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第100話「【幕間】配っていた男」

 屋敷の中庭に水盤がある。石を刳り抜いた古い盤だ。


 水はいつも満ちている。溢れる寸前で、止まっていた。


 止めているのは、樋の傾きである。傾きを決めたのは、祖父だった。


 クレイス伯は朝にそこへ立って、面を見る。面が動いていれば、来ている。動いていなければ、止まっている。


 四十年、動かなかった朝は無い。


 祖父の代に大水道が止まった。止まった年の話を、伯は聞いて育った。


 町は三日で乾いたという。四日目に人が死んだ。


 五日目に荷車が出た。出したのは、祖父だった。


 誰にも、頼まれていない。命じられてもいない。


 樽を四つ積んで、坂を上った。上って、下りて、また上った。三十日、それを続けた。


 三十日目に隣家が真似をした。


 伯が七つのとき、祖父はまだ生きていた。


 中庭で一度だけ話をした。覚えているのは、それだけである。


「これは、なんですか」


「水だ」


「知っています」


「では、なぜ聞く」


「なぜ、いつも同じだけあるのですか」


「足すからだ」


「誰がですか」


「わしだ」


「毎日ですか」


「毎日だ」


「疲れませんか」


「疲れる」


「やめないのですか」


「やめん」


「なぜですか」


「水は正義より重い」


「わかりません」


「わからんでよい」


「はい」


「わかる日が来たら、もう遅い」


 祖父はその冬に死んだ。言葉の意味はしばらく分からなかった。分かったのは、父が同じことを言った日である。


 先代の陛下が勅許を出された。出されたのは、そのあとだ。止まってから、二年あとだった。


 与えられたのではない。運んだあとから、追いついてきた。


 伯はそう習った。


 証文は鍵のかかる箱にある。箱の横に帳簿が並んでいる。


 三代ぶんの、配水の帳簿だ。日付が一日も飛んでいない。



 息子は十四になる。


 朝、伯はその子を中庭へ連れて行って、同じことを言う。


「見えるか」


「見えます」


「何が見える」


「水です」


「ほかには」


「……動いています」


「それでいい」


 伯は書斎で帳簿を開かせて、指で辿らせる。辿るのは、いつも同じ年だ。


「ここは、何の日だ」


「大雪の年です」


「量は」


「減っています」


「止まったか」


「止まっておりません」


「そうだ」


「なぜ、止めなかったのですか」


「止めれば、次の日も止まる」


「はい」


「次の日が止まれば、その次も止まる」


「はい」


「三代だ」


「三代」


「三代、一日も途切れさせなかった」


 息子はそこで顔を上げて、聞く。


「父上」


「なんだ」


「大水道が戻れば、どうなりますか」


「どうもならん」


「配らなくてよくなります」


「そうだ」


「では、楽になりますね」


「……そうだな」


 伯はそこで頁を閉じた。閉じる音が、いつもより高かった。


 息子は気づかなかった。気づかないほうがいい。


「父上」


「まだあるか」


「配るのは、いつまでですか」


「わしが死ぬまでだ」


「そのあとは」


「お前が決める」


「決められません」


「いまは、それでよい」


「はい」


「決められるようになったら、教えろ」


「はい」


 伯はその子の頭に手を置かなかった。置く父ではない。


 置かれた覚えも、無い。



 伯は失うことを恐れてはいない。権を取り上げられても、死にはしない。屋敷も、田も、名も残る。


 恐れているのは、別のことだった。


 三日で乾いた町がある。その町へ、祖父が樽を運んだ。


 父が、継いだ。


 自分が、継いだ。


 合わせて、三代ぶんの朝がある。


 水が下から来るようになれば、その朝は要らない。


 要らなかったことになる。なるのが、怖い。


 それを、伯は誰にも言っていない。


 言えば、卑しく聞こえる。卑しく聞こえることは、言わない。


 夕方に家令が来た。家令は四十年仕えている。仕えているが、笑ったところを見たことがない。


「技師局の話は」


「十日と、決まりましてございます」


「区画は」


「七番と、申し上げました」


「聞いたか」


「技師長が席を立ちました」


「立ったか」


「椅子を、倒しましてございます」


「そうか」


「拾わずに、出て行かれました」


「そうか」


 伯は窓の外を見た。坂の下に灯りが増えている。広場に、人が集まっているらしい。


 水が出たと聞いた。出したのは、修理屋だという。


「ルークと申したか」


「さようにございます」


「若いか」


「二十八と、伺っております」


「そうか」


 伯はそれきり名を言わなかった。


「家令」


「はい」


「十日で、直ると思うか」


「存じませぬ」


「思うか、と聞いた」


「……直ると存じます」


「なぜだ」


「坂の下の水が出ましてございます」


「出たな」


「今まで、四十本掘って出ませんでした」


「出なんだ」


「それが、一日で出ましてございます」


「そうだな」


「わたくしは四十年、無駄を見ておりました」


「無駄ではない」


「はい」


「掘った者は、掘った」


「……はい」


「掘った者を笑うな」


「笑いませぬ」


 憎んではいない。憎む理由が見つからない。水を出した者を憎むのは、筋が違う。


 筋の違うことはしない。三代、しなかった。


 できるなら、礼を言いたいほうだ。言えないのは、順が違うからである。先に配ったのは、こちらだった。


「もう一つ、聞く」


「はい」


「わしの子は、水を配ると思うか」


「配られましょう」


「配れなくなったら」


「……」


「答えんでよい」


「はい」


「あの男は、十日でやると言ったか」


「言っておりませぬ」


「言わなんだか」


「できるか、とも申しませぬ」


「何と言った」


「どの区画か、と」


「それだけか」


「それだけにございます」


 伯はしばらく黙って、水盤のほうを見た。


 面がまだ動いている。動いているうちは、途切れていない。


 途切れさせなければ、三代は残る。


 家令は、命じられたことを復唱しない。


 四十年、一度もしなかった。


 一度で足りると、双方が知っている。だから伯は、言い直しをしない。


 言い直しをしない者どうしは、話が短い。


 短い話で三代が続いてきた。


 伯は卓の上の箱に手を置いた。鍵は掛けたままである。開けるつもりはなかった。


 中の紙は欠けている。


 欠けたところを、指で覚えている。


 直させなかったのは、そこが手触りだからだ。


「一つ、命じる」


「はい」


「今夜のうちにだ」


「はい」


「第七閘門の、上流の鍵を、全部集めろ」

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