「元英雄、畑に負ける」
朝食を終えてから、レオンは畑の前に立っていた。
隣にはリゼがいる。
二人の前には、昨日までレオンが一人で戦い続けてきた畑が広がっている。
右へ曲がった畝。
途中から左へ戻っている畝。
なぜか円を描きかけている畝。
リゼはしばらく黙っていた。
「……」
「何か言いたそうだな」
「言っていいですか?」
「内容による」
「どうしてこうなったんですか?」
「駄目だ」
「まだ何も言ってません」
「顔で分かる」
リゼは口元を押さえた。
肩が震えている。
「笑うなら笑え」
「笑ってません」
「じゃあこっちを見ろ」
「無理です」
「笑ってるじゃないか」
とうとう耐えられなくなったらしい。
「ふふっ……」
「……」
「あははっ!」
「そこまで笑うことか?」
「だって!」
リゼが畑を指差す。
「なんで途中から戻ってきてるんですか!」
「知らん」
「レオンさんが作ったんですよね?」
「俺にも分からない」
「こっちは?」
「失敗した」
「これは?」
「それも失敗だ」
「じゃあ、これは?」
リゼの指の先。
一本だけ、妙に短い畝がある。
「……途中で嫌になった」
リゼが腹を抱えた。
レオンは空を見上げる。
魔物の群れに囲まれたときでさえ、これほど屈辱的な気分にはならなかった。
「もういい」
鍬を持つ。
「今日全部直す」
「あ、私もやります」
「怪我は?」
「もうほとんど痛くありません」
「無理はするな」
「分かってます」
リゼは倉庫から予備の鍬を持ってきた。
「やったことあるのか?」
「分かりません」
「……そうだったな」
「でも」
リゼは鍬を構える。
「なんとなく、できそうな気がします」
「そんな簡単じゃないぞ」
「レオンさんが言うと説得力がありますね」
「どういう意味だ」
「そのままです」
二人は並んで畑へ入った。
◇
一時間後。
レオンは無言だった。
目の前には二本の畝がある。
左。
真っ直ぐ。
右。
曲がっている。
「……」
左はリゼ。
右はレオン。
「レオンさん」
「何も言うな」
「でも」
「何も言うな」
「はい」
リゼは素直に頷いた。
しかし。
口元が笑っている。
「笑ってるだろ」
「笑ってません」
「こっちを見ろ」
「今忙しいです」
「絶対笑ってるな」
レオンは自分の畝を見る。
なぜだ。
途中までは真っ直ぐだった。
気づいたら曲がっていた。
剣ならそんなことはない。
相手の呼吸。
重心。
視線。
筋肉の動き。
すべてを見る。
そして最短の一撃を入れる。
ほんのわずかな狂いも許さない。
なのに。
「……鍬が悪いのか?」
「道具のせいにし始めましたね」
「違うのか?」
「貸してください」
リゼがレオンの鍬を受け取る。
そのまま土へ入る。
しばらくして。
真っ直ぐな畝が一本増えた。
「鍬じゃないですね」
「……」
「レオンさん?」
「昼にするか」
「逃げました?」
「腹が減った」
「逃げましたね」
レオンは家へ向かった。
後ろからリゼの楽しそうな笑い声が聞こえた。
◇
昼食は簡単なものだった。
昨日のスープ。
パン。
干し肉。
二人で向かい合って食べる。
「午後もやります?」
リゼが聞く。
「当然だ」
「諦めないんですね」
「畑に負けたままでは終われない」
「畑と戦ってる人、初めて見ました」
「俺も初めてだ」
リゼが笑う。
レオンはパンをちぎる。
この家で誰かと話しながら食事をする。
まだ慣れない。
だが。
昨日よりは自然だった。
「そういえば」
リゼが言う。
「なんだ?」
「昨日の部屋」
「ああ」
「ありがとうございました」
「礼を言われるほどじゃない」
「でも、自分の部屋があるって……なんだか安心します」
レオンの手が止まる。
「安心?」
「はい」
リゼは少し恥ずかしそうに笑う。
「私、自分がどこから来たのか分からないじゃないですか」
「……ああ」
「だから昨日までは、目を閉じると少し怖かったんです」
「……」
「起きたらまた森にいるんじゃないかって」
レオンは何も言わない。
「でも」
リゼは続ける。
「昨日はちゃんと眠れました」
「そうか」
「この家、不思議なんです」
「何が?」
「落ち着くんです」
まただ。
以前にも似たことを言っていた。
「初めて来た場所なのに?」
「はい」
リゼは窓の外を見る。
「なんというか……」
言葉を探す。
「帰ってきたみたいな感じがするんです」
レオンの眉がわずかに動いた。
「帰ってきた?」
「変ですよね」
「……そうだな」
初めて来たはずの場所。
それを「帰ってきた」と感じる。
記憶と関係があるのか。
それとも――。
レオンは畑を見る。
あの芽。
昨日突然生えた植物。
「レオンさん?」
「いや」
今は考えても分からない。
「食べよう」
「はい」
◇
午後。
畑仕事を再開した。
今度はリゼが前。
レオンが後ろ。
「ここを見てください」
リゼが地面を指差す。
「遠くを見て歩くと曲がりやすいので」
「なるほど」
「少し先の場所を目印にして」
「こうか?」
「そうです」
レオンが鍬を入れる。
進む。
少し進んで振り返る。
「……」
曲がっていた。
「なんでですか!?」
ついにリゼまで驚いた。
「俺が聞きたい」
「逆にすごいですよ!」
「褒めてないだろ」
「ある意味才能です」
「嬉しくない」
リゼは笑いながら、自分の作業へ戻る。
そのときだった。
「あ」
「どうした?」
「これ」
畑の端。
例の小さな芽がある。
昨日より少し大きくなっていた。
「成長早くないですか?」
「俺もそう思う」
リゼがしゃがむ。
「触るなよ」
「毒草かもしれない、ですよね?」
「覚えてたか」
「はい」
リゼは手を伸ばさず、芽を見つめる。
しばらくして。
「……大丈夫だと思います」
「何が?」
「毒はないです」
レオンの表情が変わる。
「なぜ分かる?」
「……」
リゼ自身も困った顔をする。
「分かりません」
「分からないのに分かるのか?」
「変ですよね」
「かなりな」
リゼは目を閉じた。
「でも」
小さな声。
「なんとなく、この子がそう言ってる気がして」
「植物が?」
「はい」
レオンは芽を見る。
「声が聞こえるのか?」
「声じゃありません」
「じゃあ何だ?」
「うーん……」
リゼが考える。
「気持ち?」
「植物の?」
「……たぶん」
「……」
普通なら笑うところだろう。
だがレオンは笑わなかった。
魔法には様々な系統がある。
火。
水。
風。
土。
光。
闇。
それ以外にも。
精霊と契約する者。
植物へ干渉する者。
動物と意思を交わす者。
珍しくはあるが、存在する。
「魔法かもしれないな」
「私、魔法が使えるんですか?」
「可能性はある」
リゼの目が輝いた。
「じゃあ試してみてもいいですか?」
「何を?」
「魔法」
「やり方分かるのか?」
「……分かりません」
「やめておけ」
「即答ですね」
「家を燃やされたくない」
「植物なのに!?」
「記憶喪失なんだろ。突然火が出てもおかしくない」
「そんなことあります?」
「魔法は失敗すると大体ろくなことにならない」
「経験者みたいに言いますね」
「見たことがあるだけだ」
大賢者セイルが魔法の実験に失敗し、宿屋の屋根を吹き飛ばした光景を思い出す。
あれはひどかった。
宿屋の主人より、聖女エレナの方が怒っていた。
『セイル!』
『理論上は成功するはずだった』
『屋根がありませんけど!?』
『理論と現実には多少の誤差が――』
『多少!?』
レオンの口元がわずかに緩んだ。
「レオンさん?」
「何でもない」
昔の記憶。
最近。
よく思い出す。
リゼが来てからだ。
なぜなのか。
レオン自身にも分からなかった。
◇
夕方。
二人は作業を終えた。
畑を見る。
昨日よりかなりまともになっている。
ほとんどリゼのおかげだった。
「どうです?」
「悪くない」
「悪くない?」
「かなりいい」
「最初からそう言えばいいのに」
リゼが満足そうに笑う。
レオンは鍬を肩へ担ぐ。
「帰るぞ」
「はい」
二人が家へ向かって歩き始める。
その途中。
リゼが振り返った。
「……?」
「どうした?」
「今」
畑を見る。
「呼ばれた気がして」
「誰に?」
「分かりません」
静かな畑。
人はいない。
森にも誰かがいる気配はない。
「気のせいか」
「……そうですね」
二人は家へ戻った。
誰もいなくなった畑。
夕日が沈んでいく。
やがて。
例の芽の葉が、ゆっくりと動いた。
風はない。
それでも。
葉は家の方へ向いた。
まるで。
リゼの後ろ姿を追いかけるように。
そして。
地面の遥か下。
暗闇の中。
巨大な根の一部に。
ほんのわずかな光が灯った。
◇
その夜。
リゼが眠った後。
レオンは一人で外へ出た。
月明かりの下。
畑へ向かう。
例の芽の前で止まる。
しゃがむ。
「……」
葉は普通だった。
光っているわけでもない。
魔力もほとんど感じない。
ただの植物。
そう見える。
レオンは手を伸ばす。
葉へ触れる。
何も起きない。
「俺には反応しない、か」
小さく呟いた。
立ち上がる。
そして家へ戻ろうとして。
森の方を見る。
「……」
何か。
ほんの一瞬。
視線を感じた。
レオンの目から、いつもの穏やかさが消える。
暗い森。
誰もいない。
虫の声。
木々の葉。
それだけ。
だが。
レオンはしばらく森を見続けた。
「……気のせいならいいが」
その声は。
昼間リゼと話していた男のものとは違っていた。
静かで。
冷たく。
研ぎ澄まされていた。
そして。
森のさらに奥。
木の陰。
巨大な足跡が一つ。
柔らかな地面へ深く刻まれていた。




