「根」
夜の森は、静かだった。
月明かりが木々の隙間から差し込み、足元に淡い影を落としている。
レオンは、一本の根を追って歩いていた。
腰には黒剣。
三年間、居間の壁に掛けていた剣だ。
歩くたび、鞘が腰に触れる。
その重さを、身体はまだ覚えていた。
「……」
レオンは足を止めた。
地面から伸びる細い根。
それは、まるで生き物のように森の奥を指している。
「……こっちか」
返事はない。
けれど根は、ゆっくりと動いた。
レオンは再び歩き出した。
そのとき。
懐の中で、かさりと音がした。
小さな紙袋。
リゼが買っていた、二人分の焼き菓子だった。
片方は、少し割れている。
レオンは袋を取り出した。
「……何を買ってきたんだか」
小さく呟く。
甘い匂いが、まだ微かに残っていた。
きっとリゼは、帰ってから一緒に食べるつもりだったのだろう。
いつもの食卓で。
いつものように笑いながら。
「……帰ったら、食べよう」
レオンは袋を懐に戻した。
「二人でな」
そして、根の示す方へ歩き始めた。
◇
リゼは夢を見ていた。
白い光。
空を覆うほど大きな木。
どこまでも広がる枝。
その下に、誰かが立っている。
顔は見えない。
けれど、不思議と怖くなかった。
懐かしい。
ずっと前から知っているような。
そんな気がした。
「……誰?」
手を伸ばす。
けれど、届かない。
景色が揺れた。
そして。
リゼは目を覚ました。
◇
冷たい床。
石造りの壁。
薄暗い部屋。
「……ここ、どこ……?」
身体を起こそうとして、手首に痛みが走った。
「……っ!」
銀色の鎖。
その表面には、小さな聖石が埋め込まれている。
動こうとするたび、淡い光が走った。
リゼは息を呑んだ。
村。
買い物。
白い服の男。
そして。
倒れる直前に見えた、散らばった野菜。
「……レオンさん」
声が震えた。
帰らなきゃ。
そう思った。
けれど、身体が動かない。
扉が開いた。
白い旅装の男が入ってくる。
昼間の巡礼者だった。
「目が覚めましたか」
「……あなた」
男は穏やかに微笑んだ。
「安心してください。危害を加えるつもりはありません」
リゼは手首の鎖を見た。
「……じゃあ、これを外してください」
「それはできません」
「帰してください」
「それも、まだできません」
男の声は変わらなかった。
それが、かえって怖かった。
「……どうして」
「あなたが何者なのか、確かめる必要があるのです」
リゼは首を振った。
「私にも、分かりません」
「ええ。そうでしょうね」
男は静かに答えた。
「だからこそ、調べる価値がある」
リゼは唇を噛んだ。
価値。
まるで、自分が物のようだった。
◇
森の奥。
レオンは膝をつき、地面に触れた。
「……妙だな」
リゼを連れ去った男は転移術式を使った。
本来なら、行き先を追うことは難しい。
だが、足元の根は違った。
一本が二本に。
二本が四本に。
木々の下で絡み合いながら、同じ方向へ伸びている。
「……お前たちが、教えてくれるのか」
レオンは一本の根に手を置いた。
その瞬間。
視界が揺れた。
◇
暗闇。
どこまでも続く地下。
巨大な根が絡み合っている。
その先に、一人の少女がいた。
銀色の髪。
紫色の瞳。
リゼ。
「……!」
レオンは手を伸ばした。
だが、届かない。
少女の手首には、白く光る鎖。
その傍らには、八本の光を伸ばす太陽の紋章。
「……聖教会」
次の瞬間。
景色が変わった。
巨大な木。
空を覆う枝。
幹には、無数の傷が刻まれている。
その傷から、白い光が細い管のようなものへ吸い込まれていた。
レオンは息を呑んだ。
「……何だ、これは」
胸の奥に、悲しみに似た感情が流れ込んでくる。
自分のものではない。
誰かの痛み。
誰かの願い。
そして、かすかな女の声。
『……守って』
「……誰だ」
答えはなかった。
ただ、光の向こうで。
小さな人影が揺れた。
◇
レオンは地面に手をついた。
「……っ」
息が荒い。
森に戻っていた。
今のは幻覚か。
魔法か。
それとも、何かの記憶か。
分からない。
ただ一つ、確かなことがある。
リゼは生きている。
そして、聖教会が関わっている。
レオンは立ち上がった。
「……案内してくれ」
足元の根が、静かに動いた。
◇
石造りの地下室。
巡礼者の男は、小さな聖石を取り出した。
「少しだけ、力を見せていただきます」
リゼは身を引いた。
「……嫌です」
「痛みはありません」
「そういうことじゃありません!」
男の手が止まった。
リゼは震える声で続けた。
「私が何者なのか、私だって知りたいです」
「……」
「でも、こんなことをされる理由にはなりません」
男はしばらく黙っていた。
そして。
「残念です」
聖石を近づけた。
その瞬間。
石が震えた。
「……?」
男の眉が動く。
白い光が強くなる。
さらに、強く。
「……これは」
聖石に細いひびが入った。
ピシッ。
「馬鹿な……」
パキン!
石が砕けた。
白い光が散る。
リゼは思わず目を閉じた。
けれど、痛みはなかった。
恐る恐る目を開ける。
男は、砕けた石を見つめていた。
「……あり得ない」
その声には、恐怖と興奮が混じっていた。
「あなたは一体……」
リゼは首を振った。
「……分かりません」
男は答えなかった。
ただ、静かに呟いた。
「上へ報告しなければ」
◇
レオンは、森の奥へ進んでいた。
細い根。
太い根。
木々の間を縫うように続く道。
やがて、古い石造りの建物が現れた。
小さな礼拝堂。
屋根は崩れかけ、壁には蔦が絡んでいる。
「……こんな場所に」
レオンは足を止めた。
入口の上。
風化した石に、模様が刻まれている。
太陽。
八本の光。
聖教会の聖印だった。
レオンは目を細めた。
「……やはりな」
そのとき。
地面が、小さく揺れた。
礼拝堂の地下から。
何かが脈打っている。
レオンは黒剣の柄に手を置いた。
だが、抜かなかった。
「……下か」
◇
地下室。
リゼは顔を上げた。
何かを感じた。
遠く。
けれど、懐かしい気配。
足元の石床に、細いひびが入る。
そこから、小さな芽が顔を出した。
「……?」
芽はゆっくりと伸びる。
そして、銀色の鎖へ触れた。
パチッ。
小さな音。
鎖の光が、一瞬だけ弱まった。
リゼは目を見開いた。
「……あなたが、助けてくれるの?」
返事はない。
けれど、芽は枯れなかった。
そのとき。
上の階から足音が響いた。
コツ。
コツ。
ゆっくりとした足音。
リゼは顔を上げた。
◇
礼拝堂の内部。
レオンは地下へ続く階段を見つけていた。
暗い石段。
その先から、微かな魔力が漂ってくる。
リゼのものだ。
間違いない。
「……いたか」
一段。
また一段。
階段を下りていく。
やがて、廊下の奥に鉄の扉が見えた。
その向こうから、声が聞こえた。
「……レオンさん」
小さな声。
かすかな声。
けれど、聞き間違えるはずがなかった。
「……リゼ」
レオンは扉へ近づいた。
「そこにいるのか」
「はい!」
返事があった。
震えた声だった。
「レオンさん!」
レオンは小さく息を吐いた。
「……よかった」
そして、扉に手を当てる。
厚い鉄。
古い蝶番。
魔法の封印は、扉そのものには施されていない。
「少し離れてろ」
「……はい!」
レオンは拳を握った。
わずかに魔力を込める。
三年間。
剣を使わずに暮らしてきた。
だが、身体の使い方まで忘れたわけではない。
――ガンッ!
鉄の扉が揺れた。
蝶番が軋む。
もう一度。
――ガンッ!
壁の石が欠ける。
三度目。
――ドンッ!
扉が内側へ倒れた。
轟音。
舞い上がる埃。
その向こうに。
黒剣を腰に差したレオンが立っていた。
◇
「……レオンさん!」
リゼが声を上げた。
レオンは彼女を見た。
銀色の鎖。
赤くなった手首。
青白い顔。
それでも。
大きな怪我はなさそうだった。
「……無事か」
「はい……!」
リゼの声が震えた。
レオンは小さく息を吐いた。
「……そうか」
たった一言。
けれど、その声には確かな安堵があった。
巡礼者の男が叫ぶ。
「貴様! 何者だ!」
レオンは男を見た。
「その子を解放しろ」
「この少女は聖教会が保護する!」
「……保護?」
レオンの目が細くなる。
「鎖で縛ることを、そう呼ぶのか」
男は聖石を掲げた。
「これ以上近づけば――」
レオンが一歩踏み出す。
男の言葉が止まった。
ただ歩いているだけだ。
なのに。
男は、目の前の人物から視線を逸らせなかった。
「……っ」
冷たい汗が流れる。
レオンは静かに言った。
「最後に言う」
「……」
「リゼを放せ」
男は歯を食いしばった。
「聖教会に逆らうつもりか!」
「……」
「その少女が何者かも知らずに!」
レオンの目が細くなった。
「……何者だと?」
男は答えなかった。
ただ、リゼを見た。
その沈黙が、答えだった。
レオンは黒剣の柄に手を添えた。
男の視線が、そこに止まる。
黒い鞘。
飾り気のない柄。
「……その剣は」
男の声が変わった。
「どこで、それを手に入れた……?」
「答える必要はない」
レオンは静かに告げた。
「リゼを返せ」
「……断る!」
男が聖石を掲げた。
白い光が地下室を照らす。
◇
そのとき。
地下室の奥で、巨大な根が脈打った。
ドクン。
石壁に亀裂が走る。
地面が揺れる。
巡礼者の男が叫んだ。
「な、何だこれは!」
レオンは奥を見た。
暗闇の向こうから、淡い光が漏れている。
リゼも振り向いた。
「……レオンさん」
「なんだ」
「私……」
リゼは胸元に手を当てた。
「この場所、知ってる気がするんです」
「……何?」
「分からないんです。でも……」
その瞳に、淡い光が宿った。
「ずっと前から、ここにいたような……」
地下の奥。
巨大な根が、さらに強く脈打った。
そして。
リゼの耳にだけ、小さな声が届いた。
『……おかえり』
「……っ!」
リゼは目を見開いた。
「どうした?」
レオンが尋ねる。
「い、今……」
言いかけた瞬間。
巡礼者が聖石を握りしめた。
「ふざけるな……!」
男の顔から、穏やかな笑みが消えていた。
「この少女は渡さん!」
白い光が膨れ上がる。
レオンはリゼの前へ一歩出た。
三年間。
剣を抜かなかった。
もう、誰かを斬るつもりはなかった。
英雄に戻るつもりもない。
世界を救いたいわけでもない。
ただ。
あの家へ帰りたかった。
畑があって。
五脚の椅子があって。
温かい食事があって。
そして。
「おかえりなさい」と笑う少女がいる家へ。
レオンは黒剣の柄を握った。
「……なら、通してもらうぞ」
鞘の中で。
《ノクティス》が、かすかに鳴った。
三年間の沈黙が。
今、終わろうとしていた。




