「消えた少女」
朝。
台所から、何かを探す音が聞こえてきた。
がさごそ。
ことん。
「……ない」
リゼの声だった。
レオンは食卓から顔を上げた。
「何がないんだ?」
「小麦粉です」
「昨日、使ってたな」
「はい。最後の分でパンを焼いたので」
レオンは目の前のパンを見た。
焼き色は少し濃い。
けれど、香ばしい匂いがする。
「……美味いぞ」
「まだ何も言ってません!」
「そうか」
リゼは呆れたように笑った。
それから、棚をもう一度確認する。
「野菜も少なくなってきましたね」
「畑にあるだろ」
「……レオンさん」
「なんだ」
「あれは、まだ食べられません」
「……そうか」
レオンは窓の外を見た。
畑には、小さな芽がいくつか並んでいる。
少なくとも、以前よりは畑らしくなった。
ほとんどリゼのおかげだが。
「じゃあ、村へ行くか」
レオンが言うと、リゼは少し迷った。
そして。
「今日は、私一人で行ってみてもいいですか?」
レオンは顔を上げた。
「……一人で?」
「はい!」
リゼは頷いた。
「道も覚えましたし、お店の場所も分かります」
「……」
「それに、いつまでもレオンさんについてきてもらうわけにはいきませんから」
レオンは少し考えた。
森にはまだ危険が残っている。
行方不明の魔法使いも見つかっていない。
だが、村までの道は人通りがある。
日中なら、危険は少ないはずだった。
「……分かった」
リゼの顔が明るくなる。
「本当ですか!」
「ああ。ただし、森には近づくな」
「はい!」
「寄り道もするな」
「分かってます」
「知らない人についていくな」
リゼは頬を膨らませた。
「レオンさん。私、子供じゃありませんよ」
「……そうだったな」
「今、絶対そう思ってませんでしたよね?」
「気のせいだ」
リゼは笑った。
「行ってきます!」
籠を持って、玄関へ向かう。
レオンは椅子から立ち上がった。
「リゼ」
「はい?」
「気をつけてな」
リゼは振り向いた。
「……はい!」
扉が閉まる。
家の中が静かになった。
レオンはしばらく玄関を見ていた。
「……さて」
畑仕事でもするか。
そう呟いて、立ち上がった。
◇
村は、朝から賑わっていた。
焼きたてのパンの香り。
店先に積まれた野菜。
荷車を引く商人の声。
「わあ……」
リゼは思わず足を止めた。
レオンと一緒に来たときには、気づかなかったものがたくさんある。
小さな花屋。
木彫りの人形を並べた露店。
甘い香りのする焼き菓子。
どれも少しずつ見てみたかった。
けれど、今日は買い物が目的だ。
「……寄り道はするな、でしたよね」
リゼは小さく呟いた。
それから、ふふっと笑う。
レオンの真面目な顔が浮かんだからだ。
◇
「おや、リゼちゃんじゃないか!」
聞き慣れた声がした。
振り向くと、マルタが手を振っていた。
「おはようございます!」
「今日はレオンと一緒じゃないのかい?」
「はい! 一人で買い物に来ました」
「へえ、立派じゃないか」
「もう、子供じゃないですよ」
リゼが頬を膨らませると、マルタは大きく笑った。
「ははは! レオンにも同じことを言ったんだろ?」
「……どうして分かったんですか?」
「顔に書いてあるよ」
「ええっ?」
リゼは慌てて頬を触った。
マルタはますます笑った。
「それで、今日は何を買うんだい?」
「小麦粉と野菜です。あと、何か美味しそうなものがあれば」
「レオンに食べさせるのかい?」
「はい!」
迷いのない返事だった。
マルタはにやりと笑う。
「そうかい、そうかい」
「……?」
「いや、何でもないよ」
◇
野菜売りの店先。
リゼは赤く熟れたトマトを手に取った。
「これ、美味しそうですね」
「ああ、今朝採れたばかりだよ」
店主の男が答える。
「煮込むと甘くなる」
「本当ですか?」
「もちろん」
リゼはトマトを見つめた。
レオンは、いつも料理を美味しいと言ってくれる。
少し焦がしてしまったときも。
味つけに迷ったときも。
文句を言わずに食べてくれた。
だから今日は。
もっと喜んでもらいたかった。
「……これ、三つください!」
「あいよ!」
店主はトマトを袋に入れた。
「おまけに一つ入れとくよ」
「えっ、いいんですか?」
「レオンに、畑も頑張れって伝えといてくれ」
「……ふふっ」
リゼは笑った。
「はい、伝えます!」
どうやら村では、レオンの畑仕事の腕前は有名らしい。
◇
次に向かったのは、小麦粉を売る店だった。
袋を一つ選び、籠に入れる。
「……ちょっと重いかな」
持ち上げてみる。
思ったより重かった。
「大丈夫かい?」
マルタが尋ねる。
「はい! これくらいなら」
「無理するんじゃないよ」
「大丈夫です」
リゼは籠を抱え直した。
そのとき。
隣の店に、小さな焼き菓子が並んでいるのが見えた。
丸くて、ほんのり黄金色。
「……美味しそう」
思わず足が止まる。
マルタが笑った。
「一つ買っていくかい?」
「でも、予定には……」
「たまにはいいじゃないか」
リゼは少し考えた。
そして、小さな袋を一つ買った。
二つ入りだった。
一つはレオンに。
もう一つは自分に。
帰ったら、お茶を淹れよう。
畑仕事を終えたレオンと一緒に食べよう。
そう考えるだけで、自然と頬が緩んだ。
◇
「買い物は終わったかい?」
マルタが尋ねた。
「はい!」
「なら、気をつけて帰るんだよ」
「ありがとうございます!」
リゼは頭を下げた。
「そうだ、マルタさん」
「何だい?」
「今度、レオンさんと一緒にご飯を食べに来てください」
マルタは目を丸くした。
「……あたしが?」
「はい! いつもお世話になっているので」
少しの沈黙。
それから、マルタは優しく笑った。
「……そうかい」
「迷惑ですか?」
「まさか」
マルタはリゼの肩を軽く叩いた。
「楽しみにしてるよ」
「はい!」
リゼは嬉しそうに笑った。
そして、籠を持ち直す。
今日は、きっと美味しい夕食になる。
レオンも喜んでくれるだろうか。
そんなことを考えながら、帰り道へ向かった。
そのときだった。
「……失礼」
背後から、静かな声がした。
◇
振り向くと、白い旅装の男が立っていた。
年齢は三十代ほど。
穏やかな笑顔。
胸元には、小さな太陽の飾り。
「少し、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「……はい?」
「私は旅の巡礼者です。聖教会の教えを伝えながら、各地を巡っています」
「そうなんですね」
リゼは頷いた。
男の視線が、彼女の顔に止まる。
銀色の髪。
紫色の瞳。
わずかに尖った耳。
一瞬。
男の笑みが消えた。
だが、すぐに元へ戻った。
「……美しい髪ですね」
「ありがとうございます」
「珍しい色です」
「そうみたいですね」
リゼは少し照れたように笑った。
男は穏やかな声で続けた。
「ご家族は、この村に?」
「……」
リゼは少し俯いた。
「分からないんです」
「分からない?」
「私、記憶がなくて」
男の目が細くなった。
ほんの一瞬。
「……それは大変でしたね」
「でも、今は親切な人に助けてもらって」
「ほう」
「その人の家で暮らしているんです」
「……なるほど」
男は微笑んだ。
「きっと、良い方なのでしょう」
「はい!」
リゼは迷わず答えた。
男はその返事を聞き、少しだけ考えるような表情をした。
「ところで、一つお尋ねしても?」
「はい?」
「村の北側に、古い祈りの碑があると聞きまして」
「祈りの碑……?」
「ええ。旅の途中で立ち寄りたいのですが、道が分からなくて」
男は申し訳なさそうに笑った。
「北側の畑を抜けた先、と聞いたのですが」
「あ、それなら」
リゼは顔を上げた。
「途中までなら、分かります」
「本当ですか?」
「はい。私の家も、そちらの方なので」
男は安堵したように笑った。
「助かります。途中まで、ご一緒してもよろしいでしょうか」
リゼは少し迷った。
レオンには、寄り道をするなと言われている。
知らない人についていくな、とも。
けれど、村から家へ帰る道は同じ方向だった。
途中までなら。
そう考えて、リゼは頷いた。
「道の分かれるところまでなら」
「ありがとうございます」
男は丁寧に頭を下げた。
◇
村の北側。
畑の間を抜ける道を、二人は歩いていた。
「この村は、静かでいいところですね」
巡礼者が言った。
「はい。皆さん、とても親切なんです」
「あなたも、ここでの暮らしが気に入っているようですね」
「……はい」
リゼは小さく笑った。
「毎日、楽しいです」
「そうですか」
男は穏やかに頷いた。
やがて、道が二つに分かれた。
片方は、レオンの家へ続く道。
もう片方は、畑の外れを通って森の手前へ向かう細道だった。
「私は、こちらなので」
リゼが家へ続く道を指す。
「祈りの碑があるとしたら、たぶん向こうだと思います」
「なるほど」
男は細道を見た。
「ご親切に、ありがとうございました」
「いえ!」
リゼは笑った。
「それじゃあ、私は帰りますね」
男も微笑んだ。
「ええ」
リゼは軽く頭を下げ、歩き出そうとした。
そのとき。
「……一つだけ」
男が言った。
「はい?」
「あなたは、不思議な方ですね」
「……え?」
「この土地の魔力が、あなたに反応している」
リゼの表情が変わった。
「何のことですか?」
「隠さなくてもいいのですよ」
男は胸元の聖印に触れた。
「私たちは、あなたのような方を探していたのです」
「……私を?」
「ええ」
男の笑顔が消えた。
「一緒に来ていただけませんか」
リゼは首を振った。
「嫌です」
「……」
「私、帰らないと」
「どちらへ?」
「レオンさんのところです」
男の目が細くなった。
「……レオン」
その名を確かめるように繰り返す。
「なるほど」
男は小さく呟いた。
そして。
袖の中から、細い銀色の鎖を取り出した。
先端には、小さな聖石がついている。
「申し訳ありません」
「……?」
「少し、眠っていただきます」
聖石が光った。
リゼは咄嗟に後ずさった。
「……っ!」
地面から蔓が伸びる。
男の足へ絡みつく。
「ほう……」
男は驚いたように目を見開いた。
「やはり」
次の瞬間。
聖石が強く輝いた。
蔓が枯れる。
リゼの足元に白い光の輪が広がった。
身体が動かない。
「……どうして……!」
逃げようとしても、足が動かなかった。
男が近づく。
リゼは必死に手を伸ばした。
その拍子に、籠が落ちた。
トマトが転がる。
小麦粉の袋が破れる。
そして。
小さな焼き菓子の袋が、道端へ落ちた。
「……レオン、さん……」
リゼの視界が揺れた。
最後に浮かんだのは。
畑で困った顔をしている、レオンの姿だった。
「……帰ら、なきゃ……」
男が倒れかけたリゼを支えた。
「……確保しました」
誰にともなく呟く。
男はもう一つの聖石を取り出し、地面に置いた。
石の表面に、太陽の紋章が浮かび上がる。
足元に白い光が広がった。
そして。
二人の姿が消えた。
後には。
散らばった野菜と、枯れた蔓だけが残された。
◇
昼過ぎ。
レオンは畑にいた。
「……」
鍬が抜けない。
まただった。
「……今日は調子が悪いな」
いや、いつも悪い。
レオンは諦めて腰を伸ばした。
そのとき、ふと気づく。
静かだった。
家の中も。
庭も。
いつもなら、そろそろリゼが帰ってくる頃だ。
「……遅いな」
レオンは空を見た。
買い物が長引いているだけかもしれない。
そう思った。
だが、胸の奥に小さな違和感が残った。
◇
レオンは村へ向かった。
マルタの店へ足を運ぶ。
「マルタさん」
「おや、レオン」
「リゼを見ませんでしたか」
「ああ、朝来たよ」
「その後は?」
「買い物を済ませて帰ったはずだけどね」
レオンの表情が変わった。
「……何時頃ですか」
「昼前だったと思うよ」
「……」
レオンは村の北側を見る。
もう、かなり時間が経っている。
「どうしたんだい?」
「まだ帰ってないんです」
マルタの笑顔が消えた。
「……何だって?」
「途中で何かあったかもしれません」
マルタは何かを思い出したように顔を上げた。
「そういえば……白い服の旅人と話してたね」
レオンの目が細くなる。
「白い服?」
「胸に、太陽の飾りをつけてたよ。巡礼者だと言ってた」
「……聖教会か」
レオンは小さく呟いた。
「何だい?」
「いえ」
「二人で北の道へ歩いていくのを見た気がするよ」
レオンは頷いた。
「ありがとうございます」
「ちょっと待ちな。村の連中にも聞いてみるよ」
「お願いします」
レオンは北の道へ向かった。
◇
村外れ。
畑の脇。
道端に、小さな籠が落ちていた。
小麦粉。
野菜。
散らばった食材。
見覚えのある籠。
リゼが持っていったものだった。
「……」
レオンはしゃがみ込んだ。
地面を見る。
乱れた土。
踏み荒らされた草。
そして、枯れた蔓。
「……魔法か」
指先で触れる。
微かな魔力が残っていた。
リゼのものだ。
だが、それだけではない。
別の魔力。
冷たく、不自然なもの。
レオンの目が細くなった。
「……聖石」
かつて、何度も感じたことのある魔力だった。
少し離れた地面には、円を描くような焦げ跡。
その内側だけ、草が白く変色している。
レオンは指先で土をすくった。
「転移の術式……」
普通の巡礼者が使えるものではない。
そして。
この術式を使える者なら、行き先の痕跡も簡単には残さない。
「……リゼ」
小さく名前を呼ぶ。
返事はない。
そのとき。
道端に、小さな袋が落ちているのが見えた。
レオンは拾い上げた。
中には、焼き菓子が二つ。
片方は、少し割れていた。
「……」
レオンは袋を見つめた。
なぜ二つなのか。
聞かなくても、分かる気がした。
そっと袋を閉じる。
そして、懐にしまった。
「……必ず、連れて帰る」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
◇
夕方。
ガンツが家を訪ねてきた。
「マルタから聞いた。リゼが戻ってないんだって?」
「ああ」
「村の連中で道を探したが、見つからなかった」
「……ありがとう」
「ギルドの連中にも話しておく。森の捜索とは別に、人を出せるか聞いてみる」
レオンは頷いた。
「頼む」
ガンツは少し迷った。
「……お前は、どうする」
レオンは答えなかった。
居間の壁を見る。
黒い剣。
《ノクティス》。
三年間。
一度も抜かなかった剣。
ガンツも、その視線を追った。
「……レオン?」
レオンは壁へ歩み寄る。
黒い鞘に手を掛けた。
そして。
静かに剣を外した。
「……少し、出てくる」
「どこへ行くつもりだ」
「手掛かりを探す」
「一人でか?」
レオンは振り向いた。
「ガンツさん」
「……何だ」
「もしリゼが戻ってきたら、ここで待っていてほしい」
ガンツは何かを言いかけた。
だが。
レオンの顔を見て、口を閉じた。
「……分かった」
「ありがとう」
レオンは黒剣を腰に差した。
扉を開ける。
夕暮れの風が吹き込む。
「……待ってろ」
レオンは村外れの道へ向かった。
リゼが消えた場所へ。
もう一度。
◇
夜が近づいていた。
レオンは、枯れた蔓の前にしゃがみ込んだ。
転移先を示す魔力の痕跡は、すでに薄れている。
追跡は難しい。
それでも。
ここには、リゼの力が残っていた。
レオンは地面に触れる。
「……頼む」
誰に向けた言葉でもなかった。
そのとき。
足元の土が、わずかに動いた。
一本の細い根が。
地面から顔を出した。
レオンは目を細めた。
「……何だ?」
根は、ゆっくりと伸びる。
まるで。
どこかへ案内するように。
レオンは立ち上がった。
森の方を見る。
そして。
その根を追って歩き始めた。




