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「噂」

第12話 噂


翌朝。


レオンは畑にいた。


昨日、巨大な魔物を倒した男とは思えないほど、いつもどおりの朝だった。


「……抜けない」


鍬が土に刺さっている。


引く。


抜けない。


もう一度引く。


やっぱり抜けない。


「……おかしいな」


「レオンさん」


背後から声がした。


リゼだった。


両手には洗濯物の入った籠。


「また鍬と喧嘩してるんですか?」


「喧嘩じゃない」


「じゃあ何ですか?」


「交渉中だ」


「土と?」


「鍬とだ」


リゼは少し考えた。


そして、笑った。


「昨日はあんなに強かったのに」


「昨日と今日では相手が違う」


「鍬の方が強いんですね」


「……そういうことになるな」


レオンは諦めて鍬から手を離した。


リゼがくすくす笑う。


平和な朝だった。


少なくとも。


この家の周りでは。


◇


「レオン!」


村へ向かう道から声がした。


ガンツだった。


肩には弓。


腰には短剣。


いつもより少し険しい顔をしている。


「おはようございます」


リゼが頭を下げる。


「ああ、おはよう」


ガンツはレオンを見る。


「ちょっといいか」


「何かありましたか?」


「村に来てくれ」


「今ですか?」


「ああ」


レオンは畑を見る。


刺さったままの鍬。


「……まだ仕事が」


「その鍬、どうせ抜けないんだろ」


「……」


リゼが吹き出した。


「有名なんですね」


「何がだ」


「レオンさんが畑仕事、苦手なことです」


「……余計なことを」


ガンツは苦笑した。


だが、すぐに表情を戻した。


「昨日のことだ」


レオンの目がわずかに細くなる。


「……魔物ですか」


「それもある」


ガンツは森の方を見た。


「増援が来た」


◇


村へ入ると、いつもと様子が違った。


広場に人が集まっている。


子供たち。


商人。


農夫。


そして、見慣れない装備の男女。


「……冒険者か」


レオンが呟く。


ガンツが頷く。


「今朝、街から来た」


革鎧の男。


長い槍を背負った女。


大きな盾を持った男。


三人。


それぞれが周囲を警戒している。


「行方不明の魔法使いを探すためだ」


「そうですか」


レオンは短く答えた。


そのとき。


「レオン兄ちゃん!」


元気な声が響いた。


ルカだった。


少年は人混みを抜けて走ってくる。


「昨日はありがとう!」


「……走るな」


「母ちゃんもお礼言いたいって!」


「気にするな」


「それでね!」


ルカは大きく息を吸った。


「レオン兄ちゃん、枝ででっかい熊を倒したんだよ!」


広場が静かになった。


レオンは目を閉じた。


「……ルカ」


「何?」


「声が大きい」


「だって本当だもん!」


近くにいた男が振り向く。


「枝で?」


別の女が言う。


「大きな熊って、あの魔物のこと?」


「うん!」


ルカは胸を張った。


「すっごかったんだ!」


レオンは空を見上げた。


雲一つない。


いい天気だった。


「……帰りたい」


小さく呟いた。


◇


「ちょっと待ちな」


聞き覚えのある声。


マルタだった。


買い物籠を抱えている。


「レオン」


「……おはようございます」


「聞いたよ」


「何をですか」


「昨日、ルカを助けてくれたんだって?」


「たまたまです」


「たまたまで魔物を倒せるのかい?」


「……運がよかったんです」


マルタはじっとレオンを見る。


そして、にやりと笑った。


「まあ、昔から変な男だとは思ってたけどね」


「……」


「まさかそんなに強いとはねえ」


「大したことはしてません」


「はいはい」


マルタは手を振った。


「それより、リゼちゃん」


「はい?」


「昨日は怖かったろう?」


リゼは少しだけ頷いた。


「……はい」


「でも、よく頑張ったね」


「ありがとうございます」


マルタは優しく笑う。


そして、二人を交互に見た。


「それにしても」


嫌な予感がした。


レオンは一歩下がる。


「なんだか、すっかり夫婦みたいじゃないか」


「違います!」


リゼが即答した。


マルタは大笑いした。


◇


「あなたがレオンさんですか?」


背後から声がした。


振り向く。


革鎧の男が立っていた。


先ほどの冒険者だ。


年齢は三十前後。


短い黒髪。


鋭い目。


「そうですが」


「ギルドから派遣されました。ダリオといいます」


男は軽く頭を下げた。


「昨日、魔物を討伐したと聞きました」


「……はい」


「現場を案内していただけませんか」


レオンは少し考えた。


「行方不明の魔法使いを探すんですね」


「それが第一の目的です。魔物の死骸も確認したい」


ガンツが横から口を挟んだ。


「昨日のうちに運び出せればよかったんだが、あの巨体だ。村の人間だけじゃ動かせなくてな」


「なるほど」


ダリオが頷く。


「それに、妙な話を聞きまして」


「妙な話?」


「討伐された魔物が、普通の個体ではなかったと」


レオンは黙った。


「赤い目。黒い血。異常な大きさ」


ダリオは続ける。


「そんな個体は、ギルドの記録にもほとんどありません」


「……」


「あなたは何か見ませんでしたか?」


レオンの脳裏に浮かぶ。


首の付け根。


小さな穴。


黒い液体。


「……少し、気になるものはありました」


ダリオの表情が変わる。


「詳しく聞かせてください」


レオンは頷いた。


◇


昼前。


森へ向かう準備が始まった。


冒険者三人。


ガンツ。


そしてレオン。


リゼも同行しようとしたが。


「今日は村にいてくれ」


レオンが言った。


「でも……」


「昨日とは違う。今度は調査だ」


「……」


「危険がないとは言えない」


リゼは少し考えた。


「分かりました」


意外にも、素直な返事だった。


「ただし」


「……ただし?」


「絶対に無理しないでください」


レオンは頷いた。


「ああ」


「それと」


「まだあるのか」


「ちゃんと帰ってきてください」


その言葉に、レオンは少しだけ目を見開いた。


帰ってきて。


たったそれだけの言葉。


けれど。


三年前の自分には、もう二度と言われることがないと思っていた言葉だった。


「……分かった」


レオンは小さく答えた。


「行ってくる」


リゼが笑う。


「いってらっしゃい」


◇


森へ向かう道で、レオンは考えていた。


先日、負傷した冒険者から仲間の捜索を頼まれたとき。


自分は断った。


もう英雄ではない。


誰かを救うために剣を振るうつもりはない。


そう決めていたからだ。


だが、昨日。


ルカとリゼが危険にさらされた瞬間、身体は勝手に動いていた。


目の前で助けを求める誰かを。


見捨てることなどできなかった。


ならば。


森に取り残された魔法使いのことも。


このまま知らないふりをしていいのだろうか。


「……レオンさん?」


ダリオの声で我に返る。


「大丈夫ですか?」


「……ええ」


レオンは前を向いた。


「行きましょう」


◇


森の中。


昨日とは違い、鳥の声が戻り始めていた。


それでも、奥へ進むにつれ空気が重くなる。


「……この先です」


レオンが言った。


ダリオが頷く。


「慎重に進もう」


しばらく歩くと、巨大な倒木が見えた。


その先。


地面が大きく抉れている。


そして。


「……これは」


槍を持った女が息を呑んだ。


巨大な魔物の死骸。


グリーヴベア。


三メートルを超える巨体が、地面に横たわっていた。


「本当に倒したのか……」


盾の男が呟く。


ダリオは近づく。


そして、傷口を見た。


「……何だ、これは」


肩から胴へ。


一直線に走る斬撃。


あまりにも綺麗だった。


「一撃……?」


ダリオが呟く。


レオンは答えない。


槍の女が振り向く。


「これを、あなたが?」


「……はい」


「どんな武器で?」


「……」


レオンは少し考えた。


「枝です」


沈黙。


三人の冒険者が顔を見合わせた。


「……枝?」


「はい」


「木の?」


「他にありますか?」


ダリオは額を押さえた。


「……冗談ですよね?」


「そう思ってもらって構いません」


レオンは静かに答えた。


◇


調査が始まった。


ダリオたちは魔物の身体を確認する。


レオンは少し離れた場所に立っていた。


ガンツが隣に来る。


「……お前、本当に何者なんだ」


「農民です」


「もうそれは聞き飽きた」


「……」


ガンツは小さく笑った。


「まあ、いい」


そして、声を落とした。


「ルカを助けてくれた。それだけで十分だ」


レオンはガンツを見る。


「……ありがとうございます」


「礼を言うのはこっちだ」


ガンツは森の奥を見る。


「それより、魔法使いだ」


レオンも視線を向けた。


「……まだ、見つかっていませんね」


「ああ」


ガンツは拳を握った。


「せめて手掛かりだけでも」


そのとき。


「ダリオさん!」


槍の女が叫んだ。


「こっちに!」


全員が振り向く。


彼女は倒れた魔物の首元を指差していた。


「傷の奥に、何か埋まっています!」


ダリオが近づく。


レオンも後を追った。


魔物の首。


毛皮をかき分けた場所。


複数の小さな穴。


レオンが昨日、見つけたものだ。


槍の女は道具を取り出し、慎重に傷口を調べた。


「……金属?」


黒い液体に覆われた傷の奥から、小さな金属片が現れた。


外から見ただけでは分からないほど深く埋まっていたものだ。


「何だ、これは……」


ダリオが布越しに受け取る。


銀色の金属。


細長い形。


そして、表面に刻まれた模様。


太陽。


八本の光。


レオンの表情が変わった。


「……まさか」


見覚えがあった。


忘れられるはずがない。


三年前。


勇者一行が幾度も目にした紋章。


聖教会の聖印だった。


ダリオが首を傾げる。


「知っているんですか?」


レオンは答えなかった。


ただ、その金属片を見つめていた。


剣を置いたはずの男の胸に。


忘れたかった過去が。


静かに蘇り始めていた。

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