「朝ごはん」
レオンは畑の前でしゃがみ込んでいた。
朝日が森の向こうから差し込み、まだ冷たい空気を少しずつ暖めている。
鳥の声。
木々のざわめき。
いつもと変わらない朝。
違うものがあるとすれば――。
「……やっぱり生えてるな」
目の前の、小さな芽だった。
昨日まで何もなかった。
少なくともレオンの記憶ではそうだ。
そもそも、この場所にはまだ種すら蒔いていない。
にもかかわらず。
柔らかな土を押し上げるように、小さな双葉が顔を出していた。
「雑草か?」
指を伸ばす。
抜こうとして――。
「……まあ、いいか」
やめた。
何が育つのか少し気になった。
毒草ならそのとき抜けばいい。
レオンは立ち上がる。
「それより問題はこっちだな」
視線を横へ。
昨日作った畝がある。
やはり曲がっている。
一晩経っても真っ直ぐにはなってくれなかった。
当然である。
「…………」
レオンは腕を組んだ。
昨日より少しだけ右へ傾いているような気さえする。
そんなはずはない。
「やり直すか」
鍬へ手を伸ばした。
そのときだった。
「……ん?」
家の方から何かの匂いがした。
レオンの手が止まる。
香ばしい。
肉。
それから何か甘い香り。
「火?」
一瞬警戒して、すぐに違うと気づく。
火事の匂いではない。
これは――。
「料理か?」
レオンは家へ向かった。
◇
扉を開けた瞬間。
「おはようございます」
声が飛んできた。
レオンは足を止める。
台所にリゼが立っていた。
銀白色の髪を後ろで簡単に束ね、鍋をかき混ぜている。
昨日まで一人だった家。
そこに誰かが立っている。
それだけで、いつもの朝とはまるで違って見えた。
「……何してる」
「見れば分かりません?」
「料理」
「正解です」
「そうじゃなくて」
レオンはリゼへ近づく。
「寝てろと言っただろ」
「もう大丈夫です」
「昨日死にかけてた人間の台詞じゃない」
「エルフです」
「そこはどうでもいい」
リゼが少し笑う。
「お腹が空いて起きたんです。でもレオンさんがいなかったので」
「畑にいた」
「窓から見えました」
リゼは鍋を混ぜながら言った。
「ずっと畑の前で難しい顔してましたね」
「考え事だ」
「畑を見ながら?」
「ああ」
「何を?」
「どうすれば畝が真っ直ぐになるか」
「……」
リゼの手が止まる。
「そんなに難しい問題なんですか?」
「難しい」
真顔だった。
リゼは耐えきれなくなったように笑った。
「笑うな」
「だって……ふふっ……」
「剣より難しいんだぞ」
口にしてから、レオンはしまったと思った。
リゼの笑いが止まる。
「……剣?」
「……」
「昨日も思いましたけど、レオンさんってやっぱり冒険者だったんですか?」
「昔、少しな」
「少し?」
「少しだ」
嘘ではない。
少しどころではないだけだ。
リゼは疑わしそうに見ていたが、それ以上は聞かなかった。
代わりに鍋へ視線を戻す。
「もうできますよ」
「何が?」
「朝ごはんです」
その言葉に。
レオンは一瞬、返事ができなかった。
朝ごはん。
誰かからそう言われたのは、いつ以来だろう。
思い出せない。
「……どうしました?」
「いや」
レオンは椅子を引いた。
「いただこう」
◇
テーブルには、湯気を立てるスープと焼いた肉。
それから薄く切ったパン。
大した料理ではない。
だが。
「……美味い」
一口食べたレオンが言った。
向かい側のリゼの表情が明るくなる。
「本当ですか?」
「ああ」
もう一口。
やはり美味い。
肉には少し甘辛い味付けがされている。
香草。
蜂蜜。
そして――。
「……」
レオンの手が止まった。
「どうしました?」
「いや」
肉をもう一度口へ運ぶ。
間違いない。
香草を炙って香りを立たせてから、潰した木の実と蜂蜜を合わせる。
この辺りではまずやらない調理法だ。
レオンは昔、同じ味を食べたことがある。
ずっと遠く。
人間の国ではない場所で。
――魔族領。
戦争の最中だった。
雨宿りのために入った廃村。
誰もいないと思っていた家に、一人の老婆が残っていた。
人間である自分たちを恐れていた。
それでも最後には、あり合わせの食材で食事を作ってくれた。
その肉の味と、よく似ている。
『兵隊さんも腹は減るだろう』
しわだらけの老婆の顔。
そして。
『魔族も飯を食うんだな』
驚いたように言った男の声。
『当たり前だろ』
自分はそう返した。
『いや、そうなんだけどさ』
金色の髪の青年が笑う。
『なんか俺たち、変な戦争してるよな』
――アルト。
「レオンさん?」
声に引き戻された。
目の前にリゼがいる。
「……悪い」
「やっぱり口に合いませんでした?」
「逆だ。美味い」
「ならよかった」
リゼがほっとする。
レオンは何気ない口調で尋ねた。
「この味付け、誰に習った?」
「え?」
リゼが瞬きをする。
「……誰でしょう」
「覚えてないのか?」
「はい」
自分の皿を見る。
「でも、作ろうと思ったら手が勝手に」
「そうか」
「変ですよね」
「そうでもない」
レオンは食事を再開した。
身体が覚えていることはある。
剣と同じだ。
記憶を失っても、長年繰り返した動作まで完全に消えるとは限らない。
だから。
リゼがこの料理を知っているからといって、魔族と関係があるとは限らない。
そう思った。
思うことにした。
「ところで」
リゼが言った。
「なんだ?」
「レオンさんって、一人暮らしですよね?」
「ああ」
「ずっと?」
「三年くらいは」
「じゃあ、どうしてですか?」
「何が?」
リゼが指差す。
レオンも見る。
椅子。
リゼが座っているもの。
レオンが座っているもの。
そして空席が三つ。
合計五脚。
「……椅子?」
「はい」
リゼは首を傾げる。
「一人暮らしなのに、五脚もあります」
「……」
「お客さんがよく来るんですか?」
「いや」
「ご家族?」
「いない」
「じゃあ、どうして?」
レオンは三つの空席を見る。
いつもそこにある。
見慣れているはずなのに。
今日は妙に目についた。
五脚。
なぜ五脚作ったのか。
自分でも分かっている。
考えて作ったわけではない。
この家を建て。
机を作り。
椅子を作った。
一脚。
二脚。
三脚。
四脚。
そして五脚。
そこまで作って初めて、自分は一人なのだと思い出した。
「……昔の癖だ」
「癖?」
「ああ」
それだけ答える。
リゼは何かを感じ取ったのか、それ以上聞かなかった。
沈黙。
気まずくはなかった。
窓から朝日が入ってくる。
森から鳥の声。
鍋からまだ湯気が立っている。
レオンはパンをちぎった。
「リゼ」
「はい?」
「スープも美味い」
「……ありがとうございます」
嬉しそうに笑う。
その笑顔を見て。
レオンはふと、昔の光景を思い出した。
◇
――長い木の机。
五人分の皿。
「おい、レオン! 俺の肉取っただろ!」
「取ってない」
「じゃあどこ行ったんだよ!」
「ガルドが食ったぞ」
「おい、レオン!?」
大男が慌てる。
「ガルドォ!」
「違う! こいつが嘘を――」
「食事中くらい静かにできないんですか?」
白い衣装の少女が呆れた声を出す。
その隣では、本を読みながら食事をしている男。
「セイルも何とか言え!」
「うるさい。今いいところなんだ」
「飯食いながら本読むなよ!」
笑い声。
くだらない会話。
五人。
いつも五人だった。
「レオン」
アルトがパンを齧りながら言う。
「戦争が終わったらさ」
「なんだ」
「何する?」
「急だな」
「いいだろ、別に」
アルトは笑った。
「俺は――」
◇
「レオンさん?」
目を開ける。
リゼが心配そうにこちらを見ていた。
「大丈夫ですか?」
「……ああ」
「ぼーっとしてました」
「少し昔を思い出しただけだ」
「昔?」
「大したことじゃない」
レオンは水を飲む。
アルトがあの後、何と言ったのか。
もちろん覚えている。
忘れたことなど一度もない。
ただ。
今は思い出したくなかった。
「ごちそうさま」
立ち上がる。
「もういいんですか?」
「ああ。美味かった」
「ならよかったです」
リゼが皿を片付けようとする。
「置いとけ」
「え?」
「料理してもらったんだ。片付けくらい俺がする」
「でも怪我人だから寝てろって」
「それは俺の台詞だ」
「もう元気です」
「なら畑を手伝え」
リゼが固まる。
レオンは少しだけ笑った。
「冗談だ」
「……レオンさん」
「なんだ?」
「意外と冗談言うんですね」
「俺を何だと思ってる」
「もっと怖い人かと」
「昨日助けた相手に言われたくないな」
また。
リゼが笑った。
昨日より自然な笑顔だった。
レオンは食器を持って台所へ向かう。
その途中。
ふと振り返った。
テーブル。
五脚の椅子。
そのうち二脚に。
今朝は人が座っていた。
「……」
悪くない。
そう思った自分に気づき、レオンは少しだけ眉を寄せた。
◇
食事の後。
「レオンさん!」
外から声がした。
レオンは洗った皿を置き、家を出る。
リゼが畑の前にしゃがんでいた。
「どうした?」
「これ」
指差した先。
昨日見つけた小さな芽。
「朝からあった」
「植えたんですか?」
「いや」
「じゃあ何でしょう」
「俺が聞きたい」
リゼが芽へ手を伸ばす。
「触るな」
レオンが言う。
「毒草かもしれない」
「あ……」
リゼが手を止める。
だがその指先が。
ほんのわずかに葉へ触れた。
その瞬間。
――サワッ。
周囲の草が揺れた。
レオンが顔を上げる。
風?
森を見る。
木々の葉は動いていない。
「……?」
リゼは気づいていない。
小さな芽を見つめている。
「なんだか」
「どうした?」
「この子……」
リゼが首を傾げる。
「元気ですね」
レオンは黙った。
「植物のこと分かるのか?」
「分かるというか……」
リゼ自身も困っている。
「そんな気がするだけです」
「そうか」
そのとき。
芽がほんの少し。
リゼの指へ向かって傾いた。
「……」
レオンの目が細くなる。
偶然。
風。
そう説明することはできる。
だが。
レオンは何も言わなかった。
「レオンさん?」
「いや」
森へ視線を向ける。
静かな朝だった。
昨日と同じ森。
昨日と同じ家。
昨日と同じ畑。
それなのに。
何かが少しずつ変わり始めている。
そんな気がした。
「さて」
レオンは鍬を持つ。
「今日こそ真っ直ぐにする」
リゼが畑を見る。
曲がりくねった畝。
それからレオンを見る。
「……私、やりましょうか?」
「必要ない」
「でも」
「今日はできる」
「昨日もそう言ってませんでした?」
「今日は違う」
自信満々だった。
一時間後。
「…………」
「レオンさん」
「何も言うな」
昨日より曲がった畝の前で。
かつて世界最高峰と呼ばれた剣士は、静かに敗北を認めていた。




