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第103話「うまい人の手」

「どうした」


「これ、見てください」


「石だ」


「石です」


「それが、どうした」


「触った跡があります」


 底石は水に洗われていた。千年ぶんの埃が、三日で流れた。


 流したのは、伯爵さまの水だ。流れたので、下が出ていた。


 石の面は思ったより白かった。白いところに、油の膜の跡が残っている。


 跡は輪の形をしていた。輪の内側だけ、色が薄い。


 窪みが並んでいる。窪みは丸かった。


 鏨の跡なら角が立つが、角が無い。


 指で押したような形だった。


「これ、道具じゃないです」


「では、なんだ」


「手です」


「手で、石が凹むか」


「凹まないです」


「では、なぜ凹んどる」


「戻ったんだと思います」


「戻った」


「押した形に、石が戻ってます」


 オズワルドさんが膝をついた。ついたとき、音がした。この人の膝は、いつも音がする。


 灯りを低く下ろした。窪みの色が一つずつ違った。


 濃いのが、右端にある。左へ行くほど、薄くなる。


 薄いほうが、あとだ。あとのほうが、手が急いでいる。


 俺は右端に指を置いた。


「オズワルドさん」


「なんだ」


「順番が、読めます」


「順番」


「触った順です」


「わかるのか」


「色が違うので」


「色が」


「濃いところが、先です」


「なぜ濃くなる」


「長く触ると、濃くなります」


 俺は指を左へ動かした。二つ目に置いた。


 三つ目は少し上にあった。上にあるのは、体を起こしたからだ。


 起こしたのは、腰が痛かったからだと思う。


 四つ目でまた下がった。下がってから、間隔が広くなった。


 広くなるのは、慣れたからだ。


 俺は指を置いていった。


 置くたびに、手が同じ形になった。


 同じ形になるのは、俺が普段そうするからだ。


 窪みは九つあった。九つとも、指の腹の大きさだ。


 俺の指を当てると、少しだけ余る。余るのは、向こうのほうが太いからだ。


 太い指で、細い仕事をしている。


 太いほうが難しい、と言われたことがある。


 言ったのは、太い指の人だった。


 ダグさんが後ろに立って、俺の手元を見ている。この人は、分からないときほど近くに来る。


「この人」


「なんだ」


「俺と同じところから触ってます」


 オズワルドさんは答えなかった。答えずに、俺の手を見ていた。


 見て、それから窪みを見た。


 二度、往復した。


「もう一度、言え」


「同じところから触ってます」


「同じ、とは」


「石の、いちばん硬いところです」


「硬いところから触るのか」


「柔らかいところは、崩れるので」


「習ったのか」


「習ってないです」


「では、なぜ知っとる」


「触ると、わかるので」


「その者も、か」


「たぶん、そうです」


 シルフィさんが両手を握り合わせて、胸の前で止めていた。止めたまま、動かさない。


 指が白くなっていた。


 この人が祈るときの形とは、違った。


 祈るときは、指を組む。組まずに、握っていた。



 オズワルドさんはそこで座り込んだ。濡れた石の上に、そのまま座った。払いもしなかった。


「言う」


「はい」


「二十年前の話だ」


「はい」


「あの男は、三日おった」


「三日ですね」


「一日目は、見ておった」


「見るだけですか」


「上から下まで、歩いた」


「二日目は」


「触った」


「どこをですか」


「ここだ」


 その人は窪みを指した。指した指が、震えていた。震えているのに、外さなかった。


 指したのは、右端の一つだった。俺が最初に置いた、あの窪みだ。


 二十年、この人はそこを覚えていた。覚えていて、誰にも言わなかった。


「三日目に、半分だけ動いた」


「門がですか」


「歯が、噛んだ」


「噛んだんですね」


「四十年で、あの一度きりだ」


「見たんですね」


「見た」


「うれしかったですか」


「……声が、出なんだ」


 その人はそこで一度、門のほうを見た。


「あのとき、誰がやったと聞いたな」


「聞かれました」


「知っとって、聞いた」


「そうですか」


 俺は門を見上げた。左の歯だけが光っている。


 噛んだのは、その半分だ。半分で、止まっている。


「聞いたんですか」


「聞いた」


「何をですか」


「直せるか、と聞いた」


「はい」


「二十年前、そう聞いた」


「答えましたか」


「答えた」


「なんて言いましたか」


 その人は一度、息を吸って長く吐いた。吐ききってから、言った。


「そうしたら、あれはこう言った」


「はい」


「——思えん」


 灯りの油が芯を上がる音がした。その音のほかに、何も無かった。


 シルフィさんの息が止まった。止まったのが、背中でわかった。


 ダグさんは動かなかった。


 俺は、しばらく黙っていた。


「……そうですか」


「それだけか」


「はい」


「怒らんのか」


「怒りませんよ」


「わしは、怒った」


「そうですか」


「直せんと言えばよい」


「はい」


「思えん、では、答えになっておらん」


「そうですね」


「答えになっておらんのだ」


 俺はうなずいて、底石に手を置いた。置いた場所は右端だった。その人が、最初に触ったところだ。


「それから、どうしましたか」


「翌朝、おらんかった」


「帰ったんですね」


「机の上に、紙が一枚あった」


「あの紙ですね」


「あれだ」


「探しましたか」


「探した」


「見つかりましたか」


「見つからん」


「二十年ですか」


「二十年だ」


「長いですね」


「長い」


「すみません」


「謝るな」


 その人は膝に手をついて立った。立つのに、時間がかかった。かかったのに、誰も手伝わなかった。


 手伝われるのが、嫌な人だからだ。


「ルークとやら」


「はい」


「あれは、なぜ半分でやめた」


「わからないです」


「わからんのか」


「わからないです」


「思えん、と言うたのだぞ」


「言ったんですね」


「言えるのに、思えんと言うたのだ」


「そうですか」


「なぜだ」


「聞いてみないと、わからないです」


「聞けん」


「そうですね」


 この人は二十年しまっていた。しまっていたものを、たった今、外へ出した。


 出したものはもう戻せない。戻せないと知っていて、出したのだと思う。


 言ったあとの顔は、軽くなっていなかった。軽くならないものもある。


 そこで、後ろから音がした。布の擦れる音だった。


 ミオさんが荷を持ち上げようとしていた。持ち上げようとして、手が止まっていた。


 止まったまま、こちらを見ている。


 見たまま、指の力が抜けた。


 道具袋が、石床に落ちた。乾いた音がした。

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