第106話「拾われた日」
「二十年前ですか」
「二十年前だ」
「この下にですか」
「この下だ」
俺は紙を見てから、金槌を見た。
二つは石の上に並んでいるのに、頭の中で繋がらない。
親方は道を歩いている人だった。荷を担いで、冬に来て、春に出ていく人だ。その人が、この石の下に立っていた。
「親方、王都で仕事してたんですね」
誰も返さなかった。
「知らなかったです」
「……」
「一度も聞いてないので」
「……」
「なんで教えてくれなかったんだろう」
言ってから、少し考えた。考えて思い当たった。
「たぶん、終わらなかったからですね」
「……終わらなかった」
「半分でやめてるので」
「それが、どうした」
「終わってない仕事は、話にならないんです」
「なぜだ」
「途中の話は、途中までしか言えないので」
「言えばよかろう」
「言うと、聞いた人が続きを待つので」
「待たせて、なにが悪い」
「戻らないつもりだったんだと思います」
オズワルドさんは口を開けて、そのままになった。閉じるまでに、間があった。
「二十年前だと、俺は八つです」
「八つ」
「拾われたのは、十のときなので」
「……二年」
「二年、前ですね」
「……」
「思ったより、近かったです」
それだけだった。それ以上、出てこなかった。
「ルーク」
「はい」
「近いって、なんだ」
「二年です」
「二年が、どうした」
「歩けば、着く距離ですよ」
「そういう話か」
「そういう話です」
「……そうか」
ダグさんはそれきり黙って、灯りを持ち替えた。持ち替える必要は、無かったと思う。
「ルーク様」
「はい」
「悲しくは、ございませんか」
「悲しくないです」
「……はい」
「働いてたなら、よかったです」
「よかった、と」
「はい」
「なぜでございましょう」
「村へ来る前は、仕事が無いのかと思ってたので」
「……無い、と」
「あったなら、いいです」
シルフィさんは返事をしないまま、灯りを下げた。
下げた先に、俺の手があった。照らされているのは、手だけだった。
俺は紙を畳んで返した。畳み方は、もとの折り目に合わせた。合わせないと、紙は傷む。
金槌は袋の底へ入れて、口を絞った。絞った紐が指に食い込んだ。
「ルーク」
「はい」
「その袋、あたしが運ぶ」
「いいですよ、持ちます」
「運ぶ」
「重いですよ」
「重くないニャ」
「じゃあ、お願いします」
ミオさんは両手で受け取った。片手で持てるものを、両手で持った。持って、肩ではなく胸に抱えた。
「上がりましょう」
「……ああ」
「百二十七段です」
「知っとる」
「足元、見てくださいね」
「わかっとる」
シルフィさんが灯りを持った。持った手がいつもより高い。高いのは、俺の足元を照らすためだ。
この人は、そういう持ち方をする。
宿の帳場に、椅子が一脚ある。座ると、右の前脚が鳴る。
「それ、鳴りますね」
「鳴るよ」
「いつからですか」
「四年」
「直していいですか」
「銭は無いよ」
「いらないです」
「なら、勝手にしとくれ」
「はい」
主人はそれきり奥へ入った。
銭の話を先にするのは、正しい。あとで言われるほうが、困る。
俺はその椅子を土間へ下ろした。下ろして、ひっくり返した。
脚の穴が広がっている。広がった穴に、木片が噛ませてあった。
噛ませたのは、素人の手だ。悪い手ではない。
だが、木の目が横になっている。横だと、割れる。
俺は楔を削った。削る音は細いのに、階段を上っていく。
二階から、声が下りてきた。四人が上にいる。
灯りは一つだ。
一つしか点けないのは、油を惜しむからではない。寄って話すときは、そうなる。
俺が削ると上の声が止まった。止めると、また始まった。
三度、そうなった。三度目で、削るのをやめた。
やめたのは、削り終わったからだ。
楔を穴へ当てた。当てて、掌で押した。
金槌は使わなかった。使うほどの穴ではない。
「はい、いいですよ」
椅子を起こして、座ってみた。鳴らなかった。
音が無くなると、上がよく聞こえた。
「……あの方は」
シルフィさんの声だった。いつもの声ではない。
息が途中で引っかかっている。
「あの方は、十歳の子を納屋から拾ったのです」
「……」
「村の名も、知らぬ土地で」
「……」
「その二年前に、この町の下へ降りております」
誰も答えなかった。
「降りて、半分だけ直して、去りました」
「……」
「そして、村へ行きました」
「……」
「……偶然だと、思われますか」
声が震えていた。この人が震えるのを、俺は初めて聞いた。
脚を失いかけたときも、震えなかった人だ。その人が、言葉の途中で息を継いでいた。
誰も答えなかった。
答えないまま、床が一度鳴った。ダグさんが座り直した音だ。
「俺には、分からん」
「……はい」
「分からんものを、分かったとは言わん」
「はい」
「言うと、あとで人が死ぬ」
「……はい」
ミオさんは何も言わなかった。この人は、分からないときに口を挟まない。
斥候はそういう仕事だ。
しばらく、誰も喋らなかった。
灯りの芯が、上がる音だけがした。
俺は椅子の脚をもう一度触って、揺すった。
揺すっても、動かない。
偶然、という言葉が上から降りてきた。何の話か、分からなかった。
水道の話だと思っていた。思っていたので、そのままにした。
道具袋は、土間の隅にあった。
ミオさんが、置いていったものだ。
俺はそれを引き寄せた。引き寄せて、紐を結び直した。
結び目は、親方と同じ形にする。
同じ形にすると、片手で解ける。
教わったのは、拾われた年だ。その年のことは、あまり覚えていない。
覚えているのは、藁の匂いだけだった。
上の声が途切れた。途切れたところへ、低い声が入った。
オズワルドさんだ。四十年、地下で使ってきた声だ。
地下で通る声は、木の床でも通る。
「聖女どの」
「はい」
「偶然かどうかは、わしにも分からん」
「……はい」
「分からんことを、四十年やってきた」
「はい」
「だが」
「……はい」
「はっきりしていることが一つある」
誰も、何も言わなかった。
俺は椅子から立ち上がった。立ち上がって、それを帳場へ戻した。
戻す途中で、足が止まった。止まったのは、脚が鳴らないか確かめたからだ。
鳴らなかった。
「あの男は、直せなかった」
「……」
「……あんたの弟子は、直せる」




