「雨の日」
雨が降っていた。
朝からずっと。
屋根を叩く雨音が、静かな家の中に響いている。
「……止みませんね」
窓の外を見ながら、リゼが呟いた。
「そうだな」
レオンは椅子に座り、古い道具の手入れをしていた。
錆びかけた鍬。
刃の欠けた鎌。
どれも剣とは比べものにならないほど扱いにくい。
少なくとも、レオンにとっては。
「畑、大丈夫でしょうか」
「昨日、溝を掘ったからな」
「でも、途中で曲がってましたよ?」
「水は流れる」
「反対側に?」
「……流れることは流れる」
リゼが笑った。
レオンは黙って鎌を磨く。
どうにも。
剣以外の刃物とは相性が悪い。
◇
昼前。
村からガンツが訪ねてきた。
雨合羽を着た猟師は、玄関先で大きく息を吐いた。
「ひどい雨だ」
「中へどうぞ」
リゼが声を掛ける。
「いや、すぐ戻る。村の様子を伝えに来ただけだ」
レオンが立ち上がった。
「冒険者は?」
「負傷した女は落ち着いた。お前の手当てがよかったらしい」
「そうですか」
「だが、行方不明の魔法使いはまだ見つかっていない」
リゼの表情が曇る。
「探しに行かないんですか?」
「行きたいのは山々だがな」
ガンツは空を見上げた。
「この雨じゃ足跡も消える。増援も街道の増水で遅れてるらしい」
「……そうですか」
レオンは短く答えた。
「剣士の方は?」
「怪我をした仲間のそばにいる。森へ戻りたがっていたが、今は動けん」
「そうでしょうね」
「雨が弱まれば、村の連中と森の入口を調べるつもりだ。増援が来れば、奥まで捜索できる」
ガンツは唇を結んだ。
「まだ生きてるかもしれんからな」
リゼが小さく頷いた。
レオンは答えなかった。
ガンツは彼を見た。
「レオン」
「はい」
「お前、昔は旅をしてたんだろ?」
「……少しだけ」
「森で妙なものを見たことはないか。赤い目で、黒い血を流す魔物なんて」
沈黙が落ちた。
レオンは答えるまでに少し時間を置いた。
「普通の魔物ではないでしょうね」
「やっぱりそうか」
「詳しいことは分かりません」
嘘ではなかった。
少なくとも、今の情報だけでは。
ガンツは深く息を吐いた。
「しばらく森には近づくな。嬢ちゃんもだ」
「はい」
リゼが頷く。
ガンツは雨の中へ戻っていった。
その背中が見えなくなるまで、レオンは玄関に立っていた。
◇
午後。
雨はさらに強くなった。
畑仕事はできない。
村にも行けない。
「何かすること、ありませんか?」
リゼが尋ねた。
「休んでればいい」
「ずっと休んでます」
「怪我人だったんだからな」
「もう元気です」
そう言って、リゼは両腕を上げた。
レオンは少し考える。
「なら、布を畳んでくれ」
「分かりました!」
返事だけは勇ましい。
しかし。
十分後。
「……リゼ」
「はい」
「それは何だ」
「畳んだ布です」
「山に見えるが」
「芸術的ですよね」
「崩れそうだぞ」
「大丈夫です」
その瞬間。
布の山が崩れた。
「……」
「……」
レオンは無言で一枚拾った。
リゼも拾う。
二人で顔を見合わせる。
そして。
リゼが吹き出した。
レオンも小さく笑った。
◇
夕方。
リゼは窓際で、破れた布を縫っていた。
買ってきた服ではない。
レオンが長く使っていた古い上着だ。
「それは捨てていいぞ」
「まだ着られます」
「穴が空いてる」
「塞げばいいです」
「新しいのを買えばいい」
「もったいないです」
リゼは針を動かす。
不器用ではない。
むしろ、妙に手慣れていた。
「裁縫は覚えてるんだな」
「そうみたいです」
「料理もできる」
「はい」
「なのに、自分がどこから来たかは覚えてない」
リゼの手が止まった。
レオンはすぐに言った。
「……悪い」
「いえ」
リゼは首を横に振る。
「私も不思議なんです」
窓の向こう。
雨に濡れた森を見る。
「覚えていることと、覚えていないことが、ばらばらで」
「……」
「自分の名前は分かるんです」
「リゼ」
「はい。でも、それを誰が呼んでいたのかは……」
言葉が途切れた。
レオンは何も言わなかった。
「変ですよね」
「そうでもない」
「そうですか?」
「ああ」
少し間を置く。
「思い出したくないことを、忘れることもある」
リゼが顔を上げた。
「レオンさんも?」
レオンは答えなかった。
ただ。
窓の外へ目を向けた。
◇
夜。
雷が鳴った。
轟音が家を揺らす。
レオンは目を覚ました。
いや。
本当に目覚めたのか。
一瞬、分からなかった。
目の前に。
雨ではないものが降っていた。
赤い。
血だった。
崩れた城壁。
折れた旗。
地面に倒れた人影。
『レオン!』
誰かが叫ぶ。
振り向く。
金色の髪。
傷だらけの鎧。
笑うと、いつも少しだけ子供っぽく見えた男。
アルト。
『行け!』
「待て!」
手を伸ばす。
届かない。
『お前は――』
雷鳴。
レオンは跳ね起きた。
暗い寝室。
雨音。
荒い呼吸。
「……夢か」
額に汗が滲んでいた。
しばらく。
動けなかった。
◇
廊下へ出ると、灯りが見えた。
居間。
リゼが椅子に座っていた。
「起きてたのか」
「雷で目が覚めちゃって」
「そうか」
レオンは水を飲む。
リゼは少し迷ってから尋ねた。
「レオンさん」
「なんだ」
「怖い夢、見ました?」
水を飲む手が止まる。
「……どうして」
「声が聞こえたので」
「そうか」
「大丈夫ですか?」
レオンは頷いた。
「昔の夢だ」
「昔……」
「気にするな」
いつもの言葉。
いつものように話を終わらせるための言葉。
けれど。
リゼは引き下がらなかった。
「気になります」
「……」
「一緒に住んでるんですから」
レオンは彼女を見た。
リゼは少し照れたように笑う。
「全部話してほしいわけじゃないです」
「……」
「ただ、つらいときくらい、つらいって言ってもいいと思います」
雨音だけが響く。
レオンはしばらく黙っていた。
「……昔、友人を失った」
ようやく。
それだけ言った。
リゼは何も聞かなかった。
「そうだったんですね」
静かな声だった。
「……ああ」
「その人、大切だったんですね」
レオンは目を閉じた。
「……そうだな」
短い返事。
それ以上の言葉は出なかった。
けれど。
不思議と。
少しだけ呼吸が楽になった。
◇
翌朝。
雨は弱まっていた。
雲の切れ間から、薄い光が差している。
リゼは台所で朝食を作っていた。
レオンは窓を開ける。
濡れた土の匂い。
遠くの森。
まだ鳥の声は戻らない。
「レオンさん!」
台所から声がする。
「今日は卵、焦がしてません!」
「昨日も焦がしてないだろ」
「昨日は少しだけです」
「少しは焦がしたのか」
「細かいことは気にしないでください」
レオンは小さく笑った。
そして。
森へ目を向ける。
行方不明の魔法使い。
赤い目の魔物。
黒い血。
雨は。
足跡を消してしまっただろう。
だが。
森で起きた何かまで。
洗い流してくれるわけではなかった。




