「リゼがこの家にいる理由」
昼を少し過ぎた頃。
レオンは家の裏で薪を割っていた。
乾いた音が森の入口に響く。
薪を台へ置く。
斧を振り下ろす。
ぱきん、と綺麗に二つに割れた。
もう一つ。
同じように割る。
畑とは違う。
薪割りなら思った通りになる。
「……これくらい素直ならいいんだが」
レオンは畑の方を見る。
朝よりさらに歪んだ畝が、そこにあった。
結局、リゼに笑われた後で作り直そうとした。
結果。
もっと曲がった。
理由は分からない。
剣なら数百メートル先の木の葉を狙って斬れる。
それなのに、鍬を持つと真っ直ぐ進めない。
「向いてないのかもしれないな」
三年目にして、ようやく気づき始めていた。
「何がですか?」
突然、後ろから声がした。
レオンが振り返る。
家の扉からリゼが顔を出していた。
「寝てろ」
「またそれですか?」
「怪我人だからな」
「もう大丈夫です」
そう言って外へ出てくる。
まだ動きは少しぎこちない。
「大丈夫な人間はそんな歩き方しない」
「エルフです」
「昨日も聞いた」
「じゃあ覚えてるじゃないですか」
「面倒だな」
「今、面倒って言いました?」
レオンは答えず、次の薪を台へ置いた。
斧を振る。
ぱきん。
リゼがそれを見る。
「すごい」
「薪を割っただけだ」
「綺麗に真ん中です」
「普通だろ」
「畑はあんなに曲がるのに」
斧を持つ手が止まった。
「……家に戻れ」
「怒りました?」
「怒ってない」
「怒ってますね」
リゼが笑う。
昨日。
森で拾ったときには、死にそうな顔をしていた少女。
それが今は笑っている。
それだけでも助けた意味はあったのかもしれない。
レオンはそう思った。
「座ってろ」
家の壁際にある木箱を指差す。
「終わったら傷を見る」
「はい」
今度は素直に従った。
リゼは木箱へ腰掛ける。
レオンは再び薪を割り始めた。
何度か斧を振ったところで。
「レオンさん」
「なんだ」
「この辺りには、ずっと住んでるんですか?」
「三年くらいだ」
「その前は?」
「旅をしてた」
「どこへ?」
「いろいろ」
「いろいろって?」
「いろいろだ」
「……」
リゼが頬を膨らませる。
「レオンさんって、自分のこと全然話さないですね」
「話すほどのことがない」
「ありますよ」
「例えば?」
「家族とか」
斧が薪へ食い込んだ。
ほんの一瞬。
レオンの動きが止まる。
「いない」
「……ごめんなさい」
「謝ることじゃない」
レオンは薪から斧を抜いた。
「君は?」
「私?」
「家族」
リゼの表情が曇る。
「……分かりません」
「そうだったな」
今度はレオンが悪かった。
「すまない」
「お互い様ですね」
「そうだな」
少しだけ笑う。
そして。
リゼは空を見上げた。
青い空。
ゆっくり流れる雲。
「私にも……いるんでしょうか」
「何が?」
「家族」
レオンは答えられなかった。
記憶を失っているだけなら、どこかにいる可能性は高い。
だが。
少女があれほどの傷を負い、一人で森を逃げていた。
普通ではない。
安易に「いる」と言うこともできなかった。
「探せばいい」
レオンは言った。
「え?」
「記憶が戻らなければ探せばいい」
「でも、どうやって……」
「村に行けば冒険者ギルドの出張所がある。人探しの情報くらい集められる」
「……」
「エルフなら、大森林方面へ問い合わせることもできるだろう」
レオンは次の薪を手に取る。
「だから今は治せ」
「……はい」
小さな返事だった。
◇
午後。
レオンはリゼの包帯を替えた。
傷は順調に塞がっている。
「治りが早いな」
「そうなんですか?」
「ああ」
人間より多少治癒能力が高い種族はいる。
エルフもその一つだ。
とはいえ。
昨日の傷を考えれば、少し早すぎる気もする。
「痛むか?」
「少しだけ」
「熱は?」
「ないと思います」
レオンは額へ手を当てた。
「……」
「……」
数秒。
リゼの顔が赤くなる。
「な、なんですか」
「熱を見るだけだ」
「先に言ってください」
「今言った」
「触る前にです!」
「面倒だな」
「また言った!」
熱はない。
レオンは手を離す。
「問題なさそうだ」
「だから言ったじゃないですか」
「本人の大丈夫ほど信用できないものはない」
包帯を巻き直す。
リゼはその手元を見ていた。
「慣れてますね」
「何が?」
「治療」
「昔、覚えた」
「旅をしていたとき?」
「ああ」
「冒険者って大変なんですね」
「……まあな」
また。
嘘ではない答え。
レオンは包帯を結んだ。
「終わりだ」
「ありがとうございます」
「今日はまだ無理するな」
「はい」
リゼが服を整える。
そのまま立ち上がろうとして。
止まった。
「レオンさん」
「なんだ?」
「私……これからどうしたらいいんでしょう」
レオンは彼女を見る。
リゼは俯いていた。
「記憶が戻るまでっていう意味か?」
「それもあります」
少し間を置く。
「でも、記憶が戻らなかったら?」
答えはすぐには出なかった。
リゼは続ける。
「名前しか分からないんです」
「……」
「お金もありません」
「……」
「帰る場所も分かりません」
「……」
「それに」
リゼは自分の手を見る。
「私がどんな人だったのかも分からない」
声が震えていた。
昨日から。
きっとずっと怖かったのだろう。
自分が誰かも分からない。
頼れる人もいない。
それでも笑っていた。
料理を作った。
レオンの畑を見て笑った。
だが。
不安が消えたわけではない。
「もし」
リゼが言う。
「私が悪い人だったらどうします?」
「悪い人?」
「誰かから逃げていたのかもしれません」
「そうだな」
「もしかしたら犯罪者とか」
「あり得る」
「そこは否定してくださいよ」
「分からないものは分からない」
「……」
リゼが少しだけ笑った。
だがすぐに表情が戻る。
「だから……迷惑をかけるかもしれません」
レオンは黙っていた。
迷惑。
危険。
面倒事。
確かにその可能性はある。
むしろ。
レオンの経験からすれば、何も起こらない可能性の方が低い。
森で襲われた少女。
記憶喪失。
見たことのない紋章。
そして。
妙に懐かしい料理。
普通ではない。
なら。
関わらない方がいい。
村へ預ける。
ギルドへ任せる。
それが一番合理的だ。
レオンはそういう判断を何度もしてきた。
戦場では。
一人を助けるために全員を危険に晒すことはできない。
何を守るか。
何を捨てるか。
選ばなければならなかった。
そして。
何度も選んだ。
何度も――失った。
『レオン』
頭の奥で声がした。
『お前、戦争が終わったら何する?』
金色の髪。
笑っている男。
レオンは目を閉じる。
そして。
「リゼ」
「はい」
「ここにいればいい」
リゼが顔を上げる。
「……え?」
「記憶が戻るまで」
「でも」
「部屋ならある」
「迷惑じゃ……」
「一人増えたところで大して変わらない」
「でも食費とか」
「畑がある」
リゼは窓の外を見る。
曲がった畝。
何も育っていない畑。
「……食べられるもの、できるんですか?」
「出ていってもいいぞ」
「冗談です!」
慌ててレオンを見る。
そして。
少し迷ってから。
「本当に……いいんですか?」
「ああ」
「いつまでか分かりませんよ」
「記憶が戻るまででいい」
「戻らなかったら?」
レオンは少し考えた。
「そのとき考える」
「……適当ですね」
「先のことなんてそんなものだ」
リゼは黙った。
そして。
「ありがとうございます」
深く頭を下げた。
レオンはそれを見ながら。
「ただし」
「はい?」
「条件がある」
リゼが緊張する。
「条件……?」
「ああ」
レオンは真剣な顔で言った。
「朝飯を作ってくれ」
「……」
「できれば毎日」
数秒。
リゼが瞬きをする。
そして笑った。
「それくらいなら」
「ああ」
「畑も手伝います」
「それはいい」
「どうしてです?」
「俺がやる」
「でも曲がって――」
「それ以上言うな」
またリゼが笑う。
家の中に笑い声が響いた。
レオンはそれを聞いていた。
不思議な感覚だった。
三年間。
この家は静かだった。
静かな場所を求めて、この土地へ来た。
誰もいないことを望んだ。
それなのに。
今は。
このくらいの音なら悪くないと思った。
◇
「部屋を作らないとな」
夕方。
レオンは廊下の奥にある扉を開けた。
「部屋?」
リゼが後ろから覗き込む。
「ここを使えばいい」
扉の先。
そこには――。
大量の荷物が積まれていた。
木箱。
古い毛布。
使っていない道具。
本。
樽。
「……物置ですね」
「部屋だ」
「物置です」
「片付ければ部屋になる」
「どのくらいかかります?」
「一時間」
リゼは部屋を見る。
「三時間」
「二時間だ」
「じゃあ二時間で」
交渉が成立した。
二人で荷物を運び出す。
「これは?」
「捨てていい」
「これは?」
「残す」
「これは?」
「捨てる」
順調だった。
そして。
リゼが一つの木箱へ手を伸ばした。
他の箱より古い。
蓋には埃が積もっている。
「これは?」
レオンが振り返る。
「……」
動きが止まった。
「レオンさん?」
「それは俺がやる」
「重いんですか?」
「いや」
レオンは箱を受け取る。
「昔の物だ」
それだけ言って。
別の部屋へ運んでいった。
リゼは少し不思議そうに見送った。
◇
夜。
リゼが眠った後。
レオンは一人で例の木箱の前に座っていた。
しばらく。
蓋へ手を置く。
開ける必要はない。
そう思った。
三年間。
一度も開けていない。
捨てることもできず。
見ることもできず。
ずっと物置の奥へ押し込んでいた。
だが。
今日はなぜか。
レオンは蓋を開けた。
中には古い服。
地図。
使い込まれた革袋。
そして。
一枚の布。
レオンはそれを持ち上げる。
布の中央に刺繍されていた。
剣。
翼。
そして太陽。
かつて。
大陸中の人間が知っていた紋章。
勇者一行に与えられた――英雄の証。
レオンはしばらく見つめていた。
やがて。
その下にあるものへ目を向ける。
一枚の古い紙。
端が焼けている。
五人の名前が書かれていた。
一つ目。
アルト。
二つ目。
レオン。
三つ目。
エレナ。
四つ目。
セイル。
五つ目。
ガルド。
レオンの指が。
最初の名前のところで止まった。
『レオン』
あの声。
『戦争が終わったらさ――』
レオンは紙から手を離した。
箱を閉じる。
「……今さらだ」
小さく呟く。
立ち上がる。
そのとき。
廊下の向こう。
リゼの部屋から寝返りを打つ音が聞こえた。
レオンはそちらを見る。
そして。
箱をもう一度、物置の奥へ戻すことはしなかった。
自分の部屋へ持っていく。
理由は分からない。
ただ。
そうした。
◇
翌朝。
レオンが目を覚ますと。
家の中から何かを切る音が聞こえていた。
トン。
トン。
トン。
「……」
ベッドから起きる。
台所へ向かう。
リゼが朝食を作っていた。
「おはようございます」
「……おはよう」
「もう少しでできますよ」
「ああ」
レオンはテーブルを見る。
五脚の椅子。
そのうち。
昨日まで空だった一脚に。
リゼの上着が掛けられていた。
ほんの小さな変化。
誰も気にしないようなこと。
それでもレオンは。
しばらく、その椅子を見ていた。
空席が。
一つ。
埋まった。




