「森で拾った少女」
家へ戻った頃には、すっかり日が暮れていた。
レオンは扉を足で押し開ける。
腕の中では、銀白色の髪の少女が浅い呼吸を繰り返していた。
「もう少しだからな」
返事はない。
当然だ。
森で一度だけ目を開けてから、少女はずっと意識を失ったままだった。
レオンは寝室へ向かい、自分のベッドに少女を横たえた。
ランプに火を灯す。
改めて見ると、ひどい状態だった。
服のあちこちが裂けている。
泥。
血。
細かな傷。
中でも問題なのは左肩から背中にかけての傷だ。
何か鋭いものに斬られたように見える。
「魔物……じゃないな」
レオンが呟く。
魔物の爪なら、傷はもっと荒れる。
牙でもない。
これは――。
「刃物か」
誰かに襲われた。
そう考える方が自然だった。
レオンは眉を寄せる。
この辺りでエルフを見ること自体が珍しい。
まして、誰かに追われていたらしい少女が一人で森に倒れていた。
明らかに普通ではない。
「……まあ、聞くのは起きてからだな」
今は命を助ける方が先だ。
レオンは棚から木箱を取り出した。
蓋を開ける。
包帯。
薬草。
消毒用の酒。
縫合用の針と糸。
村の一般家庭に置かれているものより、ずっと本格的な治療道具が並んでいる。
レオンの手が迷うことはなかった。
傷を見る。
出血量を確認。
必要な薬草を選ぶ。
水を沸かす。
布を切る。
その動きは、畑仕事をしていたときとは別人のようだった。
何度も。
何度も。
同じことをしてきた手だった。
「少し服を切るぞ」
意識のない少女に断ってから、傷口周辺の布を切る。
肩。
背中。
脇腹。
予想以上に傷が多い。
それでも致命傷は避けている。
「運がいいのか……」
レオンは傷を見る。
「それとも、避けたのか」
もし後者なら。
この少女は多少なりとも戦える。
だが考えるのは後だ。
レオンは治療を続けた。
◇
一時間ほど経った。
「……こんなものか」
最後の包帯を巻き終え、レオンは息を吐いた。
少女の呼吸は先ほどより安定している。
熱はある。
だが今夜を越えれば、おそらく大丈夫だろう。
レオンは血で汚れた手を洗った。
そしてベッドの横に置いた椅子へ腰を下ろす。
少女を見る。
銀白色の髪。
長い睫毛。
整った顔立ち。
そして、人間より少し長く尖った耳。
「エルフ……だよな」
少なくとも見た目はそうだ。
だが。
レオンは少女の首元へ視線を向けた。
治療中、一瞬だけ見えたものがある。
鎖骨の少し上。
淡い紋様。
傷ではない。
刺青とも違う。
何かの紋章のようだった。
今は消えている。
見間違いだったのかもしれない。
「……」
レオンはしばらく考えた。
そして立ち上がった。
「寝るか」
今考えても答えは出ない。
少女が目覚めれば聞けばいい。
自分は床で寝ればいい。
そう思って毛布を取りに行こうとした、そのとき。
「……う……」
小さな声。
レオンが振り返る。
少女の指が動いた。
「おい」
ベッドへ戻る。
少女の瞼がゆっくり開いた。
淡い紫色の瞳。
ぼんやりと天井を見る。
「……ここ……」
掠れた声。
「俺の家だ」
少女の視線が動く。
レオンを見る。
数秒。
二人の目が合う。
次の瞬間。
少女の身体が跳ねた。
「っ……!」
起き上がろうとする。
「動くな」
「来ないで!」
鋭い声。
少女が後ろへ下がる。
だが傷が痛んだのだろう。
「っ……!」
顔を歪める。
「だから動くなと言った」
レオンは近づかない。
両手を見える位置へ出す。
「森で倒れていた。傷がひどかったから連れてきただけだ」
「……森?」
「ああ」
少女は周囲を見る。
ベッド。
机。
ランプ。
窓。
そして再びレオン。
警戒は解けない。
「あなたは……誰ですか?」
「レオン」
「レオン……」
少女が名前を確かめるように呟く。
「君は?」
その瞬間。
少女の表情が固まった。
「……」
「名前だ」
「名前……」
少女は自分の胸元へ手を当てる。
目を閉じる。
しばらくして。
「……リゼ」
「リゼ?」
「はい。たぶん……」
「たぶん?」
少女――リゼは困惑した顔をする。
「リゼ。それは覚えてます」
「それ以外は?」
「それ以外……?」
レオンは嫌な予感がした。
「どこから来た?」
「……」
「家族は?」
「……」
「どうして森にいた?」
「……分かりません」
リゼの顔から血の気が引いていく。
「何も……」
両手で頭を押さえる。
「何も思い出せない……」
呼吸が速くなる。
「落ち着け」
「私……どうして……」
「リゼ」
レオンが少し強めに呼ぶ。
少女が顔を上げる。
「今すぐ思い出す必要はない」
「でも……」
「傷も熱もある。頭を打っている可能性もある。まず休め」
「……」
「明日になれば思い出すかもしれない」
根拠はない。
だが今はそれでいい。
リゼはしばらく黙っていた。
やがて小さく頷く。
「……はい」
「水、飲めるか?」
「少し……」
レオンは水差しからカップへ水を注いだ。
ベッドの脇へ置く。
リゼが手を伸ばす。
だが。
カタカタ。
手が震えている。
カップを持ち上げられない。
「貸せ」
「大丈夫です」
「大丈夫には見えない」
「でも……」
「こぼされる方が困る」
「……」
リゼは少しだけ不満そうな顔をした。
レオンはカップを持ち、リゼが飲みやすいよう傾ける。
「ゆっくり」
少しずつ。
水を飲む。
一口。
二口。
三口。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
カップを戻す。
リゼは再びレオンを見る。
「一つ……聞いていいですか?」
「なんだ?」
「私の傷……」
「ああ」
「あなたが?」
「治療した」
「……服も?」
レオンが止まる。
「傷を見る必要があったからな」
リゼの頬が、ほんの少し赤くなった。
「……見ました?」
「傷は見た」
「傷以外です」
「見てない」
即答だった。
リゼがじっとレオンを見る。
「本当に?」
「そんな余裕はなかった」
「……」
まだ疑っている。
「それに」
レオンは淡々と言う。
「死にかけてる相手に何かするほど困ってない」
数秒の沈黙。
「……それを自分で言う人って、逆に怪しくないですか?」
「……」
レオンは考えた。
「確かに」
リゼが一瞬きょとんとする。
そして。
「ふふっ」
小さく笑った。
ほんの一瞬だった。
だが先ほどまで強張っていた表情が、少しだけ柔らかくなる。
レオンも安心した。
「眠れ。話は明日だ」
「レオンさんは?」
「床で寝る」
「そんな……」
「いつも野営してた頃に比べれば床は天国だ」
言ってから。
レオンは止まった。
リゼも気づいたらしい。
「野営?」
「……昔の話だ」
「冒険者だったんですか?」
「似たようなものだ」
それ以上は答えない。
リゼも追及しなかった。
「おやすみ」
「……はい」
レオンはランプの火を少し弱めた。
部屋を出ようとする。
「あの」
呼び止められる。
「なんだ?」
リゼが毛布を握っていた。
少し迷ってから言う。
「助けてくれて……ありがとうございました」
レオンは少女を見る。
その言葉が。
なぜか少しだけ胸に引っかかった。
遠い昔にも。
同じようなことを言われた気がした。
誰だったか。
思い出そうとして――やめた。
「気にするな」
そう答えて扉を閉めた。
◇
夜。
レオンは居間の床に毛布を敷いた。
横になる。
だが眠れない。
「記憶喪失、か」
面倒なことになった。
普通なら明日、村へ連れていくべきだろう。
村長。
あるいは冒険者ギルド。
エルフなら、故郷を探す方法もあるかもしれない。
自分が関わる必要はない。
そこまで考えて。
レオンは天井を見る。
三年間。
この家には自分しかいなかった。
今日初めて。
別の誰かが眠っている。
「……」
妙な感じだった。
嫌ではない。
むしろ。
ほんの少しだけ――。
レオンは目を閉じる。
「考えすぎだな」
やがて静かな寝息が聞こえ始めた。
◇
深夜。
リゼが目を開けた。
暗い部屋。
窓から月明かりが差し込んでいる。
「……」
ゆっくり身体を起こす。
傷は痛む。
それでも森にいたときよりずっと楽だった。
リゼは自分の手を見る。
誰なのか。
どこから来たのか。
なぜ傷だらけだったのか。
何一つ思い出せない。
分かるのは、
リゼ。
それが自分の名前らしいことだけ。
怖かった。
何もない。
自分の中が空っぽになってしまったような感覚。
なのに。
「……不思議」
この家にいると。
なぜか落ち着く。
初めて来た場所のはずなのに。
懐かしいような。
ずっと昔から知っているような。
そんな奇妙な感覚があった。
リゼは胸へ手を当てる。
トクン。
トクン。
心臓の音。
その下。
もっと深い場所で。
何かが脈打っている気がする。
――トクン。
「……?」
リゼが窓を見る。
外には森。
月明かりに照らされた木々が静かに揺れている。
風はない。
なのに。
木々が。
まるでこちらを見ているような――。
「……気のせい?」
そのとき。
首元が熱くなった。
「っ……」
リゼが手を当てる。
鎖骨の上。
そこに。
淡い銀色の光が浮かび上がった。
複雑な紋様。
円。
枝。
月。
それらが絡み合ったような、不思議な紋章。
リゼ自身は見ることができない。
そして。
家の外。
地面の遥か下。
誰にも見えないほど深い場所で。
長い間眠っていた巨大な何かが――。
ほんのわずかに。
脈打った。
――ドクン。
同時に。
レオンの家の裏にある畑。
まだ何も植えていないはずの土の隙間から。
小さな緑色の芽が、一つだけ顔を出した。
リゼの紋章から光が消える。
森も再び静かになる。
少女は何も知らないまま、再び眠りについた。
そして翌朝。
レオンは畑の前で。
「…………」
腕を組んでいた。
昨日まで何もなかった場所。
そこに生えている、小さな芽。
「……何だこれ」
世界最高峰の剣士にも。
その答えだけは、分からなかった。




