「三年ぶりの一閃」
白い光が、地下室を満たした。
巡礼者の男が掲げた聖石から、幾筋もの光が伸びる。
細い糸のような光。
けれど、それが石壁に触れた瞬間。
ジュッ。
表面が黒く焼けた。
「動くな!」
男が叫ぶ。
「その剣を捨てろ!」
レオンは動かなかった。
背後には、リゼがいる。
銀色の鎖につながれたまま。
「……鎖を外せ」
「貴様、状況が分かっているのか!」
「分かっている」
レオンは静かに答えた。
「お前が、まだ外していない」
男の顔が歪んだ。
「……後悔するぞ!」
光の糸が一斉に放たれた。
壁を焼きながら、レオンへ迫る。
その瞬間。
レオンの脳裏に、遠い景色が浮かんだ。
◇
三年前。
荒れ果てた戦場。
折れた旗。
崩れた城壁。
そして、黒い剣。
何度も抜いた。
何度も振るった。
誰かを守るためだと、自分に言い聞かせながら。
それでも。
守れなかった命があった。
「……レオン」
勇者アルトの声。
もう、聞くことのできない声。
『戦争が終わった後を生きろ』
あの日。
レオンは決めた。
もう二度と、この剣を抜かない。
誰かを斬るために生きるのは、終わりにすると。
◇
「レオンさん!」
リゼの声が響いた。
レオンは目を開けた。
今、目の前にいるのは魔王ではない。
敵軍でもない。
背後にいるのは、守りたい一人の少女だった。
「……ノクティス」
小さく、剣の名を呼んだ。
黒い柄を握る。
鞘の中で、かすかな振動が伝わった。
懐かしい感触だった。
けれど。
あの頃とは、違う。
「……今度は」
レオンは息を吐いた。
「帰るために、抜く」
――チン。
黒い刀身が、静かに鞘を離れた。
三年ぶりだった。
光を映さない刃。
飾り気のない剣。
それが、わずかに動いた。
一度。
二度。
三度。
男には、その動きが見えなかった。
ただ、迫っていた光の糸が。
空中で、次々と断ち切られていく。
音もなく。
一筋残らず。
「……な」
男の口が開いた。
「何を、した……?」
レオンは剣先を下げた。
「……斬っただけだ」
床に、細い光の欠片が落ちる。
それはすぐに消えた。
男の額に、汗が浮かんだ。
聖教会の攻撃術式。
熟練の魔法使いでさえ、防ぐのが難しいはずのもの。
それが。
たった一振りの剣で、無力化された。
「……あり得ない」
男は後ずさった。
「貴様、一体……」
「鎖を外せ」
レオンは答えなかった。
◇
巡礼者は震える手で、別の聖石を取り出した。
「……ふざけるな」
その石を握りしめる。
「聖教会の術式が、ただの剣で……!」
「ただの剣じゃない」
レオンが言った。
男の目が見開かれる。
「……何?」
「よく手入れしてある」
「そういう意味ではない!」
リゼは思わず、小さく笑った。
こんな状況なのに。
レオンは、いつものレオンだった。
畑で鍬に負けているときと。
何も変わらない声。
そのことが、少しだけ嬉しかった。
けれど。
手にした剣は、まるで別人のもののようだった。
速さも。
静けさも。
リゼの知らないレオンが、そこにいた。
◇
「……ならば!」
男が聖石を床に叩きつけた。
白い魔法陣が広がる。
今度は、レオンへの攻撃ではなかった。
リゼの手首に巻かれた鎖が、強く光り始める。
「……っ!」
リゼが身をよじった。
レオンの表情が変わる。
「……やめろ」
「動けば、この少女の魔力を封じる!」
男が叫んだ。
「永久にだ!」
レオンは鎖を見た。
聖石。
銀の鎖。
床の魔法陣。
それらを結ぶ、細い魔力の流れ。
昔、見たことがあった。
魔王城へ向かう途中。
聖教会が提供した封印具。
あのときは、魔物を封じるためのものだと説明されていた。
「……そうか」
レオンは小さく呟いた。
鎖そのものを断ち切るだけでは危険だ。
魔力が逆流すれば、リゼの身体に負担がかかる。
だから。
斬るべきものは、鎖ではない。
「……何を考えている!」
男が叫ぶ。
レオンは答えなかった。
一歩、踏み出す。
剣先が、わずかに動いた。
リゼは目を閉じた。
その瞬間。
――チン。
小さな音が響いた。
魔法陣の光が消える。
銀の鎖が、床に落ちた。
「……え?」
リゼは目を開けた。
手首が自由になっている。
傷はない。
赤い痕が残っているだけだった。
巡礼者の男は、口を開けたまま固まっていた。
「……術式の結び目だけを?」
レオンは剣を下げた。
「……立てるか、リゼ」
「……はい」
リゼはゆっくり立ち上がった。
その足元へ、細い根が伸びてくる。
まるで、無事を確かめるように。
◇
「動くな」
レオンが言った。
巡礼者の男は、出口へ向かおうとしていた。
「……っ」
「まだ聞きたいことがある」
「何も話すことはない!」
男は懐から、小さな聖石を取り出した。
転移用の石。
それを床に叩きつける。
白い光が広がった。
レオンは剣を向けた。
斬ることはできる。
術式の中心を断てば、転移は止まる。
だが。
その瞬間、魔力が暴発する可能性があった。
すぐ後ろには、リゼがいる。
レオンは剣を止めた。
「……くそ」
光が弾けた。
男の姿が消える。
後には、砕けた聖石だけが残った。
レオンはしばらく、その場所を見つめていた。
そして。
静かに剣を下ろした。
◇
地下室に、静けさが戻った。
レオンは黒剣を鞘へ収めた。
カチリ。
その音が、妙に大きく響いた。
「……レオンさん」
「なんだ」
「すごかったです」
「……そうか」
「でも……」
リゼは少し迷った。
「少し、怖かったです」
レオンは黙った。
「剣が怖かったわけじゃないんです」
リゼは続けた。
「レオンさんが、どこか遠くへ行ってしまうような気がして」
レオンは、しばらく答えなかった。
黒剣の柄に触れる。
三年間。
遠ざけてきたもの。
それを、また手にしてしまった。
けれど。
「……帰るぞ」
レオンは言った。
リゼが顔を上げる。
「……え?」
「家に」
レオンは出口を指した。
「腹が減った」
リゼは少し驚いた後。
笑った。
「……はい!」
レオンも、ほんの少し笑った。
◇
礼拝堂を出ると、夜風が吹いた。
森は静かだった。
リゼは少しふらつきながら歩いていた。
レオンが足を止める。
「……乗れ」
「え?」
「背中だ」
「でも、歩けますよ」
「ふらついてる」
「……少しだけです」
「なら、少しだけ背負う」
リゼは困ったように笑った。
そして、レオンの背中に乗った。
「……重くないですか?」
「畑の石より軽い」
「それ、褒めてます?」
「もちろん」
「絶対違います!」
二人の声が、夜の森に響いた。
しばらく歩いてから。
リゼが、小さく尋ねた。
「……レオンさん」
「なんだ」
「また、あの剣を使うんですか?」
レオンは答えなかった。
月明かりが、黒い鞘を照らしている。
「……分からない」
やがて、そう答えた。
「でも」
リゼは顔を上げた。
「……でも?」
「もう、誰かを失うためには使いたくない」
リゼは、しばらく黙っていた。
そして。
レオンの背中に、そっと額を寄せた。
「……はい」
それ以上、何も聞かなかった。
◇
誰もいなくなった地下室。
砕けた聖石の欠片が転がっていた。
その奥。
巨大な根の間に、小さな金属板が埋まっている。
八本の光を伸ばす太陽。
聖教会の紋章。
そして、その下に刻まれた文字。
《採取施設・第七号》
金属板の奥で。
何かが、ゆっくりと脈打った。




