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3/16

「朝ごはん」

レオンは畑の前でしゃがみ込んでいた。


朝日が森の向こうから差し込み、まだ冷たい空気を少しずつ暖めている。


鳥の声。


木々のざわめき。


いつもと変わらない朝。


違うものがあるとすれば――。


「……やっぱり生えてるな」


目の前の、小さな芽だった。


昨日まで何もなかった。


少なくともレオンの記憶ではそうだ。


そもそも、この場所にはまだ種すら蒔いていない。


にもかかわらず。


柔らかな土を押し上げるように、小さな双葉が顔を出していた。


「雑草か?」


指を伸ばす。


抜こうとして――。


「……まあ、いいか」


やめた。


何が育つのか少し気になった。


毒草ならそのとき抜けばいい。


レオンは立ち上がる。


「それより問題はこっちだな」


視線を横へ。


昨日作った畝がある。


やはり曲がっている。


一晩経っても真っ直ぐにはなってくれなかった。


当然である。


「…………」


レオンは腕を組んだ。


昨日より少しだけ右へ傾いているような気さえする。


そんなはずはない。


「やり直すか」


鍬へ手を伸ばした。


そのときだった。


「……ん?」


家の方から何かの匂いがした。


レオンの手が止まる。


香ばしい。


肉。


それから何か甘い香り。


「火?」


一瞬警戒して、すぐに違うと気づく。


火事の匂いではない。


これは――。


「料理か?」


レオンは家へ向かった。


◇


扉を開けた瞬間。


「おはようございます」


声が飛んできた。


レオンは足を止める。


台所にリゼが立っていた。


銀白色の髪を後ろで簡単に束ね、鍋をかき混ぜている。


昨日まで一人だった家。


そこに誰かが立っている。


それだけで、いつもの朝とはまるで違って見えた。


「……何してる」


「見れば分かりません?」


「料理」


「正解です」


「そうじゃなくて」


レオンはリゼへ近づく。


「寝てろと言っただろ」


「もう大丈夫です」


「昨日死にかけてた人間の台詞じゃない」


「エルフです」


「そこはどうでもいい」


リゼが少し笑う。


「お腹が空いて起きたんです。でもレオンさんがいなかったので」


「畑にいた」


「窓から見えました」


リゼは鍋を混ぜながら言った。


「ずっと畑の前で難しい顔してましたね」


「考え事だ」


「畑を見ながら?」


「ああ」


「何を?」


「どうすれば畝が真っ直ぐになるか」


「……」


リゼの手が止まる。


「そんなに難しい問題なんですか?」


「難しい」


真顔だった。


リゼは耐えきれなくなったように笑った。


「笑うな」


「だって……ふふっ……」


「剣より難しいんだぞ」


口にしてから、レオンはしまったと思った。


リゼの笑いが止まる。


「……剣?」


「……」


「昨日も思いましたけど、レオンさんってやっぱり冒険者だったんですか?」


「昔、少しな」


「少し?」


「少しだ」


嘘ではない。


少しどころではないだけだ。


リゼは疑わしそうに見ていたが、それ以上は聞かなかった。


代わりに鍋へ視線を戻す。


「もうできますよ」


「何が?」


「朝ごはんです」


その言葉に。


レオンは一瞬、返事ができなかった。


朝ごはん。


誰かからそう言われたのは、いつ以来だろう。


思い出せない。


「……どうしました?」


「いや」


レオンは椅子を引いた。


「いただこう」


◇


テーブルには、湯気を立てるスープと焼いた肉。


それから薄く切ったパン。


大した料理ではない。


だが。


「……美味い」


一口食べたレオンが言った。


向かい側のリゼの表情が明るくなる。


「本当ですか?」


「ああ」


もう一口。


やはり美味い。


肉には少し甘辛い味付けがされている。


香草。


蜂蜜。


そして――。


「……」


レオンの手が止まった。


「どうしました?」


「いや」


肉をもう一度口へ運ぶ。


間違いない。


香草を炙って香りを立たせてから、潰した木の実と蜂蜜を合わせる。


この辺りではまずやらない調理法だ。


レオンは昔、同じ味を食べたことがある。


ずっと遠く。


人間の国ではない場所で。


――魔族領。


戦争の最中だった。


雨宿りのために入った廃村。


誰もいないと思っていた家に、一人の老婆が残っていた。


人間である自分たちを恐れていた。


それでも最後には、あり合わせの食材で食事を作ってくれた。


その肉の味と、よく似ている。


『兵隊さんも腹は減るだろう』


しわだらけの老婆の顔。


そして。


『魔族も飯を食うんだな』


驚いたように言った男の声。


『当たり前だろ』


自分はそう返した。


『いや、そうなんだけどさ』


金色の髪の青年が笑う。


『なんか俺たち、変な戦争してるよな』


――アルト。


「レオンさん?」


声に引き戻された。


目の前にリゼがいる。


「……悪い」


「やっぱり口に合いませんでした?」


「逆だ。美味い」


「ならよかった」


リゼがほっとする。


レオンは何気ない口調で尋ねた。


「この味付け、誰に習った?」


「え?」


リゼが瞬きをする。


「……誰でしょう」


「覚えてないのか?」


「はい」


自分の皿を見る。


「でも、作ろうと思ったら手が勝手に」


「そうか」


「変ですよね」


「そうでもない」


レオンは食事を再開した。


身体が覚えていることはある。


剣と同じだ。


記憶を失っても、長年繰り返した動作まで完全に消えるとは限らない。


だから。


リゼがこの料理を知っているからといって、魔族と関係があるとは限らない。


そう思った。


思うことにした。


「ところで」


リゼが言った。


「なんだ?」


「レオンさんって、一人暮らしですよね?」


「ああ」


「ずっと?」


「三年くらいは」


「じゃあ、どうしてですか?」


「何が?」


リゼが指差す。


レオンも見る。


椅子。


リゼが座っているもの。


レオンが座っているもの。


そして空席が三つ。


合計五脚。


「……椅子?」


「はい」


リゼは首を傾げる。


「一人暮らしなのに、五脚もあります」


「……」


「お客さんがよく来るんですか?」


「いや」


「ご家族?」


「いない」


「じゃあ、どうして?」


レオンは三つの空席を見る。


いつもそこにある。


見慣れているはずなのに。


今日は妙に目についた。


五脚。


なぜ五脚作ったのか。


自分でも分かっている。


考えて作ったわけではない。


この家を建て。


机を作り。


椅子を作った。


一脚。


二脚。


三脚。


四脚。


そして五脚。


そこまで作って初めて、自分は一人なのだと思い出した。


「……昔の癖だ」


「癖?」


「ああ」


それだけ答える。


リゼは何かを感じ取ったのか、それ以上聞かなかった。


沈黙。


気まずくはなかった。


窓から朝日が入ってくる。


森から鳥の声。


鍋からまだ湯気が立っている。


レオンはパンをちぎった。


「リゼ」


「はい?」


「スープも美味い」


「……ありがとうございます」


嬉しそうに笑う。


その笑顔を見て。


レオンはふと、昔の光景を思い出した。


◇


――長い木の机。


五人分の皿。


「おい、レオン! 俺の肉取っただろ!」


「取ってない」


「じゃあどこ行ったんだよ!」


「ガルドが食ったぞ」


「おい、レオン!?」


大男が慌てる。


「ガルドォ!」


「違う! こいつが嘘を――」


「食事中くらい静かにできないんですか?」


白い衣装の少女が呆れた声を出す。


その隣では、本を読みながら食事をしている男。


「セイルも何とか言え!」


「うるさい。今いいところなんだ」


「飯食いながら本読むなよ!」


笑い声。


くだらない会話。


五人。


いつも五人だった。


「レオン」


アルトがパンを齧りながら言う。


「戦争が終わったらさ」


「なんだ」


「何する?」


「急だな」


「いいだろ、別に」


アルトは笑った。


「俺は――」


◇


「レオンさん?」


目を開ける。


リゼが心配そうにこちらを見ていた。


「大丈夫ですか?」


「……ああ」


「ぼーっとしてました」


「少し昔を思い出しただけだ」


「昔?」


「大したことじゃない」


レオンは水を飲む。


アルトがあの後、何と言ったのか。


もちろん覚えている。


忘れたことなど一度もない。


ただ。


今は思い出したくなかった。


「ごちそうさま」


立ち上がる。


「もういいんですか?」


「ああ。美味かった」


「ならよかったです」


リゼが皿を片付けようとする。


「置いとけ」


「え?」


「料理してもらったんだ。片付けくらい俺がする」


「でも怪我人だから寝てろって」


「それは俺の台詞だ」


「もう元気です」


「なら畑を手伝え」


リゼが固まる。


レオンは少しだけ笑った。


「冗談だ」


「……レオンさん」


「なんだ?」


「意外と冗談言うんですね」


「俺を何だと思ってる」


「もっと怖い人かと」


「昨日助けた相手に言われたくないな」


また。


リゼが笑った。


昨日より自然な笑顔だった。


レオンは食器を持って台所へ向かう。


その途中。


ふと振り返った。


テーブル。


五脚の椅子。


そのうち二脚に。


今朝は人が座っていた。


「……」


悪くない。


そう思った自分に気づき、レオンは少しだけ眉を寄せた。


◇


食事の後。


「レオンさん!」


外から声がした。


レオンは洗った皿を置き、家を出る。


リゼが畑の前にしゃがんでいた。


「どうした?」


「これ」


指差した先。


昨日見つけた小さな芽。


「朝からあった」


「植えたんですか?」


「いや」


「じゃあ何でしょう」


「俺が聞きたい」


リゼが芽へ手を伸ばす。


「触るな」


レオンが言う。


「毒草かもしれない」


「あ……」


リゼが手を止める。


だがその指先が。


ほんのわずかに葉へ触れた。


その瞬間。


――サワッ。


周囲の草が揺れた。


レオンが顔を上げる。


風?


森を見る。


木々の葉は動いていない。


「……?」


リゼは気づいていない。


小さな芽を見つめている。


「なんだか」


「どうした?」


「この子……」


リゼが首を傾げる。


「元気ですね」


レオンは黙った。


「植物のこと分かるのか?」


「分かるというか……」


リゼ自身も困っている。


「そんな気がするだけです」


「そうか」


そのとき。


芽がほんの少し。


リゼの指へ向かって傾いた。


「……」


レオンの目が細くなる。


偶然。


風。


そう説明することはできる。


だが。


レオンは何も言わなかった。


「レオンさん?」


「いや」


森へ視線を向ける。


静かな朝だった。


昨日と同じ森。


昨日と同じ家。


昨日と同じ畑。


それなのに。


何かが少しずつ変わり始めている。


そんな気がした。


「さて」


レオンは鍬を持つ。


「今日こそ真っ直ぐにする」


リゼが畑を見る。


曲がりくねった畝。


それからレオンを見る。


「……私、やりましょうか?」


「必要ない」


「でも」


「今日はできる」


「昨日もそう言ってませんでした?」


「今日は違う」


自信満々だった。


一時間後。


「…………」


「レオンさん」


「何も言うな」


昨日より曲がった畝の前で。


かつて世界最高峰と呼ばれた剣士は、静かに敗北を認めていた。

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