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第101話「鍵と、水」

 降りたのは、朝のうちだった。段は百二十七のままだ。下は、いつもと同じ乾いた石だった。


「今日は、右からやります」


「右か」


「緑青のほうです」


「厚いぞ」


「厚いほうが、順が見えます」


「順」


「触った順です」


 俺は門の前にしゃがんだ。しゃがんだところで、ダグさんが顔を上げた。


「待て」


「はい」


「音がする」


「しませんよ」


「する」


 ダグさんは耳がいい。この人が待てと言うときは、待ったほうがいい。


 ミオさんも耳を立てていた。


「来るニャ」


「何がですか」


「わからない」


「音ですか」


「音の前」


「前ですか」


「うん。押されてる」


 押されているのは、空気だった。通路の奥から、風が来る。風は生ぬるかった。


 朝のうちに、生ぬるい風は出ない。


 灯りの炎が揃って傾いて、いちばん奥の一つが消えた。消えたところが黒くなった。


 黒は、そこで止まらなかった。次の灯りが消えた。その次も消えた。


 順に消えるのは、風のせいではない。水が押しているからだ。


「音、来ましたね」


「来た」


「ダグさん、正しかったです」


「褒めるな」


「褒めてます」


「いまはやめろ」


 シルフィさんが灯りを二つまとめて持って、俺の袖を引いた。引く力がいつもより強い。


「上がってください」


「あんたは」


「行きます」


「先に行け」


「はい」


 段まで、四十歩あった。


 四十歩の途中で、足に触った。


 冷たいものが踝を撫でて、そのまま脛まで来た。


 歩くのと、同じ速さだ。同じ速さなのに、止まらない。


 オズワルドさんが振り返った。


「走れ」


「はい」


「走れと言うた」


「走ってます」


「遅い」


「荷が」


「捨てろ」


「捨てません」


 段を二十まで上って、下を見た。下は、もう床が見えなかった。


 水は灰色だった。面が揺れていない。揺れないのは、下から満ちているからだ。


 上から落ちる水なら、面が割れる。だが、割れていなかった。


 門が半分沈んだ。沈んだところから、色が消えた。


 俺は段を三つ下りて、腕を伸ばした。


 指の先が面に触れた。触れただけだった。石はその下にある。


 下にあるのに、届かない。


 水は冷たかった。冷たいのに、油の膜が浮いていた。


 膜は灯りの色を返した。返した色が、輪になって広がった。


「ルーク様」


「はい」


「お戻りください」


「戻ります」


「いますぐ、でございます」


「はい」



 技師局の一階に、人が集まった。濡れた靴が、床に跡を残していた。跡は五人ぶんある。


 メッツさんが板を抱えて入ってきた。板の上に、数が書いてある。字が途中から乱れていた。


「量を、出しました」


「言え」


「排水に、十日かかります」


「十日」


「人を倍に入れても、でございます」


「倍でもか」


「樋が、一本しかございません」


「増やせんのか」


「据える台が、ございません」


「作れ」


「木が、乾いておりません」


「乾くまでは」


「四日でございます」


 メッツさんの声が、そこで細くなった。細くなったのを、自分で聞いた顔をした。


 オズワルドさんは座らなかった。立ったまま、板を見ていた。見て、それだけ言った。


「期限と、同じだ」


 誰も続けなかった。続けないので、樋の音だけがしていた。


 ダグさんが外から戻ってきた。肩が濡れている。濡れたまま、拭かなかった。


「押さえた」


「誰をですか」


「上流の水門にいた男だ」


「開けたんですね」


「開けた」


「捕まえたんですか」


「押さえた。だが、鍵を開けたのは水門番だ」


「水門番の仕事ですね」


「仕事だ。証文もない」


「命じた人は」


「出てこん」


 ベルタさんが板を覗き込んで、口の端を上げた。この人は、感心するとそういう顔をする。


「うまいね」


「うまい、ですか」


「これは商売の手口だよ」


「手口」


「法の内側でやってる」


「内側だと、どうなりますか」


「訴えられない」


「そうですか」


「証文も、命令も残さない」


「残さないんですね」


「残るのは、鍵を集めた事実だけさ」


「集めるのは、罪じゃないですね」


「自分の鍵だからね」


「開けるのも、ですか」


「上流の水門は、あの人のものだ」


「自分のものですね」


「自分のものを、開けただけさ」


「それ、止められないんですね」


「止める法が、無いんだよ」


「作れませんか」


「作るころには、十日が終わってる」


 ジェラルド公が腕を組んだまま、動かなかった。


「止められん」


「はい」


「わしは、これも止められん」


「わかりました」


「怒らんのか」


「怒っても、水は減らないので」


 伯爵さまは来なかった。


 来る必要が、無いのだと思う。


 水は勝手に増えている。増えているあいだ、誰も何もしていない。していないことは、罪にならない。


 ミオさんが窓の下にしゃがんでいた。しゃがんで、膝に顎を乗せている。尻尾が床についたまま動かない。


「ルーク」


「はい」


「あそこ、沈んだのか」


「沈みました」


「石は」


「石は、あります」


「見えるか」


「見えないです」


「触れるか」


「触れないです」


「じゃあ、駄目なのか」


「触れないと、駄目です」


「遠くからは」


「無理です」


「がんばってもか」


「がんばる場所が、無いんです」


「……そうか」


 ミオさんの目が、濡れていた。


 濡れたのを、拭かなかった。拭くと、認めることになるからだ。


 シルフィさんがその隣に座った。座って、何も言わなかった。


 言わないほうがいいときを、この人は知っている。



 俺はもう一度、石蓋のところへ行った。蓋は開けたままにしてある。


 開いた口から、匂いが上がってくる。匂いは、鉄に近かった。


 灯りを、縄で吊って下ろした。十四段ぶん下りたところで、面に着いた。


 面はまだ上がっている。上がる速さが、朝より遅い。遅いのは、広いところまで来たからだ。


 俺はしゃがんで、面を覗き込んだ。覗くと、自分の顔が映った。


 映った顔は、揺れなかった。揺れないので、覗いているほうが揺れて見えた。


 映った顔の向こうに、石がある。


 あるのは、わかっている。わかっているのに、指が届かない。


 届かないなら、退いてもらうしかない。退かせる方法は、一つしか知らない。


「オズワルドさん」


「なんだ」


「一つ、いいですか」


「言え」


「あの、水って、汲めますよね」

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