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第104話「割れた柄」

 袋の口が開いていた。開いた口から、金槌だけが出ていて、石の上に転がっている。


 鑢は三本とも中に残っていた。油の壜も割れていない。


 出たのは、金槌だけだ。


 俺は拾い上げて、灯りへ向けた。


 柄に線が入っていた。線は、口金の際から下へ走っている。


 まっすぐではない。


 木の目に沿って、少し斜めだ。樫はそういう割れ方をする。


 爪を当てると、入った。入るということは、抜けているということだ。


「ルーク」


「はい」


「……割れたか」


「割れましたね」


「あたしだ」


「そうですね」


「怒れ」


「怒りませんよ」


「怒れって」


「怒らないです」


 ミオさんの耳が寝ていた。寝たまま、動かない。尻尾も下がっていた。


 顔は白かった。白いというより、色が抜けていた。


 俺は金槌を膝に置いて、灯りの向きを変えた。割れの奥まで、見えるようにした。


 奥は白かった。新しく割れた木は、白い。


 白いところに油が入っていない。入っていないので、乾いている。乾いた面は指に引っかかった。


 置いて、しばらく何も言わなかった。言うことが、無かったからだ。


 言うことが無いときに喋ると、噓になる。


「ルーク様」


「はい」


「……お怪我は」


「無いです」


「そうですか」


「はい」


 シルフィさんはそれ以上聞かずに、灯りを近づけただけだった。近づけた灯りが少し揺れていた。


 俺は柄を指でなぞった。口金の下から、握りへ下りる。


 途中で、指が沈むところがある。沈むのは、木が減っているからだ。


 減り方が四つ並んでいる。


「これ、見えますか」


「見えます」


「ここ、窪んでるでしょう」


「窪んでおります」


「親方の手です」


 シルフィさんは何も言わなかった。


「指四本ぶんです」


「はい」


「俺の指だと、合いません」


「合いませんか」


「一本ぶん、余ります」


「……はい」


「握ると、いつも余ります」


「十五年、でございますか」


「十五年です」


「余ったままで」


「余ったままです」


 金槌の頭は四角い。角が丸くなっている。丸いのは、当てた回数のぶんだ。


 片側だけ、多く丸い。


 右利きの丸まり方だった。親方も、右だった。


「これ、親方が使ってたやつなんです」


「伺っております」


「袋も、鑢も、そうです」


「はい」


「鑢は、三本とも目が減ってます」


「使えますか」


「使えます」


「減っていても」


「減った鑢は、減った鑢の仕事があります」


「そうなのですか」


「新しいのだと、削れすぎるので」


「では、減るのを待たれるのですか」


「待ちます」


「どのくらい」


「三年くらいです」


「三年」


「三年で、ちょうどよくなります」


「そのあとは」


「そのあとは、ずっと使えます」


「減り続けても、ですか」


「減り方が、止まるんです」


 俺は袋から鑢を出した。出して、並べた。


 三本とも握りの色が濃い。濃いところが同じ位置にある。親方の指と、俺の指が、同じ場所を持っている。


 油の壜も出した。栓はもとのものではない。木を削って、合わせてある。


 削ったのは、親方だ。削り跡が、荒い。荒いのに、漏れない。


「これ、栓が違うんです」


「違いますか」


「作ったんです」


「なぜ、買われなかったのでしょう」


「合うのが、無かったんだと思います」


「では、直せば」


「直しません」


「……はい」


「壊れてないので」


 俺は袋の内側を裏返した。焼き印が黒く光っている。寸法の表は七行ある。


 行の数は増えていない。


 増えないのは、足す人がいないからだ。


「これも、親方です」


「はい」


「俺、この道具は一度も直したことないんです」


「一度も、でございますか」


「一度もです」


「十五年」


「十五年です」


「なぜでしょう」


「壊れてなかったので」


 ミオさんがしゃがみ込んだ。しゃがんで、膝を抱えた。


 抱えた腕の中に、顔を入れていた。


「弁償するニャ」


「いいですよ」


「する」


「いいです」


「金槌くらい、買える」


「買えますね」


「じゃあ、買う」


「買っても、これにはならないので」


 顔が上がった。


 上がった顔が、また歪んだ。


「弁償できるものじゃないので、いいです」


 言ってから、まずかったと気づいた。気づいたが、噓を足す気にもならなかった。


 ミオさんは声を出して泣いた。この人が声を出すのは、珍しい。


 斥候の癖で、いつもは音を殺す。殺せないほど、泣いていた。


「ごめん」


「はい」


「ごめん」


「大丈夫ですよ」


「大丈夫じゃない」


「そうですね」


「なんで怒らない」


「怒る理由が、無いので」


「ある」


「無いですよ」


「ルークの、大事なやつだ」


「そうですね」


「大事なのを、壊した」


「壊そうと思って壊してないので」


「壊した」


「落としたんです」


「同じだ」


「違いますよ」


 シルフィさんは止めずに、ミオさんの背に手を置いた。


 置いただけで、撫でなかった。撫でると余計に出る。この人は、それを知っている。


 ダグさんは黙って外へ出た。出るとき、こちらを見なかった。見ないで出るのが、この人の優しさだと思う。


 オズワルドさんは動かなかった。立ったまま、金槌を見ている。


 見ているのは、柄ではなかった。頭の、鉄のほうだ。


「オズワルドさん」


「なんだ」


「どうかしましたか」


「……いや」


「そうですか」


「その頭は、錆びとるな」


「錆びてます」


「拭かんのか」


「拭いてます」


「拭いて、それか」


「油を差すだけなので」


「磨かんのか」


「磨きません」


「なぜだ」


「減るので」


 俺はもう一度、割れを見た。


 割れは、深い。


 振れば、外れる。


 外れれば、頭が飛ぶ。


 飛べば、誰かに当たる。


 これは、もう使えない。


 使えないものは、壊れている。


 壊れているものは、直す。


 それだけだ。


「ミオさん」


「……」


「顔、上げてください」


「やだ」


「上げてください」


「なんで」


「見ててほしいので」


 ミオさんが袖で顔をこすって、こちらを見た。目が、赤い。


 俺は金槌を石の上に置いて、掌を柄に載せた。


 載せた場所は窪みの少し上だ。窪みには、触らなかった。


「じゃあ、直します」


 言ってから、少し止まった。


 止まったのは、初めてだったからだ。


 十五年、この道具は壊れなかった。壊れなかったので、直したことがない。


「……初めてですね、これ」

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