1-41 無名の陣、兵法を穿つ
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
土埃が静まり、清洲城の外曲輪に奇妙な静寂が戻ってきた。
先ほどの攻防戦で完璧なはずの「菊水の陣」を僕の泥臭い戦術によって内側からズタズタに引き裂かれた平手監物は、屈辱に震える両手を強く握りしめながら、自陣の立て直しを図っていた。
第一ラウンドはこちらの勝利。しかしビジネス同様に、一度相手の企画を論破しただけでは、本当の決着とは言えない。相手の古い価値観を完全に破壊した上で、こちらが提示する新しい価値の優位性を見せつけなければ、老害たちは決して納得しない。
だからこそ、僕は次なる一手――第二ラウンドの幕を開けた。
「さあ、平手殿。今度は僕が陣を布きましょう」
僕は配下の500の兵たちに指示を出し、ある陣形を組ませた。それは、一見すると何の変哲もない、むしろ統制の取れていない烏合の衆のように見える、歪な横並びの陣形だった。
陣頭に進み出た僕は、あえて先ほどの平手の言葉をそのままそっくり返すように、大声で問いかけた。
「平手殿! 我が陣の名を知れるや!」
遥か向こうで僕の陣を見渡した平手は、鼻で笑って手をパンと叩いた。
「はっ! 笑わせるな。そんなものは兵書に載っておらん! 形式もへったくれもない、ただの無名の陣だ!」
僕はニヤリと笑い、未来のシステムエンジニアが意地の悪いバグテストを仕掛けるときのような、底意地の悪い口調で告げた。
「いえいえ、平手殿。これもまた、あなたが愛してやまない楠木正成公が用い給いし、『菊水の陣』ですよ。さあ、あなたにこの陣が破れますか?」
「――ッ!」
平手の顔が、怒りで一瞬にして朱に染まった。「無学な猿」から、自らが信奉する兵法を逆手に取って嘲笑されたのだ。その屈辱は、彼の冷静な判断力を完璧に奪い去った。
「ふざけるなッ! そのようなデタラメな陣形が菊水なものか! かかれッ! 一気に踏み潰してしまえ!」
怒り狂った平手は、手勢500をひと固まりにして、猛然と突撃してきた。
対する僕の先陣――前列に配置していた兵たちは、平手軍の圧力に押されるようにして、あっさりと陣形を崩し、しどろもどろになって後退を始めた。
「見ろ! やはりただの烏合の衆だ! 逃がすな、一気呵成に揉み潰せ!」
平手は「それ見たことか」とばかりに、短兵急に追撃を命じた。彼の脳内は完全に「敵は崩れた。あとは押し込むだけだ」という直線的な確証バイアスに支配されている。
でも、それこそが僕の仕掛けた罠だった。
「――後陣、開け。味方を引き入れよ」
僕が静かに下知を飛ばした瞬間、戦場の景色が一変した。
逃げ惑っていたはずの僕の先陣が、さっと左右に割れて道を開け、その後ろから現れた「真の備え」が牙を剥いたのだ。
僕の後陣の兵たちは、それぞれが手に「持楯」を持ってる。そして、ただの盾を構えているのではない。その盾には、未来のモジュール建築の技法、互いを連結するための「掛金」が仕込まれており、さらに弓や鉄砲を放つための「狭間」が空けられている。
ガチャンッ! ガチャンッ!
兵たちは訓練通りに、五枚、あるいは十枚と盾を連結させていく。それは、野戦の平原に突如として、木製の「動く城郭」が展開された瞬間だった。
「な……なんだ、あれは!?」
平手軍の兵たちが、驚愕に足を止めた。
連結された巨大な盾の壁は、前後左右に自在に形を変えながら、鯨波を上げて、じりじりと平手軍を押し返していく。未来の機動隊が用いる防暴盾の戦術だ。
「怯むな! 力戦して突き破れッ!」
平手が必死に下知を飛ばし、兵たちが盾の壁に向かって竹槍を突き立てる。しかし、互いに連結し、がっちりとスクラムを組んだ盾の壁は、個人の力ではビクともしない。
逆に、その盾の狭間から――。
「放てッ!!」
僕の合図とともに、模擬の弓矢と、空砲の鉄砲が、雨あられのごとく射出された。平手軍は完全に面を向けることもできず、バタバタと地に伏せるしかない。
物理的な防御力と、一方的な攻撃力。この圧倒的な性能差を見せつけられ、平手の手勢が完全に怯んだその瞬間。
「――盾を開け。第二波、突撃」
連結された盾の壁が、再びさっと左右に開いた。
そこから飛び出してきたのは、最初にあえて「偽り負けて」後退した、二百余人の僕の先陣部隊だった。彼らは十分な休息を取り、手付かずのスタミナを持ったまま、疲労困憊してパニックに陥っている平手軍の真っ只中へ、面もふらずに突き込んでいった。
勝負は、一瞬だった。
「……今は、これまでか」
平手監物は竹刀を取り落とし、膝から崩れ落ちた。彼の率いた500の兵は、散り散りになって完全に敗北した。
沈黙。――そして、爆発するような大歓声。
「やりおった! 見事だッ!!」
観覧席に並み居る諸士たち――あんなにも僕を蔑んでいた織田家の重臣たちから、賞賛のどよめきが沸き起こった。その歓声は、しばらく鳴り止むことがなかった。
軍事演習が終わり、大広間に戻ってきた僕たちを待っていたのは、信長の破顔一笑だった。
「見事だ、藤吉郎。あの奇想天外な陣立ても、臨機応変な采配も、兵書の型を遙かに超えておった」
「もったいないお言葉にございます」
僕が平伏すると、その隣で、泥まみれになった平手監物が深く頭を下げた。
「……信長様。この平手監物、これまで抱いていた自負も考えも、すべて打ち砕かれました。木下殿の、まるで鬼神のような自在な用兵は、兵法書に書かれた奥義など遥かに超えております。到底、常人の器ではございません。……これまで木下殿に偏見を抱いていた自分を恥じております。どうか、この平手を木下殿の配下に加えていただき、ともに軍略を学ばせていただきたく存じます」
かつて軍学の権威として僕を嘲笑った男が、プライドを捨てて自ら降格を申し出た。これこそが、僕が狙っていた最高のエンディングだった。監物のような「古いデータベース」を僕の配下に組み込むことができれば、僕の最適化アルゴリズムはさらに強固なものになる。
信長はことのほか機嫌を良く、扇子でポンと膝を打った。
「藤吉郎の知略は、これまでの数々の策すべてが見事に当たっている。まさに我が織田家を支える柱だ。これだけの働きに褒美を与えないわけにはいかん。――木下藤吉郎に千貫(約1億円相当)を加増する。これで合わせて千五百貫だ。今後は、古参の重臣たちと同格として扱う!」
大広間がどよめいた。千五百貫(1億5千万円相当)。それは、一介の奉公人から這い上がってきた若造が手にするには、破格すぎる大出世だ。丹羽長秀や池田恒興、森可成といった武将たちも、「殿の御計らい、尤もなこと!」と、共に喜び勇んでくれた。
「そして、平手よ」
信長は、静かに頭を下げる平手に向けて、意外なほど優しい声をかけた。
「藤吉郎に敗れたことを嫉妬せず、自らその組下となって忠勤を励もうとするその姿勢、神妙の至りである。いよいよ心を合わせ、我が織田家の国家盛栄を計るがよい」
信長は、かずかずの引き出物を平手にも賜った。
平手は涙を流して恩に謝し、僕もまた深く頭を下げて、御前を退出した。
清洲城の廊下を歩きながら、僕は胸の奥に広がる熱い感覚を反芻していた。
千五百貫の領地。老臣同前の地位。泥まみれの奴婢だった「日吉丸」は、ついにここまで這い上がった。現代の冷たいアスファルトの上で、孤独に夜風に吹かれていた僕の魂が、この戦国という時代にしっかりと根を下ろし、確かな形を構築し始めている。
(僕は、まだ生きている。そして、世界を変えられる)
廊下の窓から見える空は、いつの間にか厚い曇天が晴れ、輝くような青空が広がっていた。
この胸の光が、本当に太陽(日輪)の欠片なのかどうかは、まだ分からない。
ここからが本当の始まりだ。天下布武という果てしない巨大プロジェクトの、中心に向けて。
僕は小さく息を吸い込み、堂々たる足取りで、新たな戦場へと歩みを進めた。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
木下藤吉郎知行加増
さて藤吉郎また一陣を布き、陣前に出で、「我が陣を知れりや」と云ふ。平手遥かに藤吉が陣を見渡し、また手を打って大いに笑ひ、「これ無名の陣なり」。藤吉が曰く、「これもまた楠の用ひ給ひし菊水の陣なるぞ。足下この陣を破り得んや」。平手、藤吉に嘲咲せられ大いに憤り、五百人を一備と控へしが、先陣突き立てられ、しどろになつて引取れば、平手得たりと短兵急に揉みたるにぞ、藤吉郎が後陣、備を開き味方を引入れ、手ごとに持楯に狭間を開き、或は五枚または十枚、掛金を以て列ね合せ、忽然として城郭のごとく、前後左右に取廻し、鯨波を發し、じりじりりと進み寄る。平手大いに驚けるが、是非なく力戦して突き破らんと、士卒を下方して烈しく討てば、件の楯の狭間より、弓矢鐵砲を雨のごとく射出し、面を向ふべき様もなし。平手これにひるんで見えけるところを、かの楯城をさつと開き、初め傷り負けたる二百餘人、面もふらず突き出れば、平手今は叶はじと、散々になりて敗北す。大将をはじめ並居る諸士、「したりや、したりや」と稱歎の聲暫しは鳴りも止まざりけり。平手監物かねての覚悟大いに相違し、藤吉が出没進退鬼神のごとくなるに感服し、「何様尋常の器にあらず」と、偏執の心を散じ、終に「藤吉が組下となりて、共に軍慮を談ぜん」と乞ふ。信長卿殊に愛で給ひ、「藤吉が勇智、兵家の奇密に達し、数度の計策ことごとく當らずと云ふことなし。實に我が家の柱石、称なくんばあるべからず」と千貫の御加増となり、都合千五百貫、老臣同前の格に仰せ付けられれば、丹羽、池田、森、林ら、「君の御計ひ尤もかくこそあるべし」と、共に悦び勇みける。猶重ねて平手監物を召され、「汝藤吉に劣りたるを嫉妬の念もなく、木下が組下となりて忠を勧む段、神妙の志感歎少なからず。いよいよ心を合せ、國家の盛栄を計るべし」と、かずかず引出物を賜はりければ、木下、平手ありがたく恩を謝し、やがて御前を退きけり。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
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絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜舞台背景〜
そもそもファンタジー中の用語に実在も架空もありませんが、楠木正成(家紋が菊水紋)の「菊水の陣」、謙信の「車懸りの陣」、信長の「三段撃ち」全てフィクションです。(と個人的に思ってます。)でも、ここが歴史の面白さですが、「実在した説」もありますw




