第102話「桶」
「汲む、とは」
「汲みます」
「樋は、一本だぞ」
「樋じゃなくて、いいです」
「では、何で汲む」
「桶です」
「桶で、あの量をか」
「量は、桶で決まらないです」
「では、何で決まる」
「人の数です」
オズワルドさんは口を閉じて、そのまま黙った。黙ったので、ベルタさんが引き取った。
「あんた、何人いると思ってる」
「わからないです」
「下町は、二千だよ」
「二千ですか」
「全員は来ない」
「来ないですね」
「来ないが、桶は持ってる」
俺は坂を上った。上りながら、数えた。窪みは上まで途切れていない。
この窪みを作ったのは、桶だ。桶は数えられないほどある。
広場に、ロッタさんが立っていた。天秤を担いだままだった。
「あんた」
「はい」
「下が沈んだって」
「沈みました」
「直せないのかい」
「触れないんです」
「触れば、直るのかい」
「直ります」
「触れないなら」
「退いてもらいます」
「水にかい」
「水にです」
ロッタさんは天秤を下ろして、肩を回した。回すたびに骨が鳴る。
それから、広場のほうを向いて、大きな声を出した。
「あんたら、桶は持ってるかい」
人が振り返った。振り返っただけで、動かなかった。
「持ってるだろ」
まだ、動かない。
「ないなら、うちのを貸すよ」
いちばん先に来たのは、子どもだった。小さい桶を両手で提げている。
その次が、母親だった。その次から、数えられなくなった。
ダグさんが広場の石台に上がって、腕を上げた。
「並べ」
列ができた。
「石蓋まで、三十歩ずつだ」
「三十歩」
「渡したら、戻れ。走るな」
「走らないんですか」
「三日走れる者はいない」
「三日ですか」
「三日だ」
ギルドの人が下から上がってきた。徽章を提げた者が十人はいた。
イレーヌさんが帳面を開いて、名を書きはじめた。
「これは、依頼ですか」
「依頼にします」
「報酬は」
「あとで考えます」
「いいんですか」
「書いておけば、記録になります」
汲みはじめたのは、その日の昼だった。
石蓋の口に四人が入る。入って、桶を下ろして、引き上げる。
引き上げたら、次へ渡す。
渡した先が、坂の下まで並んでいる。
水は坂を下って、溝へ流れた。流れる音が途切れなかった。途切れないのは、誰かが止まっていないからだ。
夜になった。灯りを、坂に並べた。
並べた灯りがそのまま列の形になった。
上から見ると、線が一本下りている。線は朝まで消えなかった。
二日目に、掌の皮が剥けた。剥けたのは、俺だけではない。
布を巻く人が増えた。
巻いても、また剥ける。
ミオさんはいちばん狭いところに入った。
石蓋の口は、大人が四人で塞がる。
塞がると桶が引っかかる。
この人は、引っかからない場所を見つけるのがうまい。
「ここ、通るニャ」
「通りますか」
「桶なら通る」
「人は」
「あたしだけ通る」
「じゃあ、お願いします」
「うん」
三日目に、腕が上がらなくなった。上がらないので、桶を胸で押した。
押して渡すと、水がこぼれる。
こぼれた水は坂を下る。下ったぶんは、誰も数えなかった。
ロッタさんの桶が、いちばん多く運んだ。箍が締まっている。締まっているので、こぼれない。
「その桶、替えますか」
「替えないよ」
「重いですよ」
「重いのが、いいんだ」
「そうですか」
「これは、こぼれないからね」
水を売って生きてきた人たちが、水を捨てていた。
捨てているのに、誰も何も言わない。言わないほうが、速いからだと思う。
シルフィさんは列の折れ目に立っていた。折れ目は、いちばんこぼれる場所だ。
この人は、こぼれる場所に立ちたがる。
「シルフィさん」
「はい」
「交代しますか」
「いたしません」
「腕、震えてますよ」
「震えております」
「休んでください」
「休むと、列が止まります」
「止まっても、いいですよ」
「止めたくないのです」
「そうですか」
「はい」
二日目の夕方に、家令が来た。濡れた坂を、汚さずに上ってきた。
靴に泥がついていない。つかない歩き方を、知っている人だ。
「少々、お時間を」
「はい」
「主より、言伝がございます」
「伯爵さまですか」
「さようにございます」
「聞きます」
「王都の一等地に、望むだけの工房を用意いたします」
「工房ですか」
「石造りにて、二階建て。井戸を内に掘らせます」
「井戸」
「水は、途切れさせませぬ」
「はい」
「職人も、お好きなだけ」
「はい」
「いかがでございましょう」
俺は少し考えた。考えて、正直に答えた。
「今の宿、雨漏りしてないので」
家令の顔は動かなかった。動かなかったが、瞬きが一度遅れた。
「……もう一度、伺っても」
「雨漏り、してないんです」
「宿の話ではございませぬ」
「宿の話ですよ」
「工房の話にございます」
「工房は、オルトにあるので」
「……さようでございますか」
「はい」
「主に、そのまま伝えても」
「そのままで、いいです」
ベルタさんが横で頭を抱えていた。抱えたまま、しばらく動かなかった。
「……あんた、少しは考えな」
「考えました」
「どこをだい」
「雨漏りのところです」
「そこじゃないんだよ」
「そうですか」
「まあ、いいさ」
「いいんですか」
「あたしが横で儲ける」
家令は一礼して坂を下りた。下りる背中がまっすぐだった。
まっすぐなまま、一度も振り返らなかった。
夜に荷車が来た。荷台に新しい桶が積んである。積んだ数が、五十を超えていた。
ジェラルド公が御者台から下りた。
「足りんだろう」
「足りないです」
「桶を買え」
「高いですよ」
「金はこちらで持つ」
「いいんですか」
「王家が水を運べぬのに、金まで出さぬのか」
「はい」
「運ぶ手も出す」
「公も、ですか」
「腕は二本ある」
三日目の夜が明けた。
列がまだ動いていた。動いているのに、音が変わった。
桶が底に当たる音になっていた。
俺は石蓋の口へ下りた。
段を、一つずつ数えた。
百二十七まで、数えられた。
床が出ていた。濡れた石が、灯りを返している。門の下の底石が、露わになっていた。
三日三晩で、あの水が引いた。引かせたのは桶だ。
桶を持ってきたのは、桶の要る人たちだった。
水が引いた石の上に、俺はしゃがみ込んだ。
「……あ」




