「村へ」
「村へ行くぞ」
朝食を終えたレオンが言うと、リゼはパンを食べる手を止めた。
「村?」
「ああ」
「私もですか?」
「そのつもりだが」
リゼは自分を指差す。
「行っていいんですか?」
「駄目な理由があるのか?」
「いえ……」
少し考えてから、リゼは嬉しそうに笑った。
「行きたいです」
「なら決まりだ」
レオンは残っていたスープを飲み干した。
今日は食料を買う必要がある。
それに、リゼの服も必要だった。
森で見つけたときに着ていた服は、血と泥で汚れ、ところどころ裂けている。
今はレオンの古いシャツを着せていた。
当然、大きい。
袖は何度も折っているし、裾も長い。
「その格好で村を歩くわけにもいかないからな」
「これ、結構気に入ってますよ?」
リゼが両腕を広げる。
「大きくて楽です」
「俺の服だぞ」
「だからですかね」
「何がだ」
「なんとなく安心します」
レオンの動きが止まった。
リゼ自身は特に深い意味で言ったわけではないらしい。
残ったパンを食べている。
「……そうか」
それだけ答える。
なぜか。
少しだけ居心地が悪かった。
◇
村までは歩いて三十分ほど。
森沿いの道を二人で進む。
天気はよかった。
木々の間から差し込む光。
鳥の声。
時折吹く風。
リゼは何度も周囲を見回していた。
「珍しいか?」
「分かりません」
「……そうだったな」
「でも」
リゼは木々を見る。
「好きだと思います」
「森が?」
「はい」
道端に咲いていた小さな花へ目を向ける。
「こういう場所を歩いてると、落ち着くんです」
「エルフだからじゃないのか」
「やっぱり私、エルフなんでしょうか」
リゼが自分の耳へ触れる。
「違うのか?」
「それも覚えてないですから」
「見た目はそうだ」
「レオンさんはエルフに会ったことあるんですか?」
「ああ」
「たくさん?」
「それなりに」
「旅をしていたとき?」
「ああ」
「どこで?」
「いろいろ」
「またそれですか」
リゼが頬を膨らませる。
「レオンさんの昔話、全然進みませんね」
「進めるつもりがないからな」
「いつか聞き出します」
「期待しない方がいい」
そんな話をしながら歩く。
一人なら三十分の道。
今日は少し長く感じた。
不思議と。
嫌ではなかった。
◇
「ここですか?」
「ああ」
村の入口。
リゼが目を輝かせていた。
大きな村ではない。
石と木で造られた家々。
畑。
小さな広場。
店が数軒。
中央から少し離れた場所には教会の尖塔が見える。
レオンにとっては見慣れた風景だ。
だがリゼには違うらしい。
「あっ、パン屋さん」
「あるな」
「いい匂いします」
「まだ食うのか?」
「見るだけです」
そう言いながらパン屋を目で追っている。
「後で買うか」
「本当ですか?」
「ああ」
「レオンさん、いい人ですね」
「パン一つで評価が決まるのか」
「大事です」
即答だった。
そのとき。
「あれ?」
声がした。
畑仕事をしていた女性がこちらを見る。
「レオン?」
「こんにちは」
女性の視線がリゼへ移る。
そして。
レオンへ戻る。
またリゼ。
またレオン。
「……」
嫌な予感がした。
「レオン」
「はい」
「その子、誰?」
「森で拾った」
「レオンさん!」
横から抗議が飛んできた。
女性が固まる。
「拾った?」
「違います!」
リゼが慌てる。
「倒れていたところを助けてもらったんです!」
「同じだろ」
「全然違います!」
「そうか?」
「そうです!」
女性は二人を交互に見て。
にやりと笑った。
「へえ」
「何ですか」
「いやぁ?」
明らかに何か勘違いしている。
「三年間、女っ気の欠片もなかったレオンがねえ」
「違います」
「何も聞いてないけど?」
「顔に書いてあります」
女性は楽しそうに笑った。
「そういえば、名前を聞いてなかったね」
リゼへ顔を向ける。
「あ、リゼといいます」
「リゼちゃんね。私はマルタ。よろしくね」
「よろしくお願いします!」
マルタはにっこり笑った。
「それで、リゼちゃん。こいつ無愛想でしょ?」
「かなり」
「おい」
「でも優しいですよ」
リゼが何気なく言った。
マルタの笑みが深くなる。
レオンは空を見る。
今日は買い物だけ済ませて早く帰ろう。
そう決めた。
◇
その決意は。
五分後には無意味になった。
「レオン兄ちゃん!」
「女の人連れてる!」
「誰!?」
子供たちが集まってきた。
「リゼだ」
「レオン兄ちゃんのお嫁さん!?」
「違う」
「違います!」
二人の声が重なった。
子供たちが笑う。
「同時に言った!」
「仲良しだ!」
「違うと言ってるだろ」
「顔赤いよ!」
「赤くない」
リゼを見る。
「……」
赤い。
「お前は赤いな」
「誰のせいですか!」
村に来て十分。
レオンはすでに疲れていた。
魔物と戦う方が楽かもしれない。
「レオン兄ちゃん!」
子供の一人が木の棒を持ってくる。
「今日、剣教えて!」
「嫌だ」
「えー!」
「危ない」
「ちょっとだけ!」
「駄目だ」
リゼが不思議そうに見る。
「剣、教えてるんですか?」
「教えてない」
「でも」
「勝手に言ってるだけだ」
「レオン兄ちゃん強いんだよ!」
子供が言う。
「へえ」
リゼの目が細くなる。
「強いんですか?」
「普通だ」
「普通の人はそんなに強くないと思いますけど」
「何を根拠に言ってる」
「なんとなくです」
「適当だな」
「レオンさんが昔のことを教えてくれないからです」
「パンを買うぞ」
「話を逸らしましたね」
「パンが食いたいんだろ」
「食べたいです」
あっさり釣られた。
◇
買い物を終えた二人は、広場のベンチに座っていた。
リゼの膝には紙袋。
中には焼きたてのパン。
一つ買う予定だった。
三つ入っている。
「買いすぎたな」
「保存できます」
「もう二つ食っただろ」
「……保存できます」
「目を逸らすな」
リゼはパンを一口齧った。
幸せそうな顔をする。
「美味しいです」
「そうか」
レオンは水を飲む。
しばらく。
穏やかな時間が流れた。
そのとき。
カーン。
鐘が鳴った。
レオンの手が止まる。
カーン。
二度目。
村の教会。
昼を知らせる鐘。
広場にいた何人かが、胸元へ手を当てる。
リゼも教会を見る。
白い壁。
尖塔。
太陽を模した聖印。
「教会……」
その言葉に。
レオンの指がわずかに動いた。
「知ってるのか?」
「分かりません」
リゼは首を傾げる。
「でも、見たことがある気がします」
レオンが彼女を見る。
「どこで?」
「……」
リゼは目を閉じる。
何かを探すように。
「分からない」
「無理に思い出すな」
「でも」
そのとき。
リゼの表情が変わった。
「……っ」
胸元を押さえる。
「どうした?」
「分かりません」
「痛いのか?」
「違う……」
リゼは教会を見つめている。
「なんだか……嫌な感じがします」
レオンの目が細くなった。
「嫌?」
「怖い、のかな」
自分でも分からないらしい。
「胸がざわざわするんです」
レオンは教会を見る。
聖印。
太陽。
昔と変わらない形。
脳裏に。
白い衣。
血。
そして。
泣いている少女の顔が一瞬だけ浮かんだ。
『ごめんなさい』
レオンは目を閉じる。
「レオンさん?」
「……行くぞ」
「え?」
「買い物は終わった」
立ち上がる。
「帰ろう」
リゼは少し不思議そうだったが。
「はい」
立ち上がった。
二人は教会へ近づかなかった。
◇
村を出ようとしたところで。
「レオン!」
後ろから声を掛けられた。
振り返る。
村の猟師ガンツだった。
五十を過ぎた男。
弓を背負っている。
「ちょうどよかった」
「どうしました?」
「お前、森の近くに住んでるだろ」
「ああ」
ガンツの顔は険しい。
「例の足跡だ」
レオンの表情が変わる。
「また見つかったんですか?」
「ああ」
「場所は?」
「北側。昨日より村に近い」
「大きさは?」
ガンツが両手を広げる。
「これくらいだ」
リゼの顔から笑みが消えた。
人間の頭より大きい。
「熊?」
レオンが聞く。
「分からん」
「爪痕は?」
「ある」
「何本?」
「……四本だ」
レオンが黙る。
普通の熊ではない。
「家畜は?」
「今のところ無事だ。だが鹿が一頭やられてた」
「食われてた?」
「いや」
「……」
レオンの目が細くなる。
「殺されてただけだ」
ガンツが言う。
食うためではない。
縄張り争い。
あるいは。
別の理由。
「ギルドには?」
「今朝知らせた。明日には冒険者が来る」
「そうですか」
「だからお前も森へ入るなよ」
「ああ」
ガンツはリゼを見る。
「嬢ちゃんもな」
「はい」
「最近、森がおかしい」
その言葉に。
リゼが森を見る。
「おかしい?」
「ああ」
ガンツは眉を寄せた。
「獣が減ってる」
レオンが反応する。
「いつから?」
「数日前だ」
数日前。
レオンは横目でリゼを見る。
彼女が森に倒れていたのも。
数日前。
「偶然か……」
小さく呟く。
「何か言ったか?」
「いや」
ガンツと別れる。
◇
帰り道。
リゼは静かだった。
「疲れたか?」
「少し」
「怪我が治ったからって調子に乗るからだ」
「それもありますけど」
「他に?」
リゼは少し迷った。
「教会」
レオンの歩みがほんのわずかに遅くなる。
「やっぱり、変な感じがしました」
「そうか」
「レオンさんは?」
「何が?」
「教会」
リゼは彼を見る。
「好きじゃないですよね?」
沈黙。
「どうしてそう思う」
「鐘が鳴ったとき」
「……」
「顔が変わりました」
よく見ている。
レオンは少し困った。
「神様を信じてないんですか?」
「神がいるかどうかは知らない」
「じゃあ?」
しばらく歩いて。
レオンは答えた。
「……神様とは、あまり相性が良くなくてな」
「神様と相性ってあるんですか?」
「たぶん」
「会ったことあるみたいな言い方ですね」
「ない」
「本当に?」
「たぶんな」
「たぶん?」
リゼが笑う。
重くなりかけていた空気が少しだけ戻った。
レオンもそれ以上は話さなかった。
◇
家へ着いた頃。
太陽は西へ傾いていた。
「疲れました」
リゼが椅子へ座る。
「だから言っただろ」
「でも楽しかったです」
「村が?」
「はい」
買ってきた服。
パン。
村人たちとの会話。
子供たち。
どれも。
記憶のないリゼにとっては、新しいものだった。
「また行きたいです」
「好きにすればいい」
「一緒に?」
「一人で行けるだろ」
「迷うかもしれません」
「一本道だ」
「魔物がいるかも」
「明日冒険者が来る」
「記憶喪失です」
「関係ないだろ」
「じゃあ……」
リゼが考える。
「寂しいです」
レオンが止まる。
「……」
リゼも。
自分で言ってから少し恥ずかしくなったらしい。
「……という理由では?」
「……好きにしろ」
「やった」
リゼが笑う。
レオンは荷物を持って台所へ逃げた。
◇
その夜。
二人が眠った頃。
森。
村から北へ離れた場所。
月明かりの届かない木々の奥。
何かが歩いていた。
ズシン。
地面が沈む。
ズシン。
鳥たちは鳴かない。
虫の声もない。
巨大な影が止まる。
鼻を動かす。
何かの匂いを探している。
そして。
ゆっくりと。
レオンの家がある方向へ顔を向けた。
低い唸り声。
巨大な獣の足元には。
折れた木の枝。
踏み潰された草。
そして、地面に落ちた黒い液体。
血ではない。
粘つく。
不自然なほど黒い液体だった。
巨大な獣の瞳が。
一瞬だけ。
不気味な赤色に光った。




