「森の主」
森は静かだった。
静かすぎた。
鳥の声がない。
虫の音もない。
聞こえるのは。
湿った土を踏む足音だけ。
「レオンさん……」
リゼが小さく呼ぶ。
「なんだ」
「ここ、変です」
「……ああ」
レオンも感じていた。
空気が重い。
森そのものが。
何かを恐れているようだった。
◇
二人は足跡を追っていた。
小さな靴跡。
ルカのものだ。
雨上がりの地面には、まだはっきり残っている。
「こっちですね」
リゼが指差す。
「ああ」
レオンは頷いた。
だが。
少し進んだところで足を止めた。
「……待て」
「どうしました?」
「足跡が変わってる」
地面を見る。
小さな靴跡が乱れていた。
歩幅が広くなっている。
途中から。
走っている。
「逃げたのか……?」
リゼの顔が青ざめた。
レオンは周囲を見る。
折れた枝。
踏み潰された草。
そして。
大きな爪痕。
木の幹に深く刻まれていた。
「……」
レオンの目が細くなる。
「リゼ」
「はい」
「俺の後ろにいろ」
「……はい」
◇
少し進むと。
かすかな声が聞こえた。
「……たすけて」
リゼが顔を上げる。
「今……!」
「ああ」
二人は声の方へ向かった。
倒れた木。
大きな岩。
その隙間。
小さな身体が震えていた。
「ルカ!」
リゼが叫ぶ。
少年が顔を上げた。
「リゼ姉ちゃん……!」
「大丈夫!?」
駆け寄ろうとするリゼを。
レオンが止めた。
「待て」
「でも!」
「……いる」
低い声だった。
ルカの背後。
木々の奥。
何かが動いた。
ズシン。
地面が揺れる。
ズシン。
巨大な影が姿を現した。
「……っ」
リゼが息を呑む。
熊。
そう呼ぶには。
あまりにも巨大だった。
三メートルを超える身体。
鋭い爪。
岩のように盛り上がった筋肉。
そして。
赤く光る目。
「グリーヴベア……」
レオンが呟く。
「知ってるんですか?」
「本来なら、もっと山奥にいる魔物だ」
「強いんですか?」
「Aランク相当だ」
リゼは言葉を失った。
Aランク。
熟練した冒険者でも、複数人で討伐するような危険な魔物。
それが。
村のすぐ近くにいる。
しかも。
普通の個体とは明らかに違った。
毛皮の一部が黒く変色している。
身体のあちこちに傷がある。
その傷口から。
粘つく黒い液体が滲んでいた。
「……何だ、あれは」
レオンが小さく呟く。
グリーヴベアの赤い目が動いた。
レオン。
リゼ。
そして。
岩陰のルカ。
獣が唸る。
「グルルルル……」
「レオンさん……」
「リゼ」
「はい」
「ルカを連れて逃げろ」
「でも!」
「俺が引きつける」
「一人で戦うんですか!?」
レオンは答えなかった。
視線は魔物から外さない。
「いいから行け」
リゼは唇を噛んだ。
そして。
ルカの方へ走った。
◇
グリーヴベアが動いた。
速い。
巨大な身体からは想像できない速度。
地面を蹴る。
一直線に。
リゼへ向かっていた。
「リゼ!」
レオンが叫ぶ。
その瞬間。
リゼは振り返った。
「来ないで!」
両手を突き出す。
すると。
地面が揺れた。
土の中から。
太い蔓が飛び出した。
一本。
二本。
三本。
蔓が魔物の前脚へ絡みつく。
「……!」
レオンの目が見開かれた。
グリーヴベアの動きが止まる。
ほんの一瞬。
だが。
それで十分だった。
レオンが地面を蹴る。
リゼの前へ回り込む。
「下がれ!」
「は、はい!」
リゼはルカのもとへ走る。
「ルカくん!」
「リゼ姉ちゃん!」
「立てる?」
「う、うん……!」
少年の手を取る。
だが。
背後で。
バキン!
蔓が引き千切られた。
「……っ!」
魔物が咆哮する。
森が震えた。
◇
レオンはグリーヴベアを見上げた。
巨大な爪。
厚い毛皮。
異常な魔力。
そして。
黒い血。
「……普通じゃないな」
魔物が前脚を振り上げる。
レオンは半歩動いた。
轟音。
爪が地面を抉る。
土が弾ける。
だが。
そこにレオンはいなかった。
「……?」
リゼは目を見開く。
いつ動いたのか。
分からなかった。
レオンはすでに魔物の横へ移動している。
「レオンさん……?」
グリーヴベアが振り向く。
再び爪を振るう。
レオンは避けた。
無駄のない動き。
必要最小限の歩幅。
まるで。
相手がどう動くか。
最初から知っているように。
「……」
レオンは周囲を見た。
武器がない。
黒剣は家だ。
腰の小さなナイフでは、この魔物の厚い毛皮を断ち切るには心許ない。
そこで。
一本の枝が目に入った。
地面に落ちていた。
少し太い。
長さは腕ほど。
レオンはそれを拾う。
リゼが叫んだ。
「レオンさん!?」
「なんだ」
「それ、枝ですよ!?」
「ああ」
「武器は!?」
「これでいい」
「よくないと思います!」
レオンは枝を軽く振った。
空気が鳴る。
ただの枝。
特別な素材ではない。
だが。
レオンの指先から、ごくわずかな魔力が流れ込んだ。
枝の表面を薄く覆う。
剣に魔力を通す技術。
かつて、何千回と繰り返した動作。
「……まだ覚えてるな」
レオンは小さく呟いた。
リゼには聞こえなかった。
ただ。
その手に枝が収まった瞬間。
レオンの雰囲気が変わったことだけは分かった。
◇
グリーヴベアが吠える。
「グオオオオオッ!」
巨大な前脚が地面を蹴った。
レオンへ向かって突進する。
リゼが叫ぶ。
「レオンさん!」
ルカは目を閉じた。
だが。
レオンは動かなかった。
枝を片手に持つ。
肩の力を抜く。
呼吸を整える。
久しぶりだった。
この感覚。
敵の呼吸。
重心。
筋肉の動き。
魔力の流れ。
すべてが。
手に取るように分かる。
「……」
レオンは小さく息を吐いた。
剣を置いて三年。
もう二度と。
誰かを斬るつもりはなかった。
けれど。
今。
背後には。
守りたいものがある。
「……仕方ないな」
巨大な爪が迫る。
あと数歩。
あと一歩。
レオンは。
ただの木の枝を。
静かに構えた。
その姿は。
かつて世界を救った。
一人の剣聖そのものだった。




