「剣を置いた男」
「……また曲がったな」
朝露の残る畑の前で、レオンは腕を組んでいた。
目の前には、昨日から少しずつ耕している小さな畑がある。
土は柔らかい。
天気もいい。
道具も悪くない。
それなのに――。
「どうして真っ直ぐにならないんだ」
レオンは深いため息をついた。
畑には何本かの畝が並んでいる。
いや、並んでいると言っていいのかは怪しい。
一本目は右へ。
二本目は左へ。
三本目に至っては、途中から緩やかな弧を描いていた。
本人は真っ直ぐ作っているつもりなのだから、余計に質が悪い。
レオンは地面へ突き刺していた鍬を引き抜いた。
「剣より難しいな」
誰に聞かせるでもなく呟く。
その言葉を聞く者は、この場所には誰もいなかった。
森と山に囲まれた辺境。
小さな村からさらに歩いた先に、ぽつんと一軒の家が建っている。
石と木で造られた、ごく普通の家だ。
豪華な装飾などない。
広い庭があるわけでもない。
家の裏には森。
正面には小さな畑。
少し離れたところには川が流れている。
レオンはそこで一人で暮らしていた。
朝起きて、畑を見る。
薪を割る。
食事を作る。
時々森へ入り、食べられる木の実や山菜を採る。
足りないものがあれば村へ買いに行く。
そんな生活を始めて、三年になる。
レオンは気に入っていた。
静かだった。
誰も命令しない。
誰も彼に何かを期待しない。
そして何より――。
誰も、彼を英雄とは呼ばなかった。
「……よし」
レオンは再び鍬を構えた。
今度こそ真っ直ぐにする。
目標となる場所を決める。
足の位置を確認する。
呼吸を整える。
その姿だけを見れば、畑仕事とは思えないほど真剣だった。
鍬を振り下ろす。
ザクッ。
土が綺麗に割れた。
「いけるな」
もう一度。
ザクッ。
さらにもう一度。
しばらくしてレオンは額の汗を拭った。
そして後ろを振り返る。
「…………」
曲がっていた。
先ほどよりもひどい。
「なぜだ」
その問いに答えてくれる者はいない。
鳥だけが、木の上で楽しそうに鳴いていた。
◇
昼前。
レオンは村へ向かった。
結局、畑との戦いには敗北した。
今日は種を買う予定だったのだが、そもそも畑が完成していない。
それでも塩や肉が少なくなっていたので、買い物には行くことにした。
村までは歩いて三十分ほど。
人口数百人程度の小さな村だ。
大きな店はない。
宿屋が一軒。
食堂兼酒場が一軒。
雑貨屋。
鍛冶屋。
それから小さな教会。
村人の多くは農業や林業で暮らしている。
「おっ、レオンじゃないか」
村へ入ってすぐ、荷車を引いていた中年の男から声を掛けられた。
「こんにちは、バルクさん」
「今日はどうした?」
「買い物です」
「またか。お前もいい加減、野菜くらい自分で作れるようになれよ」
「作っています」
「育ったのか?」
「…………」
「育ってないんだな」
男――バルクが豪快に笑った。
レオンは何も言い返せなかった。
村の人間は、レオンが三年前に突然この土地へやって来たことしか知らない。
森の近くに土地を買い、自分で家を建て、そこで暮らし始めた変わり者。
それが村人たちから見たレオンだった。
どこから来たのか。
以前は何をしていたのか。
家族はいるのか。
最初の頃はいろいろ聞かれた。
レオンが曖昧に答え続けているうちに、誰も聞かなくなった。
辺境には事情を抱えた者も珍しくない。
そしてレオン自身、村で問題を起こすような人間でもなかった。
むしろ老人の荷物を運んだり、壊れた柵を直したり、森で迷った家畜を探したりする。
気づけば村人たちにも受け入れられていた。
「そういやレオン」
バルクが急に声を潜めた。
「森へ入るなら気をつけろよ」
「何かあったんですか?」
「北の方で魔物を見たって話だ」
レオンの表情は変わらない。
「魔物?」
「ああ。まだ種類までは分からんらしい。猟師のガンツがでかい足跡を見たそうだ」
「そうですか」
「お前の家、森に近いだろ。しばらく奥へ行くなよ」
「分かりました」
それだけ答える。
バルクと別れ、レオンは雑貨屋へ向かった。
途中。
教会の鐘が鳴った。
カーン。
カーン。
昼を知らせる、いつもの鐘。
道を歩いていた村人の何人かが小さく頭を下げる。
レオンの足が止まった。
ほんの一瞬だけ。
彼は教会を見る。
白い壁。
小さな尖塔。
その頂上に掲げられた、太陽を模した聖印。
レオンの目から、それまでの穏やかな色が消えた。
だが、それも一瞬だった。
何事もなかったように歩き出す。
「レオン兄ちゃん!」
今度は後ろから声が飛んできた。
振り返ると、村の子供が二人走ってくる。
「今日は剣持ってないの?」
「持ってない」
「また剣教えてよ!」
「嫌だ」
「なんでー!」
「危ないからだ」
「木の棒なら?」
「もっと危ない」
「なんで!?」
レオンは少し考えた。
「お前たちは調子に乗るからだ」
「えー!」
不満そうな子供たち。
レオンはわずかに笑った。
「代わりに今度、魚の捕り方を教えてやる」
「ほんと!?」
「ああ」
途端に二人は喜び、走っていった。
その背中を見送る。
レオンの表情は穏やかだった。
◇
買い物を終えた頃には、太陽が少し西へ傾き始めていた。
レオンは家へ戻る。
扉を開けると、静かな室内が迎えた。
「ただいま」
返事はない。
当然だ。
三年間、ずっとそうだった。
買ってきた荷物を机の上へ置く。
その隣には椅子が並んでいた。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
五つ。
一人で暮らしている家には多すぎる数だった。
レオン自身、それを不思議に思うことがある。
この家を建てたとき。
気づけば五脚作っていた。
昔からの癖なのだろう。
一脚だけあれば十分なのに。
捨てようと思ったこともある。
結局、一脚も捨てられなかった。
「……腹減ったな」
考えるのをやめる。
壁際へ目を向ける。
そこには一本の剣が掛けられていた。
鞘まで黒い、装飾のほとんどない剣。
畑の鍬とは違い、長い間使われた形跡がある。
鞘には無数の傷。
柄にも擦れた跡。
そして黒い刀身には――誰にも直せなかった、一本の傷が残っている。
だが今のレオンが、その剣を手にすることはほとんどない。
必要ないからだ。
レオンは剣から視線を外した。
パン。
干し肉。
野菜。
今日の夕食を考える。
昔は食べられるものなら何でもよかった。
腹が満たされれば、それでいいと思っていた。
最近は少し違う。
せっかくなら美味いものを食べたい。
そんなことを考える余裕ができた。
悪くない変化だとレオンは思っている。
「スープにするか」
独り言を言いながら、野菜を手に取った。
そのときだった。
窓の外。
森の方から鳥たちが一斉に飛び立った。
レオンの手が止まる。
数十羽。
いや、それ以上。
静かだった森が、一瞬だけざわめいた。
レオンは窓越しに森を見る。
「……」
昼間聞いた話を思い出す。
魔物。
大きな足跡。
とはいえ、村の猟師たちもいる。
冒険者ギルドにも連絡が行くだろう。
自分が首を突っ込む理由はない。
もう戦わない。
そう決めた。
レオンは野菜へ視線を戻した。
◇
夕方。
結局、レオンは森にいた。
「……塩を忘れるとはな」
自分でも呆れる。
買ったはずの塩が見当たらず、途中で落とした可能性があった。
来た道を戻ればいい。
森の入口付近を通っただけなので、危険もない。
そう思っていた。
数分歩く。
「……ん?」
レオンが止まる。
地面。
落ち葉の上に何かが付着していた。
赤い。
しゃがみ込む。
指で触れる必要すらなかった。
血だ。
まだ新しい。
獣のものではない。
レオンの表情が変わる。
先ほどまでの、畑の畝一つに頭を悩ませていた男の顔ではなかった。
静かに周囲を見る。
折れた枝。
踏み荒らされた草。
血痕。
誰かが森の奥からこちらへ向かってきている。
いや。
逃げてきた。
レオンは買い物袋を木の根元へ置いた。
そして歩き出す。
足音はほとんどしない。
血痕を追う。
一つ。
二つ。
三つ。
奥へ進むほど量が増えている。
「……まずいな」
走り出した。
木々の間を抜ける。
枝を避ける。
迷いはない。
まるでこの森すべてを把握しているかのように進んでいく。
やがて。
少し開けた場所に出た。
そこでレオンは足を止めた。
人が倒れている。
若い女だった。
長い銀白色の髪が、落ち葉の上に広がっている。
身につけている服は泥と血に汚れ、肩から背中にかけて大きく裂けていた。
呼吸は――ある。
レオンはすぐに駆け寄る。
「おい」
反応なし。
首元へ指を当てる。
弱い。
だが脈はある。
「生きてるな」
傷を確認しようとして、レオンの手が止まった。
髪の隙間から覗いていた。
耳。
人間よりも長く、先端が尖っている。
「エルフ……?」
少なくとも、この辺りで見かける種族ではない。
なぜこんな場所にいる。
誰に襲われた。
疑問はいくつも浮かぶ。
だが今はどうでもいい。
このまま放置すれば死ぬ。
レオンは少女の身体を抱き上げた。
驚くほど軽かった。
その瞬間。
少女の瞼が、ほんのわずかに開いた。
淡い紫色の瞳。
焦点の合わない目がレオンを見る。
唇が動いた。
「……たす……けて……」
それだけ。
少女は再び意識を失った。
レオンは黙って少女を見る。
三年前。
この場所へ来たとき。
もう誰かの命を背負うのはやめようと決めた。
誰かを救うことも。
誰かのために剣を振ることも。
英雄と呼ばれることも。
全部、終わったはずだった。
「……参ったな」
小さく呟く。
それでも。
少女を地面へ戻すという選択肢は、最初からなかった。
レオンは少女を抱いたまま立ち上がる。
そして自分の家へ向かって歩き始めた。
森の奥。
二人の姿が見えなくなった後。
誰もいなくなったはずの場所で――。
少女の首元に刻まれた淡い紋様が、一瞬だけ銀色に輝いた。




