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2/16

「森で拾った少女」

家へ戻った頃には、すっかり日が暮れていた。


レオンは扉を足で押し開ける。


腕の中では、銀白色の髪の少女が浅い呼吸を繰り返していた。


「もう少しだからな」


返事はない。


当然だ。


森で一度だけ目を開けてから、少女はずっと意識を失ったままだった。


レオンは寝室へ向かい、自分のベッドに少女を横たえた。


ランプに火を灯す。


改めて見ると、ひどい状態だった。


服のあちこちが裂けている。


泥。


血。


細かな傷。


中でも問題なのは左肩から背中にかけての傷だ。


何か鋭いものに斬られたように見える。


「魔物……じゃないな」


レオンが呟く。


魔物の爪なら、傷はもっと荒れる。


牙でもない。


これは――。


「刃物か」


誰かに襲われた。


そう考える方が自然だった。


レオンは眉を寄せる。


この辺りでエルフを見ること自体が珍しい。


まして、誰かに追われていたらしい少女が一人で森に倒れていた。


明らかに普通ではない。


「……まあ、聞くのは起きてからだな」


今は命を助ける方が先だ。


レオンは棚から木箱を取り出した。


蓋を開ける。


包帯。


薬草。


消毒用の酒。


縫合用の針と糸。


村の一般家庭に置かれているものより、ずっと本格的な治療道具が並んでいる。


レオンの手が迷うことはなかった。


傷を見る。


出血量を確認。


必要な薬草を選ぶ。


水を沸かす。


布を切る。


その動きは、畑仕事をしていたときとは別人のようだった。


何度も。


何度も。


同じことをしてきた手だった。


「少し服を切るぞ」


意識のない少女に断ってから、傷口周辺の布を切る。


肩。


背中。


脇腹。


予想以上に傷が多い。


それでも致命傷は避けている。


「運がいいのか……」


レオンは傷を見る。


「それとも、避けたのか」


もし後者なら。


この少女は多少なりとも戦える。


だが考えるのは後だ。


レオンは治療を続けた。


◇


一時間ほど経った。


「……こんなものか」


最後の包帯を巻き終え、レオンは息を吐いた。


少女の呼吸は先ほどより安定している。


熱はある。


だが今夜を越えれば、おそらく大丈夫だろう。


レオンは血で汚れた手を洗った。


そしてベッドの横に置いた椅子へ腰を下ろす。


少女を見る。


銀白色の髪。


長い睫毛。


整った顔立ち。


そして、人間より少し長く尖った耳。


「エルフ……だよな」


少なくとも見た目はそうだ。


だが。


レオンは少女の首元へ視線を向けた。


治療中、一瞬だけ見えたものがある。


鎖骨の少し上。


淡い紋様。


傷ではない。


刺青とも違う。


何かの紋章のようだった。


今は消えている。


見間違いだったのかもしれない。


「……」


レオンはしばらく考えた。


そして立ち上がった。


「寝るか」


今考えても答えは出ない。


少女が目覚めれば聞けばいい。


自分は床で寝ればいい。


そう思って毛布を取りに行こうとした、そのとき。


「……う……」


小さな声。


レオンが振り返る。


少女の指が動いた。


「おい」


ベッドへ戻る。


少女の瞼がゆっくり開いた。


淡い紫色の瞳。


ぼんやりと天井を見る。


「……ここ……」


掠れた声。


「俺の家だ」


少女の視線が動く。


レオンを見る。


数秒。


二人の目が合う。


次の瞬間。


少女の身体が跳ねた。


「っ……!」


起き上がろうとする。


「動くな」


「来ないで!」


鋭い声。


少女が後ろへ下がる。


だが傷が痛んだのだろう。


「っ……!」


顔を歪める。


「だから動くなと言った」


レオンは近づかない。


両手を見える位置へ出す。


「森で倒れていた。傷がひどかったから連れてきただけだ」


「……森?」


「ああ」


少女は周囲を見る。


ベッド。


机。


ランプ。


窓。


そして再びレオン。


警戒は解けない。


「あなたは……誰ですか?」


「レオン」


「レオン……」


少女が名前を確かめるように呟く。


「君は?」


その瞬間。


少女の表情が固まった。


「……」


「名前だ」


「名前……」


少女は自分の胸元へ手を当てる。


目を閉じる。


しばらくして。


「……リゼ」


「リゼ?」


「はい。たぶん……」


「たぶん?」


少女――リゼは困惑した顔をする。


「リゼ。それは覚えてます」


「それ以外は?」


「それ以外……?」


レオンは嫌な予感がした。


「どこから来た?」


「……」


「家族は?」


「……」


「どうして森にいた?」


「……分かりません」


リゼの顔から血の気が引いていく。


「何も……」


両手で頭を押さえる。


「何も思い出せない……」


呼吸が速くなる。


「落ち着け」


「私……どうして……」


「リゼ」


レオンが少し強めに呼ぶ。


少女が顔を上げる。


「今すぐ思い出す必要はない」


「でも……」


「傷も熱もある。頭を打っている可能性もある。まず休め」


「……」


「明日になれば思い出すかもしれない」


根拠はない。


だが今はそれでいい。


リゼはしばらく黙っていた。


やがて小さく頷く。


「……はい」


「水、飲めるか?」


「少し……」


レオンは水差しからカップへ水を注いだ。


ベッドの脇へ置く。


リゼが手を伸ばす。


だが。


カタカタ。


手が震えている。


カップを持ち上げられない。


「貸せ」


「大丈夫です」


「大丈夫には見えない」


「でも……」


「こぼされる方が困る」


「……」


リゼは少しだけ不満そうな顔をした。


レオンはカップを持ち、リゼが飲みやすいよう傾ける。


「ゆっくり」


少しずつ。


水を飲む。


一口。


二口。


三口。


「……ありがとうございます」


「どういたしまして」


カップを戻す。


リゼは再びレオンを見る。


「一つ……聞いていいですか?」


「なんだ?」


「私の傷……」


「ああ」


「あなたが?」


「治療した」


「……服も?」


レオンが止まる。


「傷を見る必要があったからな」


リゼの頬が、ほんの少し赤くなった。


「……見ました?」


「傷は見た」


「傷以外です」


「見てない」


即答だった。


リゼがじっとレオンを見る。


「本当に?」


「そんな余裕はなかった」


「……」


まだ疑っている。


「それに」


レオンは淡々と言う。


「死にかけてる相手に何かするほど困ってない」


数秒の沈黙。


「……それを自分で言う人って、逆に怪しくないですか?」


「……」


レオンは考えた。


「確かに」


リゼが一瞬きょとんとする。


そして。


「ふふっ」


小さく笑った。


ほんの一瞬だった。


だが先ほどまで強張っていた表情が、少しだけ柔らかくなる。


レオンも安心した。


「眠れ。話は明日だ」


「レオンさんは?」


「床で寝る」


「そんな……」


「いつも野営してた頃に比べれば床は天国だ」


言ってから。


レオンは止まった。


リゼも気づいたらしい。


「野営?」


「……昔の話だ」


「冒険者だったんですか?」


「似たようなものだ」


それ以上は答えない。


リゼも追及しなかった。


「おやすみ」


「……はい」


レオンはランプの火を少し弱めた。


部屋を出ようとする。


「あの」


呼び止められる。


「なんだ?」


リゼが毛布を握っていた。


少し迷ってから言う。


「助けてくれて……ありがとうございました」


レオンは少女を見る。


その言葉が。


なぜか少しだけ胸に引っかかった。


遠い昔にも。


同じようなことを言われた気がした。


誰だったか。


思い出そうとして――やめた。


「気にするな」


そう答えて扉を閉めた。


◇


夜。


レオンは居間の床に毛布を敷いた。


横になる。


だが眠れない。


「記憶喪失、か」


面倒なことになった。


普通なら明日、村へ連れていくべきだろう。


村長。


あるいは冒険者ギルド。


エルフなら、故郷を探す方法もあるかもしれない。


自分が関わる必要はない。


そこまで考えて。


レオンは天井を見る。


三年間。


この家には自分しかいなかった。


今日初めて。


別の誰かが眠っている。


「……」


妙な感じだった。


嫌ではない。


むしろ。


ほんの少しだけ――。


レオンは目を閉じる。


「考えすぎだな」


やがて静かな寝息が聞こえ始めた。


◇


深夜。


リゼが目を開けた。


暗い部屋。


窓から月明かりが差し込んでいる。


「……」


ゆっくり身体を起こす。


傷は痛む。


それでも森にいたときよりずっと楽だった。


リゼは自分の手を見る。


誰なのか。


どこから来たのか。


なぜ傷だらけだったのか。


何一つ思い出せない。


分かるのは、


リゼ。


それが自分の名前らしいことだけ。


怖かった。


何もない。


自分の中が空っぽになってしまったような感覚。


なのに。


「……不思議」


この家にいると。


なぜか落ち着く。


初めて来た場所のはずなのに。


懐かしいような。


ずっと昔から知っているような。


そんな奇妙な感覚があった。


リゼは胸へ手を当てる。


トクン。


トクン。


心臓の音。


その下。


もっと深い場所で。


何かが脈打っている気がする。


――トクン。


「……?」


リゼが窓を見る。


外には森。


月明かりに照らされた木々が静かに揺れている。


風はない。


なのに。


木々が。


まるでこちらを見ているような――。


「……気のせい?」


そのとき。


首元が熱くなった。


「っ……」


リゼが手を当てる。


鎖骨の上。


そこに。


淡い銀色の光が浮かび上がった。


複雑な紋様。


円。


枝。


月。


それらが絡み合ったような、不思議な紋章。


リゼ自身は見ることができない。


そして。


家の外。


地面の遥か下。


誰にも見えないほど深い場所で。


長い間眠っていた巨大な何かが――。


ほんのわずかに。


脈打った。


――ドクン。


同時に。


レオンの家の裏にある畑。


まだ何も植えていないはずの土の隙間から。


小さな緑色の芽が、一つだけ顔を出した。


リゼの紋章から光が消える。


森も再び静かになる。


少女は何も知らないまま、再び眠りについた。


そして翌朝。


レオンは畑の前で。


「…………」


腕を組んでいた。


昨日まで何もなかった場所。


そこに生えている、小さな芽。


「……何だこれ」


世界最高峰の剣士にも。


その答えだけは、分からなかった。

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