第105話「印」
柄に掌を載せた。載せて、目を閉じた。
樫の木を、思う。思うのは、割れる前ではない。立っていたときの木だ。
立っていた木は水を上げていた。上げた水が木の目を通る。通った跡が、いまも中に残っている。
残っているものは覚えている。覚えているものは戻れる。
割れ目の奥が湿った。湿ったところから、色が変わった。
白かった面が、飴色になっていく。なりながら、端が動いた。
繊維が一本ずつ起き上がる。起き上がって、隣を探す。
探して、噛み合う。噛み合った先から、線が消えていく。
消えるのは上からだった。
口金の際が、先に閉じた。
閉じた場所はもう爪が入らない。閉じるとき、音がした。
木が木に当たる音だ。小さいのに、通った。
匂いが立った。樹脂の匂いだ。乾いた樫からは出ない匂いだった。
「木の匂いがする」
「しますね」
「ここは、石の下だぞ」
「木なので」
「割れは」
「閉じました」
「見えん」
「灯り、こっちです」
「……閉じとる」
「はい」
「継いだのではないのか」
「継いでないです」
「膠は」
「使ってないです」
「では、なぜ付く」
「もとが、一本なので」
「一本」
「割れても、一本です」
俺は掌を少し下げて、握りの手前で止めた。
窪みはそこから先にある。四つ並んだ、指の跡だ。
あれは壊れていない。減ったのであって、壊れたのではない。
減ったものを戻すのは、やりすぎだ。
だから、載せない。載せずに手を離した。
柄はまっすぐになっていた。まっすぐなのに、窪みだけが残っている。
残った窪みが灯りで陰になった。陰の形は、指四本ぶんのままだった。
「ルーク様」
「はい」
「そこは」
「直しません」
「よろしいのですか」
「よくないです」
「では」
「よくないですけど、直しません」
「……はい」
「これは、使って減ったやつなので」
「次は」
「鉄です」
「速いのか」
「速いです」
「木より、か」
「はい」
「なぜだ」
「鉄のほうが、簡単なので」
「簡単、と申したか」
「言いました」
「千年の石は」
「あれは、簡単じゃないです」
掌を頭に被せた。被せた下で、粒が動きはじめた。
錆は赤黒い。赤黒いところが薄片になった。
薄片は端から浮いた。浮いて、離れて、落ちた。
落ちた粉が、石の上に積もった。積もったのは、指の先ほどだった。
「落ちとるぞ」
「錆です」
「それだけか」
「十五年ぶんです」
「少ないな」
「油を差してたので」
「誰がだ」
「俺です」
「毎日か」
「毎日です」
下から地肌が出た。地肌は灰色だった。灰色の中に、結晶の目が見える。
目が互いを探して、噛み合って、面になった。
面が灯りを返しはじめた。返した光が、細く走った。
「はい、いいですよ」
俺は金槌を持ち上げて、握った。
握ると、指が一本ぶん余った。余るところも、そのままだ。
頭の平らな面を灯りへ向けた。向けたとき、そこに刻みがあった。
彫った刻みではない。鋳込んだのでもない。地肌と同じ高さで、色だけが違う。
線は四本ある。
三本が横に並んでいる。一本が下から上へ抜けている。
抜けた先が、右へはねている。はねの向きに、見覚えがあった。
線の数も、はねの向きも、同じだった。
俺は少し傾けた。傾けても、消えなかった。消えないのは、錆の下にあったからだ。
俺はそれを見ていた。見て、思ったことを言った。
「親方、いい道具持ってたんだなあ」
誰も、返さなかった。
返さないので、油の音だけがした。
「オズワルドさん」
「……」
「刻みが、出ました」
「……」
「屋号だと思うんですけど」
「……」
「どこの工房ですかね」
「……」
「聞いておけば、よかったです」
「……」
「まあ、いいですけど」
シルフィさんが両手で口を押さえた。押さえた指の隙間から、息が漏れた。
漏れた息が続かない。肩が上下していた。上下しているのに、声が出ない。
この人は、驚くときに音を立てない。立てないまま、目だけが動いていた。
金槌と、俺と、また金槌を見た。三度、往復した。
「シルフィさん」
「……」
「どうかしましたか」
「……」
「座りますか」
「……いえ」
「顔、白いですよ」
「……はい」
ミオさんは何も言わなかった。言わずに、金槌を見ていた。耳が真横に倒れている。
この人は、意味がわからないときにそうなる。意味がわからないのは、俺も同じだ。
ダグさんが通路から戻ってきた。
「終わったか」
「終わりました」
「見せろ」
「はい」
ダグさんは一歩で止まった。止まって、それきり動かなかった。
「ダグさん」
「……」
「どうかしましたか」
「いや」
「顔、怖いですよ」
「もとからだ」
「そうですか」
「その頭を、もう一度こっちへ向けろ」
「はい」
「……いい。しまえ」
オズワルドさんが立ち上がった。椅子を使っていないのに、立ち上がった。しゃがんでいたのだと、そこで気づいた。
その人は上着の内へ手を入れた。入れて、布を出した。布の中に紙が一枚ある。
四つに折った跡が、擦り切れかけている。地上の抽斗にあった紙を、持ち歩いていた。
「見せろ」
「はい」
「そこへ、置け」
「置きます」
俺は金槌を石の上に置いた。頭の面を上へ向けた。
その人は紙を広げた。広げて、金槌の横へ並べた。
並べる手が、震えていた。震えているのに、位置は正しかった。
灯りを二つ寄せた。寄せると、紙の隅が見えた。
図面の外側だ。
寸法の並びより、さらに外。
紙の縁に近いところに、走り書きがある。走り書きの、いちばん端だ。
そこに、形があった。
線が四本ある。
三本が横に並んでいる。一本が、下から上へ抜けて、右へはねている。
俺は灯りをもう少し寄せた。寄せて、二つを見比べた。
紙のほうは、細い筆で書いてある。金槌のほうは、書いたものではない。
道具が違う。書いた面も違う。
違うのに、はねの止まる場所が同じだった。
止まる場所は、教えて揃うものではない。
「オズワルドさん」
「……」
「これ、同じですね」
「……」
「筆と、鉄ですけど」
「……」
「同じです」
「……ルークとやら」
「はい」
「もう一度、言え」
「同じです、ですか」
「親方の名だ」
「ヴァルトです」
「……ヴァルト」
「はい」
「屋号は」
「無いです」
「無いのか」
「流れの職人だったので」
「どこの生まれだ」
「聞いてないです」
「どこで死んだ」
「冬の、村です」
「……そうか」
その人は答えなかった。答えずに、紙の縁を押さえていた。
押さえた指が紙を皺にしかけた。しかけて止まった。止めてから、ゆっくり離した。
顔を上げなかった。上げないまま、口が動いた。
声は出ていなかった。二度目で、出た。
「……あんたの親方は、二十年前、この下に立っていた」




