「小さな来客」
「レオン兄ちゃーん!」
朝。
玄関の向こうから元気な声が響いた。
レオンは手を止めた。
畑仕事の準備をしていたところだった。
「……誰だ」
「お客さんですか?」
リゼが台所から顔を出す。
「たぶんな」
扉を開ける。
そこには。
小さな少年が立っていた。
茶色の髪。
泥だらけの靴。
手には木の棒。
「ルカか」
「おはよう!」
「朝から元気だな」
「レオン兄ちゃん!」
「なんだ」
「剣、教えて!」
レオンは扉を閉めようとした。
「待って待って!」
ルカが慌てて扉を押さえる。
「まだ何もしてない!」
「断った」
「まだ頼んだばっかり!」
「だから断った」
「ひどい!」
そのやり取りを見て。
リゼが笑った。
「おはよう、ルカくん」
「あっ! リゼ姉ちゃん!」
少年の顔が輝く。
「今日もいる!」
「住んでますから」
「本当に?」
「本当です」
「じゃあ、レオン兄ちゃんのお嫁さん?」
「違います!」
即答だった。
ルカはにやにやする。
「村のみんな言ってたよ」
「村のみんな?」
リゼの声が裏返る。
レオンは深く息を吐いた。
マルタの顔が浮かんだ。
◇
結局。
ルカは家に上がった。
泥だらけの靴を、外できちんと洗わせてから。
「うわあ!」
「走るな」
「椅子いっぱいある!」
居間に並んだ五脚の椅子。
ルカは一本ずつ数える。
「一、二、三、四、五!」
「数えられるのか」
「もう七歳だよ!」
「そうか」
「レオン兄ちゃん、一人で住んでたのに、なんで五つあるの?」
レオンの手が止まった。
リゼも椅子を見る。
その質問を。
彼女も一度、考えたことがあった。
「……なんとなくだ」
レオンは答える。
「なんとなくで五つ?」
「悪いか」
「変なの!」
ルカは笑った。
レオンも否定しなかった。
◇
「これ、何?」
ルカが壁を指差した。
黒い剣。
古い鞘。
飾り気のない柄。
けれど。
どこか普通の剣とは違う。
「剣だ」
「それは分かるよ!」
ルカが頬を膨らませる。
「すっごく強そう!」
「そうか」
「使ってみて!」
「嫌だ」
「なんで?」
「危ない」
「ちょっとだけ!」
「駄目だ」
ルカはリゼを見る。
「リゼ姉ちゃん、レオン兄ちゃんって強い?」
「どうでしょうね」
リゼは笑う。
「私も知りたいです」
「じゃあ一緒に頼もう!」
「いいですね」
「おい」
二人が並んでレオンを見る。
「お願いします!」
「断る」
「えー!」
「えー!」
声が重なった。
レオンは頭を抱えた。
一人だった頃の静けさが。
少し懐かしい。
けれど。
不思議と。
嫌ではなかった。
◇
昼前。
ルカはパンを食べていた。
リゼが焼いたものだ。
「うまい!」
「本当?」
「うん!」
「よかった」
リゼが嬉しそうに笑う。
レオンはその様子を見ていた。
「お前、家には言ってきたのか?」
「うん!」
「何て?」
「レオン兄ちゃんのところ!」
「……そうか」
それならいい。
ルカはパンを食べ終えると、椅子から飛び降りた。
「そろそろ帰る!」
「気をつけろよ」
「はーい!」
「森には近づくな」
レオンが言う。
ルカは振り返った。
「なんで?」
「危ない魔物がいる」
「冒険者が倒したんじゃないの?」
「まだだ」
「ふーん」
少年は少し残念そうだった。
「じゃあ、森で遊べないの?」
「遊ぶな」
「分かった!」
元気な返事。
それを聞いて、レオンは頷いた。
ルカは手を振って帰っていった。
その手には。
来たときと同じ木の棒が握られていた。
◇
午後。
レオンは畑にいた。
雨上がりの土は重い。
鍬を入れる。
土が持ち上がる。
そして。
なぜか鍬の方が引っかかる。
「……」
レオンは無言で引っ張った。
抜けない。
もう一度。
抜けない。
「レオンさん」
後ろから声。
振り向くと、リゼが立っていた。
「何してるんですか?」
「畑仕事だ」
「鍬と喧嘩してるように見えますけど」
「気のせいだ」
リゼは笑いながら近づく。
土へ手を触れる。
「……」
少しだけ目を閉じた。
すると。
鍬の周囲の土が、ふわりと緩んだ。
レオンが引く。
簡単に抜けた。
「……」
「抜けましたね!」
「お前、今何をした」
「分かりません」
リゼは自分の手を見る。
「土が固そうだったので、柔らかくなればいいなって」
「それだけか?」
「はい」
レオンは畑を見る。
以前。
彼女が触れた場所だけ、芽が伸びたことがあった。
偶然ではない。
少なくとも。
普通の魔法ではなかった。
「リゼ」
「はい?」
「その力、村では使うな」
「……どうしてですか?」
「目立つ」
「悪いことなんですか?」
「悪いことじゃない」
レオンは少し考えた。
「ただ、知らない人間に見せる必要もない」
リゼは彼を見た。
やがて。
小さく頷く。
「分かりました」
◇
同じ頃。
村の北側。
森の入口では、ガンツと数人の村人が足跡を調べていた。
昨日の雨で、古い痕跡はほとんど消えている。
少し離れた場所には、腕に包帯を巻いた剣士の姿もあった。
「本当に、まだ増援は来ないのか?」
剣士が尋ねる。
「ああ。街道の橋が使えなくなってるらしい」
ガンツが答える。
「だが、別の道を通って来るよう手配はされてる」
「……あいつが生きていればいいが」
剣士は森を見つめた。
行方不明になった若い魔法使い。
仲間を置いて戻ってきたことを。
今も悔やんでいるのだろう。
「奥へ入るのは増援が来てからだ」
ガンツが言う。
「分かってる」
剣士は拳を握った。
その少し後ろ。
畑の脇に、小さな人影があった。
ルカだった。
手には木の棒。
「……レオン兄ちゃんみたいに、強くなりたいな」
小さく呟く。
朝、黒い剣を見た。
あれを持つレオンは、きっとすごく強い。
いつか自分も。
そう思っていた。
そのとき。
森の入口近くの草むらが動いた。
「……?」
小さな白い影。
ウサギだった。
「わっ」
ルカが目を輝かせる。
ウサギは草むらから飛び出し、森の方へ走った。
「待って!」
ルカが追いかける。
ほんの少しだけ。
森の入口まで。
そのつもりだった。
けれど。
木々の間を抜けるうちに。
村の声が聞こえなくなった。
「……あれ?」
ルカが振り返る。
見覚えのない木。
知らない道。
そして。
どこからともなく。
低い唸り声が聞こえた。
「……え?」
少年は木の棒を握りしめた。
◇
夕方。
村から鐘の音が響いた。
昼の鐘とは違う。
短く。
何度も。
レオンが顔を上げる。
「……何だ?」
リゼも家から出てきた。
「レオンさん?」
鐘が続く。
村で何かが起きたときに鳴らされる音だった。
レオンは鍬を置いた。
「村へ行く」
「私も!」
「家にいろ」
「でも」
「すぐ戻る」
レオンは早足で道へ向かった。
◇
村の広場には人が集まっていた。
泣いている女性。
慌てて走る男たち。
ガンツが声を張り上げている。
「北側を探せ! だが森の奥には入るな!」
レオンが近づく。
「何があった?」
ガンツが振り向いた。
「レオン……」
その表情で。
嫌な予感がした。
「子供がいなくなった」
「……誰だ」
ガンツは一瞬、言葉に詰まった。
「ルカだ」
レオンの呼吸が止まった。
朝。
家へ来た少年。
木の棒を持って。
剣を教えてほしいと笑っていた。
「いつから?」
「昼過ぎに姿が見えなくなったらしい」
「最後に見た場所は?」
「村の北の畑だ。森の方へ走っていく姿を見た者がいる」
レオンは森を見た。
「足跡は?」
ガンツが頷く。
「見つかった」
「どこへ続いてる」
沈黙。
ガンツが答える。
「……森だ」
レオンは目を閉じた。
ほんの一瞬。
そして。
「案内してくれ」
そう言った。
◇
森の入口。
小さな足跡があった。
雨上がりの柔らかい土。
子供の靴跡。
確かに森の方へ続いている。
その横には。
別の跡。
大きい。
深い。
獣の足跡だった。
ガンツが唇を噛む。
「……まずいな」
レオンはしゃがみ込んだ。
土へ触れる。
まだ新しい。
「ガンツさん」
「なんだ」
「村の人間を森へ入れるな」
「お前は?」
レオンは立ち上がった。
「探す」
「一人でか?」
「……」
そのとき。
後ろから声がした。
「二人です!」
振り向く。
リゼが立っていた。
息を切らしている。
「家にいろと言っただろ」
「すぐ戻るって言いました」
「……」
「でも、戻ってこないから」
リゼは森を見る。
そして。
小さく呟いた。
「ルカくん……」
レオンは彼女を見る。
「危険だぞ」
「分かってます」
「分かってない」
「それでも」
リゼは顔を上げた。
「朝、一緒にパンを食べたんです」
その声は震えていた。
「笑ってたんです」
「……」
「だから」
リゼはレオンを見つめる。
「放っておけません」
レオンはしばらく黙っていた。
昔。
似たようなことを言った男がいた。
誰かを助けるためなら。
危険な場所へ迷わず飛び込む男。
勇者アルト。
レオンは息を吐いた。
「……俺から離れるな」
リゼの顔が上がる。
「はい!」
レオンは森へ向き直る。
黒剣は持っていない。
腰には、普段使いの小さな作業用ナイフだけ。
それでも。
足取りに迷いはなかった。
森の奥。
巨大な何かが。
ゆっくりと動いていた。




