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「一閃」

巨大な爪が迫っていた。


グリーヴベア。


Aランク相当の魔物。


三メートルを超える巨体が、地面を揺らしながら突進してくる。


その正面で。


レオンは一本の木の枝を構えていた。


「レオンさんっ!」


リゼの叫び声。


岩陰では、ルカが目を固く閉じている。


だが。


レオンは動かなかった。


いや。


正確には。


動く必要がなかった。


「……遅い」


小さく呟く。


魔物の前脚が振り下ろされる。


鋭い爪。


人間の身体など、簡単に引き裂く一撃。


その瞬間。


レオンの姿が消えた。


◇


音は。


一つだけだった。


――ヒュン。


風を切るような。


あまりにも小さな音。


次の瞬間。


レオンは魔物の背後に立っていた。


手には。


先ほどまで構えていた木の枝。


その表面を覆っていた薄い魔力が、静かに消えていく。


「……」


静寂。


グリーヴベアは動かない。


巨大な前脚を振り上げたまま。


時間が止まったかのように。


リゼが瞬きをする。


「……え?」


魔物の身体に。


細い線が走った。


肩から胴へ。


斜めに。


一本。


そして。


ズズ……。


巨体が傾いた。


ドォンッ!


地面が揺れる。


グリーヴベアは倒れた。


二度と動かなかった。


◇


「……」


リゼは言葉を失っていた。


ルカも。


目を開けたまま固まっている。


「……終わったぞ」


レオンが言った。


いつもと変わらない声。


まるで。


畑仕事を一つ終えたような口調だった。


「……」


「リゼ?」


「……」


「おい」


「……え?」


ようやく返事が返ってきた。


リゼは倒れた魔物を見る。


そして。


レオンを見る。


もう一度。


魔物。


レオン。


「……えええええっ!?」


森に叫び声が響いた。


「な、何ですか今の!?」


「何って」


「今のです!」


「倒しただけだ」


「枝で!?」


「ああ」


「枝ですよ!?」


「見れば分かる」


「分かりません!」


リゼが頭を抱えた。


「普通、枝であんな魔物倒せません!」


「そうか?」


「そうです!」


レオンは手元を見る。


木の枝。


先端にひびが入っていた。


「……やっぱり駄目か」


パキン。


枝が折れた。


レオンは少し残念そうに呟く。


「長持ちしないな」


「そこじゃないです!」


リゼの声が森に響いた。


◇


「レオン兄ちゃん……」


ルカが近づいてきた。


その目は。


きらきらと輝いていた。


「すっげえええ!」


「大声を出すな」


「今の何!?」


「……」


「剣の技!?」


「ただ振っただけだ」


「絶対違う!」


少年は興奮している。


「レオン兄ちゃん、やっぱりすっごく強いんだ!」


「大げさだ」


「俺もやりたい!」


「やめとけ」


「教えて!」


「嫌だ」


「えー!」


いつものやり取り。


だが。


リゼだけは笑っていなかった。


レオンを見つめている。


枝で。


あの巨大な魔物を。


たった一撃で。


それが何を意味するのか。


彼女には分からない。


けれど。


一つだけ。


はっきりしたことがある。


レオンは。


ただの農民ではない。


◇


レオンは倒れた魔物へ近づいた。


「……」


黒い液体が流れている。


血のようで。


血ではない。


粘り気のある。


不自然なほど黒いもの。


「レオンさん?」


リゼが近づこうとする。


「触るな」


短い声。


リゼは足を止めた。


レオンはしゃがみ込む。


魔物の身体を見る。


毛皮。


傷。


そして。


首の付け根。


「……これは」


小さな穴があった。


一つではない。


いくつも。


まるで。


何かを打ち込まれたような痕。


自然についた傷ではない。


レオンの目が細くなる。


「……誰かが手を加えたのか」


「どういうことですか?」


「まだ分からない」


レオンは魔物の身体から矢を一本抜いた。


先日、森へ入った弓使いが放ったものだろう。


矢の周囲にも、黒い液体がこびりついている。


「冒険者の人たちが戦った魔物と同じなんですか?」


「おそらくな」


「じゃあ、行方不明の魔法使いさんは……」


リゼの声が小さくなる。


レオンは答えなかった。


魔物の傷を見つめる。


火球を受けたような焦げ跡。


矢傷。


三人の冒険者が戦った痕跡。


それでも。


この魔物は生き延びた。


「……」


レオンは立ち上がった。


「村へ戻るぞ」


◇


帰り道。


ルカはずっと喋っていた。


「レオン兄ちゃん、あれどうやったの!?」


「普通に振った」


「普通じゃないって!」


「そうか」


「今度教えて!」


「嫌だ」


「なんで!」


「危ないからだ」


「じゃあ木の枝でいい!」


「それも駄目だ」


リゼが横で笑った。


「レオンさん」


「なんだ」


「もう普通の農民って言えませんね」


「農民だぞ」


「枝でAランクの魔物を倒す農民がどこにいるんですか」


「ここに」


「……」


リゼは呆れたように笑った。


「本当に変な人ですね」


「よく言われる」


「でも」


リゼは少しだけ声を落とした。


「助けてくれて、ありがとうございます」


レオンは前を見る。


「……当たり前だ」


「当たり前?」


レオンはすぐには答えなかった。


森に残された魔法使いのことが、脳裏をよぎる。


あのとき。


自分は動かなかった。


もう英雄ではない。


そう言い聞かせて。


けれど、今は違った。


リゼとルカが危険にさらされたとき、身体が先に動いていた。


「……目の前で危ない目に遭ってる奴を、放っておけるか」


リゼは少し驚いたようにレオンを見た。


「レオンさんって、やっぱり優しいですね」


「普通だ」


「またそれですか」


リゼは小さく笑った。


そして。


少しだけ。


レオンの隣を歩く距離が近くなった。


◇


村へ戻ると。


騒ぎになった。


「ルカ!」


母親が駆け寄る。


少年を抱きしめる。


「どこに行ってたの!」


「ごめんなさい!」


「心配したんだから!」


ルカは泣きながら謝った。


「ウサギを追いかけて……森に入っちゃった」


「森には入っちゃ駄目って言ったでしょう!」


「……うん」


ルカは俯いた。


「ごめんなさい」


母親はもう一度、強く抱きしめた。


レオンは少し離れた場所で、その様子を見ていた。


ガンツが近づいてくる。


「……無事だったか」


「ああ」


「魔物は?」


「倒した」


「……何?」


「森の奥にいる。大きな熊型の魔物だ」


ガンツが息を呑んだ。


「お前が?」


「運がよかった」


「……」


ガンツはレオンを見る。


「どうやって倒した?」


「……」


レオンは少し考えた。


「木の枝で」


「……は?」


「枝だ」


ガンツは黙った。


長い沈黙。


「……冗談だろ?」


「そう思うなら、それでいい」


レオンは少しだけ声を落とした。


「それと、行方不明の魔法使いのことだが」


ガンツの表情が変わる。


「何か分かったのか?」


「魔物の身体に矢傷と火球の痕があった。冒険者たちが戦った個体で間違いないと思う」


「……そうか」


「ただ、魔法使い本人は見つけていない」


ガンツは唇を噛んだ。


「まだ森にいるかもしれないってことか」


「ああ」


レオンは森を見る。


「増援が来たら、改めて捜索した方がいい」


「分かった」


ガンツが頷く。


「明日の朝、ギルドにも連絡する」


レオンは歩き出した。


ガンツはその背中を見送る。


「……あいつ、一体何者なんだ」


◇


その夜。


レオンは居間にいた。


壁には黒剣。


《ノクティス》。


かつて。


魔王を討った剣。


レオンはそれを見つめる。


「……」


今日。


枝を振った瞬間。


懐かしい感覚があった。


敵の呼吸。


重心。


魔力の流れ。


そして。


一撃で命を断つ感触。


忘れたつもりだった。


もう。


剣を取らないと決めたはずだった。


けれど。


身体は覚えていた。


「……結局、変わらないのか」


小さく呟く。


そのとき。


脳裏に。


遠い記憶が浮かんだ。


黒い城。


崩れた玉座。


血に濡れた剣。


そして。


倒れた男。


魔王ゼルディア。


『……頼む』


低い声。


『もし娘が生きていたなら』


レオンの手が止まった。


記憶の中の魔王は。


笑っていた。


悲しそうに。


その先の言葉は。


思い出したくなかった。


レオンは目を閉じる。


「……もう終わったことだ」


誰に言うでもなく。


呟いた。


だが。


終わってなどいなかった。


◇


同じ頃。


村から遠く離れた街。


白い石造りの建物。


聖教会の支部。


薄暗い部屋に、二人の男がいた。


一人は白い法衣。


もう一人は黒い外套を羽織っている。


机の上には、一枚の報告書。


「……実験体の反応が途絶えた?」


白い法衣の男が言った。


「はい」


「いつだ」


「本日の夕刻です」


黒い外套の男が答える。


「施していた術式が、完全に沈黙しました」


「術式の不具合ではないのか?」


「可能性はあります。しかし、最後に観測された魔力の乱れは通常のものではありません」


沈黙。


法衣の男は報告書を置いた。


「銀級の冒険者三名を退けた個体だぞ」


「承知しております」


「それを倒せる者が、あの辺境にいると?」


「……調査が必要かと」


法衣の男は窓の外を見る。


夜空。


雲の隙間に月が浮かんでいた。


「……面倒なことになったな」


そして。


静かに命じた。


「調べろ」


「何をでしょう」


「実験体に何が起きたのか。そして、もし誰かが討伐したのなら、その者の正体だ」


黒い外套の男が頭を下げる。


「承知しました」


扉が閉まる。


法衣の男は一人になった。


机の引き出しを開ける。


そこには。


太陽を模した聖印。


そして。


黒い液体が入った小瓶があった。


「……世界樹の反応も、あの辺境で強まっている」


小さく呟く。


「偶然にしては、出来すぎているな」


月明かりが。


白い壁を照らしていた。

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