃない」
「役に立たない」
「役に立つ話をしに来たんじゃない」
ミオは笑いかけて、やめた。やめたのは、笑うと涙が出るからだ。三日、それも覚えた。
朝になった。土間に道具袋が置いてある。
ミオはそれを両手で持ち上げて、胸に抱えた。
肩には、掛けない。
肩は、滑る。
「ミオ」
「……なに」
「掛け方が、また逆でございます」
「掛けない」
「掛けないのですか」
「抱える」
「重うございましょう」
「重い」
「では」
「重いほうが、落とさない」
シルフィはそれきり何も言わずに、袋の紐だけを結び直した。
結び直した紐は短くなっていた。短いと、胸から離れない。
「ミオさん」
「……なに」
「それ、俺が持ちますよ」
「持たない」
「重いですよ」
「重くない」
「そうですか」
「あたしが運ぶ」
「じゃあ、お願いします」
ルークはそれだけだった。返せとも、無理をするなとも言わなかった。
ミオは先頭に立った。立つ場所は、決まっている。
いちばん前だ。いちばん前は、いちばん先に落ちる。
落ちる役目を、返上する気は無かった。
石蓋が開いた。段は百二十七ある。
降りるあいだ、ミオは数えなかった。数えるのはあいつの癖だ。
自分は、聞く。
六十段で、耳が動いた。
九十段で、もう一度動いた。
百二十七段目で、床に着いた。着いた足の裏に、震えが来た。
足からではない。耳からだった。
低い音が、奥から来ている。三日前よりはっきりしている。
風ではない。
水でもない。
鳴っているのは、石だった。




