第107話「石の腕」
門の手前の壁に、低い口があった。水があったときは、見えなかった口だ。高さは腰までない。
「これ、なんですか」
「逃がしだ」
「水をですか」
「溢れたぶんを、横へ捨てる」
「どこへ捨てるんですか」
「知らん」
「知らないんですか」
「四十年、入っておらん」
「入れなかったんですね」
「水があった」
俺は灯りを口へ入れた。中は思ったより深い。
石が乾いている。乾いているのに埃が無い。
「ミオさん」
「なに」
「音、しますか」
「……しない」
「そうですか」
「しなさすぎるニャ」
「どういうことですか」
「穴は、鳴るもんだ」
「鳴らないんですね」
「鳴らない」
四つん這いで、入った。肩が両側に擦れる。擦れるので、道具袋は先に押した。
押すと、石の上を滑った。
滑る面は磨いてある。磨いたのは水ではない。
水はこういう磨き方をしない。
二十歩ほどで天井が上がった。上がった先が部屋になっていた。部屋というより、行き止まりだ。
俺は立ち上がって灯りを回した。回した先に人がいた。
人ではなかった。石だった。
人の形をした石が座っている。膝に、片手を置いている。
背はまっすぐだ。
千年、その背のままだったのだと思う。
左の腕が無い。肘からではない。肩から、無い。
「オズワルドさん」
「……」
「これ、なんですか」
「……知らん」
「番号は」
「振っておらん」
「十二の区画に、入ってないんですね」
「入っておらん」
「なんでですか」
「振れんかった」
「振れなかったんですか」
「四十年、振れんかった」
「番号がないと、困りますよね」
「困る」
「困っても、振らなかったんですね」
「振れば、直すか壊すかになる」
「そうですね」
「わしは、どちらもできん」
灯りを近づけた。石の目に、線が走っていた。線は一本ではない。
幾筋も、斜めに入っている。
継いだ跡だ。継いだ材の色がそこだけ違う。
白いのがあり、灰色のがあり、赤いのがある。
赤いのはいちばん新しい。新しいといっても、俺より古い。
顔にあたるところは平らだった。目も、鼻も、口も、無い。
彫っていないのではない。磨り減って、残っていないのだ。
磨り減り方が縦に長い。
上から下へ、何かが繰り返し当たっている。水ではない。水なら、縁から丸くなる。
これは、真ん中から凹んでいた。布で拭いた形に、近い。
シルフィさんが膝を折りかけた。折りかけて、途中で止まって、そのまま立ち直した。
「シルフィさん」
「……はい」
「跪くんですか」
「……いえ」
「やめたんですね」
「……何に跪くのか、分かりませんでした」
「そうですか」
「分からぬまま跪くのは、失礼にあたります」
「そういうものですか」
「そういうものでございます」
ミオさんは来なかった。穴の口で、止まっている。
顔だけ出して、こちらを見ていた。
「ミオさん」
「行かない」
「怖いですか」
「怖くない」
「じゃあ、なんですか」
「あそこ、あたしの仕事じゃない」
「わかりました」
「そこにいて」
「はい」
俺はしゃがんで、膝の上の手に触れた。石は冷たかった。冷たいのに、指が離れにくい。
目を、閉じた。
思う。
この石が、どんな形だったかを思う。
思った。
形が来た。
来たが、一つではなかった。二つ、来た。
二つとも、違う形をしている。どちらも、まともに作ってある。
三つ目が、来た。四つ目が、来た。
手が進まない。進まないので、目を開けた。
「オズワルドさん」
「……なんだ」
「これは、直せません」
その人は返さなかった。返さないまま、一歩、近づいた。
「聞こえなかったですか」
「聞こえた」
「直せないです」
「……もう一度、言え」
「直せません」
「なぜだ」
「何度も作り変えられてます」
「作り、変えられて」
「はい」
「どういうことだ」
「もとの形が、一つじゃないんです」
「一つで、あろう」
「四つ、ありました」
「四つ」
「もっとあるかもしれないです」
「……どれが、もとだ」
「それが、決められないんです」
「決めよ」
「決められないです」
「頼んでおる」
「頼まれても、決められないです」
オズワルドさんの手が動いて、壁に着いた。着いた手が震えていた。
「……作り変えた者がいた、ということか」
「そうなりますね」
「千年のあいだに」
「はい」
「何のためにだ」
「たぶん、直すためです」
「直す」
「直そうとした人が、何人もいたんだと思います」
「……何人も」
「はい」
「直したのなら、なぜ元に戻さん」
「戻せなかったんだと思います」
「では、何をした」
「その人の思う、いちばんいい形にしました」
「……よかれと」
「たぶん、そうです」
「その積み重ねが、これか」
「これです」
その人はしばらく黙って、石の膝を見ていた。
「腕は、どこへ行った」
「わからないです」
「折れたのか」
「折れてないです」
「なぜ分かる」
「折れた面じゃないので」
俺は肩へ灯りを回した。断ちきった面は、平らだった。平らな上に、丸い穴が三つある。
穴は深い。中で、少しねじれていた。
差して、回して、留める穴だ。留めるためのものは、外せるようにできている。
外したのは、壊した人ではない。
「外してますね」
「外した」
「持っていったんだと思います」
「誰がだ」
「わからないです」
「……そうか」
俺は断面の縁を指でなぞった。なぞった指が、途中で引っかかった。
引っかかったところに、線がある。彫った線だ。
細い。
一本しか、無い。
「オズワルドさん」
「なんだ」
「線が、あります」
「見せろ」
「ここです」
「……刻みか」
「違います」
「なぜ言い切れる」
「一本しかないので」
「一本」
「三本並んでないですし、はねてもいないです」
「……では、なんだ」
「途中です」
線は上から下へ途中まで来ていた。来て、そこで止まっている。止まった先は何も彫られていない。
彫る気がなくなったのではない。
鏨の当たりが、最後まで同じ深さだった。
途中でやめる人の線は、こうならない。
「彫りかけです」
「彫りかけ」
「はい」
「何を彫るはずだった」
「わからないです」
「分からんのか」
「一本では、分からないです」
「……そうか」
「たぶん、続きを彫る前に手を止めてます」
灯りを下げた。線は消えなかった。
消えないまま、そこで途切れていた。




