2-33 堅田血戦 ―― 五千を迎え撃て
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
天下布武への険しい道のりは、まだ半ば。だが、僕はもう恐れなかった。日輪の子として、この泥まみれの戦国の世を、最後まで駆け抜けてやる。
――その決意を胸に、六角親子の降伏という吉報を携え、冷たい雨の降る坂本の本陣へと急ぎ帰還した僕を待っていたのは、凍りつくような新たな絶望だった。
僕が後方の憂いを断つべく奔走していた僅かな間に、60日以上にも及ぶ「動かない戦線」の重圧に耐えかねた一人の猛将が、死狂いの凶行に打って出ていた。
坂井右近。姉川の戦いで手痛い失態を演じ、名誉挽回に己のすべてを懸けていた男。彼は500の決死隊を率いて琵琶湖を渡り、朝倉方の兵糧の集積地である「堅田の浦」を夜襲。見事に大量の糧米を奪い取るという大戦果を挙げた。
しかし、彼は奪った米を本陣へ送り届ける船に全水夫を託し、自らは「後続が来るまでこの地を死守する」と、五百の兵と共に敵地・堅田に留まる道を選んだ。
――それが、どれほど絶望的な決断だったか。
夜襲によって兵糧を奪われ、堅田の守備隊が這々の体で朝倉義景の本陣へと逃げ帰った時、運命の歯車は最悪の形で回転を始めた。60,000の大軍を支える胃袋を直撃された義景の怒りは、まさに沸点に達していた。「たかが500の小勢に、我が朝倉の喉元を抉られるとは何事か!」と激昂した義景は、即座に苛烈なる報復を下知する。
翌、11月26日の払暁。比良山地から吹き下ろす凍てつくような強風が、琵琶湖の暗い水面を波立たせる中。堅田の浦を包む薄闇の向こうに、おびただしい数の船影が浮かび上がった。先陣を承ったのは、朝倉方の重臣・式部大輔景鏡を筆頭に、山崎長門守、前波右衛門らが率いる北国勢・3,000人。怒り狂う義景はそれだけでは飽き足らず、浅井の精鋭である赤尾美作守、赤尾勘助、浅井七郎らに2,000人を預け、後陣として続けさせた。総勢、5,000。
目標は、堅田の岸辺に孤立する坂井右近の500。十倍という圧倒的な兵力差は、もはや戦術の入り込む余地のない、純然たる「暴力による圧殺」を意味していた。
だが、坂井右近は、数多の死線を潜り抜けてきた歴戦の勇士である。湖面を黒く塗りつぶすように迫り来る敵の巨大な船団を前にしても、彼の瞳に絶望は微塵も浮かんでいなかった。逃げ場のない岸辺で、右近はただ静かに槍を構え、500の兵に陣形を組ませて待ち構えていた。退路はない。己の命を代償にしてでも、過去の恥辱を雪ぎ、織田家への忠義を示す。その凄絶な覚悟が、500の将兵たちの心を冷たい炎のように束ね上げていた。
「掛かれッ!!」
敵船が岸に乗り上げ、朝倉の兵たちが陸に上がろうとした、まさにその瞬間。右近の裂帛の気合とともに、500の決死隊は一切の躊躇なく、無二無三に湖水の中へと斬り込んでいった。水際でのゼロ距離迎撃。まだ陣形すら整えず、揺れる船から降りようと足場を悪くしていた朝倉の先陣3,000は、この捨て身の突撃をまともに食らった。
「ぐわぁッ!?」
「ひ、退け! 槍を構え――」
冷たい湖水が、一瞬にして赤黒く染まり上がる。右近の部隊は鬼神のごとく槍を突き出し、太刀を振り下ろした。多勢であるはずの朝倉方は、陸に上がることもできず、算を乱して無惨に突き崩されていく。死傷者の数は知れず、数多の兵が重い鎧のまま冷たい湖水に呑まれ、しどろもどろになって漂った。
500が3,000を圧倒する。それは、死兵となった者たちだけが起こせる、刹那の奇跡だった。だが、戦場の現実は無情だ。朝倉先陣の凄惨な混乱を押し退けるようにして、後陣の浅井勢2,000が、大波を切り裂きながら殺到してきたのだ。総勢5,000の怒涛の圧力が、死体の浮く湖水を越え、ついに堅田の岸へと上陸を果たす。
味方は僅か500。一人が十人を殺さねば計算が合わない絶対的な暴力。右近の兵たちがどれほど勇を奮って刃を交えようとも、物理的な質量の差はどうにもならない。ばたばたと味方が突き崩され、気がつけば右近の部隊は、逃げ腰になったわけでもないのに、波に押し流されるように一町(約100m)後方へと押し込まれていた。
「引くな! 引くでないッ!!」
血まみれになった右近は怒号を上げ、士卒を激しく鼓舞した。自らが真っ先に敵陣へと駆け出し、血と脂で重くなった槍を縦横無尽に捻り回す。群がる敵を北へ追い退けたかと思えば、返す刀で東へ駆け抜け、南へ突入しては西に現れる。その姿は、まさしく戦場に顕現した阿修羅そのものだった。
彼がそこまで必死に、文字通り命を削って戦う理由。それは、己の誇りのためだけではない。共に死地に残ってくれた郎等たち――同苗の十介、浦野源太郎、浦野源八らを、決して犬死にさせまいとする主将としての壮絶な意地だった。
「右近様をお守りしろ!」
「一歩も引く気はねェぞ!」
郎等たちもまた、主君の背中を守るために血しぶきを浴びながら必死に刃を振るい続けた。その右近主従の凄まじい戦いぶりは、堅田の浦の者たちの魂をも深く揺さぶった。
夜襲の案内役を務め、本来ならば織田の兵とともに死ぬ義理などないはずの堅田の力者たち――馬場孫次郎、猪飼甚助、居初又治郎の三人である。
「あの漢を、坂井主従を討たせるなッ!」
三人は武器を引っ掴むと、叫び声を上げて激戦の渦中へと飛び込んでいった。彼らの捨て身の加勢により、5,000の大軍が僅かな兵に切り立てられ、右往左往して散乱するほどの猛反撃を見せた。しかし――人間の限界は、必ず訪れる。
朝倉・浅井の大軍は、疲弊した兵を下げ、次々と無傷の新手を前線へと送り込んでくる。波状攻撃という、最も単純にして最も残酷な戦術。
右近の兵がいかに勇猛であろうとも、彼らの肉体は鋼鉄でできているわけではない。振るう腕は鉛のように重くなり、息は血の味を帯び、人々の体には一箇所、二箇所と、致命傷に近い深い刀傷や槍傷が刻まれていく。一人、また一人と、泥と血に塗れて倒れ伏していく味方たち。吹き荒れる比良おろしの中、視界は赤く明滅し、死の足音がすぐ耳元まで迫っていた。
「……今は、これまでか」
誰の口からともなく漏れたその呟きは、絶望の淵に沈む堅田の浦に、重く、暗く響き渡った。坂井右近の命の灯火が、今まさに、冷たい湖風に吹き消されようとしていた。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
坂井右近、淺井、朝倉と堅田の浦に戰ふ(二)
ときに兵糧を守り居る北國勢、朝倉義景の本陣へ這ふ這ふの體にて逃げ來たり、しかじかのことにて兵糧を敵のために奪はれぬるよし告げたりければ、俄かに式部大輔景鏡、山崎長門守、前波右衛門に北國勢三千餘人を與へ、堅田の浦の敵を討つべしと下知をなす。三將命を受けて、二十六日の曉天、早船に取り乘り、堅田さして馳せて行く。義景なほも心ゆかず、淺井の家臣赤尾美作守、同勘助、淺井七郎らに二千餘人を屬せしめ、後陣に續いて打ち立たしむ。坂井右近物馴れたる勇士なれば、敵方の兵船を見るよりも、備えを立てて待ちけるが、朝倉勢の岸に上がらんとするところを、會釋もなく切ってかかり、無二無三に湖水の中へ斬り込みければ、朝倉方多勢なりといへども、いまだ陸にも下り立たず、備えもさらになかりければ、さんざんに突き崩され、死傷の者の數を知らず、しどろになって漂ふところに、後陣の勢大浪を押し切り馳せ來たり、坂井が勢を震うて戰ふといへども、敵は惣勢五千餘人、味方はわずかに五百餘人、ばたばたと突き崩され、思はず跡へ一町ばかり、逃ぐるとはなく引いたりける。右近怒って士卒を勵まし、自分眞先に駈け出て、槍を捻って敵にあたり、北へ追ひなびけては東へめぐり出、南に駈け入っては西に現れ、必死になりて戰ふにぞ、坂井が郎等同苗十介、浦野源太郎、同源八を討たせじと戰へば、堅田の勇士馬場、猪飼、居初の三人も、「坂井主従討たすな」と、續いてこれも馳せ通れば、淺井、朝倉が大勢、わずかの兵士に切り立てられ、右往左往に散亂す。されども大軍新手を入れ替へ、次第次第に攻め詰めければ、坂井が勢勇なりといへども、その身金石にあらざれば、人々(ひとびと)數ヶ所の手負となり、今はかうぞと見えたりける。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
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絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700
〜舞台背景〜
坂井政尚は、戦国時代の武将。織田信長の家臣。通称:右近将監、右近尉。諱は政重ともいう。『信長公記』では「一人当千の働き、高名比類なきところ」としている。




