2-29 戦国、第二ラウンド開幕
『太閤記』は、豊臣秀吉の伝記に用いられる題名。太閤は摂政・関白経験者で、その子が同様に摂関となった者が称する号であるが、ここでは秀吉を指す。秀吉の伝記・一代記の総称として用いられるが、小瀬甫庵の著作である『太閤記』を指すこともある。秀吉を中心とした人物を描いた戯曲作品は特に太閤記物という。
『絵本太閤記』(えほん たいこうき、旧字体:繪本〜)は、江戸時代中期に書かれた読本。豊臣秀吉の生涯を描いた講談をもとに、武内確斎が文を著し、岡田玉山が挿絵を入れた。全7編84冊。出典:Wikipedia
胸の中の日輪が、確かな熱を持って僕を焦がしていた。戦国の世の統一に向かって、僕の新たな物語が、今まさに幕を開けようとしていた。
――しかし、戦国時代は、僕に「一息つく」ことなど決して許してはくれない。元亀元年(1570年)、夏から秋にかけて。信長が姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を叩き潰し、「さあこれから天下布武の仕上げだ!」と息巻いていたまさにその裏で、とんでもない反織田包囲網が発動しようとしていた。震源地は、近江から遠く離れた四国、そして畿内である。
去年のこと。足利義昭を奉じて上洛を果たした信長を疎ましく思い、京都の本圀寺を襲撃して返討ちにされた連中がいた。三好三人衆――三好 日向守、三好 下総守、岩成主税之助らである。彼らは敗軍となって四国へ逃げ下り、ずっと復讐の機会をうかがって雌伏していたのだが、信長が浅井や朝倉と度々 死闘を繰り広げ、兵力と時間をゴリゴリ削られているという情報を聞きつけた。
「フハハハ! 信長め、近江の田舎侍どもにかかりきりで、畿内はお留守のようだな!」
「時は今だ! この隙に乗じて信長を討ち滅ぼし、足利将軍の野郎も引きずり下ろしてやる!!」
三好の一党は、松山彦十郎、篠原左京、安宅甚太郎ら四国の精鋭をかき集め、その数なんと16,000人。元亀元年(1570年)7月27日、彼らは四国の地を大船団で発船し、海を渡って摂津国の野田・福島にド派手に着陣した。さらに、かねてから信長と反目していた巨大な宗教勢力――石山本願寺と同盟を結び、要害の地に強固な要塞を構え、本格的な合戦準備を整え始めた。
この知らせに、京を中心とした畿内は大パニックに陥った。
「や、野田・福島に三好の大軍が!!」
「本願寺の坊主どもまで蜂起したぞォォ!!」
次々と京都から送られてくる緊急の注進に、岐阜城で休息を取っていた信長は、烈火のごとく激怒した。
「ええい! 次から次へと……湧いて出る虫ケラどもめ! まとめて誅伐してくれるわ!!」
信長は休む間もなく、美濃、尾張、近江、伊勢の軍勢、総勢35,000騎を引率し、自ら8月20日に岐阜を出陣。怒涛の行軍で摂津国の中島に陣を取り、三好の輩と激しい合戦に及んだのである。
――だが、事態はこれだけでは終わらなかった。
「……フフフ。まんまと三好の陽動に釣られて、畿内へ釣られたな」
この機を虎視眈々と狙っていた男がいた。北近江の小谷城に引きこもり、傷を舐めていた浅井備前守長政だ。
「好機到来! 信長の大軍が畿内に釘付けになっている今、がら空きになったその背後を突き、姉川の恨みを晴らしてやる!!」
長政は再び越前の朝倉と同盟を再アクティブ化し、9月14日、なんと30,000近い大軍を率いて南下。京都のすぐ東にある要衝、坂本に陣を取った。さらに長政は、比叡山延暦寺の僧兵たちを味方に引き入れた。元来、朝倉家は比叡山の大檀越であり、おまけに比叡山は信長によって所領を没収されるなど、険悪な関係だった。
「おお! 仏敵・信長を討つためならば、我ら比叡山の僧兵も喜んで力を貸しましょうぞ!」
比叡山は大喜びで浅井・朝倉の両軍を山内に匿い(かくまい)、手厚くもてなした。30,000の浅井・朝倉軍に、比叡山の強大な宗教パワーと地の利が加わったのだ。その軍威はすさまじく、京都では身分を問わずすべての人々は震え上がり、上を下への大騒動となった。
前に三好・本願寺。後ろに浅井・朝倉・比叡山。信長は、完全に前後を挟撃ちにされるという、絶望的な包囲網の中に陥ってしまった。
「……マズイな、これは。浅井の奴ら、完全に京都への補給線を断ち切るつもりだ」
一方、その頃。近江の江州・佐山の城には、信長の弟である九郎信治を大将とし、前線防衛の要でもあった猛将・森三左衛門可成が後見役として籠城していた。森の配下である青地駿河守、武藤五郎左衛門、肥田玄蕃ら二千余人の守備隊である。浅井長政は軍議を開き、冷酷にターゲットを絞り込んだ。
「あそこだ。あの佐山の城は、我らが上洛するためのルート上に立ち塞がる邪魔な障害物だ。あれを真っ先に攻め落とし、信長の背後を完全に塞ぐぞ!」
9月16日。長政は自ら3,000人を率い、先陣の朝倉勢16,000人とともに、圧倒的な物量で佐山の城へと押し寄せた。一気に攻め崩さんと殺意MAXで駆け上がってきたのである。
「チッ! 大軍を頼みに調子に乗りおって。相手をしてやるわ!」
籠城戦が基本の局面だが、『攻めの三左』の異名を持つ森三左衛門は大人しく城に引きこもるような男ではない。彼は500騎の精鋭を率いて市街地まで出撃し、朝倉の先陣と激しく挑み戦った。だが、ただの猪武者ではない。森はしばらく戦った後、わざと背を向けて偽装退却して引き退いたのだ。
「ハハハ! 織田の猛将も、我ら朝倉の大軍の前では逃げ出すか! 追え、追えェ!」
朝倉の将・式部大輔景鏡が調子に乗って追撃してきた、まさにその瞬間。
「掛かれェェェッ!!」
路地裏や茂みに潜んでいた森の伏勢が、左右から一斉に湧き出し、巨大な槍ぶすま(ファランクス)を作って朝倉勢の横っ腹を激しく突き崩した!
「な、罠かッ!?」
「今だ、取って返せ!!」
森三左衛門が厳しく下知を飛ばすと、森の郎等である道家清十郎、同助十郎、尾藤源内、同又八らの勇士たちが槍を揃え、大混乱に陥った朝倉軍を次々と突き立てていく。朝倉方は完全にさんざんになって逃げ惑い、森勢はこれを追い詰め、討ち取る首の数は知れないほどの大戦果を叩き出した。
「よし! 敵の出鼻は完全に挫いた! 我らは小勢ゆえ、深追いは無用だ。早く城へ引き入るぞ!」
森三左衛門は冷静に戦況を分析し、逃げる敵を放置して、城への帰還を命じた。鮮やかなゲリラ戦術。これにて第一フェーズは防衛側の完全勝利――で終わるはずだった。
「――逃がさんぞ、森三左衛門!!」
城へ引き上げようとする森勢の背後に、朝倉の第二波である中務丞景恒、魚住、山崎らの大軍が、怒涛の勢いで附入りしてきた。
「ええい、しつこい奴らめ! 仕方ない、迎撃だ!!」
森三左衛門は再び槍を取り、猛威を奮って朝倉の第二波と激突した。だが、森が朝倉勢と膠着状態の激戦を繰り広げている、その横合い(死角)から――。
ズドンッ!! ズドドドンッ!!!
「ぐわッ!?」
突然、無数の鉄砲の弾丸が、森の軍勢に撃ち込まれた。浅井長政の本隊である。長政は森が朝倉軍と交戦している隙を突き、横合いから鉄砲を乱射し、全軍突撃で討ってかかった。
「しまった……! 完全に囲まれた!」
わずか500の城兵は、前後を浅井・朝倉の数万という大軍に完全に包囲されてしまった。逃げ場はどこにもない。討たれる者は数知れず、部隊は一瞬にして壊滅状態に陥った。
森三左衛門は、戦国最強のアタッカーの一人である。だが、いかに勇力を持っていようとも、続く味方がいない孤立無援のフルボッコ状態では、どうすることもできない。
「……フッ。今は、これまでというわけか」
森は血まみれの顔で、死を悟ったように笑った。彼は郎等である尾藤、道家を左右に従え、ただ逃げるのではなく、あえて押し寄せる多勢の中へと最期の突撃を敢行した。自らの槍で敵を20人も突き伏せるという鬼神のような働きを見せたが、その身にも雨あられと矢玉を受け、痛手を無数に負ってしまった。
「……もう、限界だな」
限界を悟った森三左衛門は、郎等たちに防ぎ矢をさせ、重い鎧を脱ぎ捨てると、自らの腹を十文字に掻き切り、ついに絶命した。主君の壮絶な最期を見た尾藤や道家をはじめとする森の郎等10人も、「お供いたします!」と泣き叫びながら敵の中へ駆け入り、刺し違えて死ぬ者、乱軍の中で斬り死にする者など、一人として生き残る者はなく、全員が玉砕を遂げた。
城の天守から、この凄惨な全滅劇を見下ろしていた男たちがいた。佐山城の主将である九郎信治と、青地駿河守。城内に残された兵力は、わずかに300人。
「……頼みの綱である森三左衛門が討ち死にしてしまった。もはや、この城を守り切る方法は何一つ残されてはいない」
信治は静かに兜を被り直した。
「兄上(信長)に累を及ぼすわけにはいかん。我らも、武士の意地を見せようぞ!」
「ははッ! 地獄の底までお供いたします!」
信治と青地駿河守は、城戸を固く閉ざして援軍を待つという選択肢を捨てた。彼らは300の決死隊とともに城戸を開き放ち、勝ち誇って押し寄せてくる朝倉の大軍に対して、一切の躊躇なく突撃を仕掛けた。
「うおおおおッ! 織田の意地、とくと見よ!!」
小勢をもって大軍に当たる。無謀極まりない突撃だったが、死兵となった彼らの気迫は凄まじく、押し返し押し返され、半時(約1時間)ばかりの間、朝倉軍を足止めする激しい防衛戦を繰り広げた。だが、所詮は圧倒的な物量差である。将卒ともにスタミナが切れ、ついに大将の信治が乱軍の中で討ち取られた。主君の死を見た青地駿河守は、「もはやこれまで!」と覚悟を決め、伸びきった大太刀を踏み直し、群がる大軍を事ともせずに西へなびけ、東に追いと、思う存分に戦い抜き、最後は無数の刃に倒れて討ち死にしたのであった。
「……幹部連中が全滅したぞ! 佐山の城は落ちたァ!!」
誰一人として生き残る者がいなくなった城跡で、朝倉・浅井の両軍は大いに勝ち鬨を上げた。彼らは「天下取りの第一歩!」と喜び、その勢いのまま、京都へ続く大津のほとりに放火し、略奪の限りを尽くして、いよいよその軍威を京都のど真ん中へと向けて震わせ始めた。
浅井・朝倉連合軍による、京都封鎖。信長の背後は完全に塞がれ、織田家はかつてない滅亡の危機へと叩き落とされようとしていた。
【繪本太閤記 作:武内確斎 絵:岡田玉山 寛政9年】
淺井、朝倉佐山の城を攻む
ここに三好の一黨岩成主税之助らは、去年足利の將軍を討ち奉らんと、京都本圀寺に押寄せ、合戰に及びけれども、敗軍して四國へ逃げ下り、折を見合せ居たりけるが、信長、淺井朝倉と度々(たびたび)合戰ありて、互に隙なしと聞こえければ、この虛に乘じて信長を討亡し、義昭公をも失ひ奉らんと、三好日向守、同下總守、同山城守、岩成主税之助、松山彦十郎、篠原左京、安宅甚太郎ら、その勢一萬六千餘人、元龜元年七月二十七日、四國の地を發船して、津の國野田、福島に著陣し、同國東成郡石山本願寺を語らひ、要害の地に砦を構へ、合戰の用意をなす。これによって畿内の騷動大方ならず、このむね京都より追々(おひおひ)信長へ注進ありければ、さらばこの賊徒を誅伐すべしとて、美濃、尾張、近江、伊勢の軍勢三萬五千餘騎を引率し、信長自ら八月二十日に岐阜を立ちて、津の國中島に陣を取り、三好が輩と合戰に及びける。ときに淺井備前守このことを聞いて、「時こそ來れ。信長の後を討ちて姉川の恨みを晴らさん」と、また越前の朝倉と申し合せ、同九月十四日、坂本に陣を取り、叡山を語らふに、この山の衆徒ら、元來朝倉家は檀越にしてその因深き上、信長に恨みを含むことすでに年久しければ、大によろこび、兩家の軍勢をさまざまもてなし、ともに力を添へて、信長を伐つべしと勇みければ、その軍威はなはだ強く、京都の貴賤ふるひ恐れ、上を下へと騷動す。そのころ江州佐山の城には、信長の令弟九郎信治を大將とし、森三左衛門可成を後見にさし添へ、森が組下の青地駿河守、武藤五郎左衛門、肥田玄蕃、同彥右衛門ら、二千餘人にて籠もりける。淺井長政評議して、「上洛の途筋なればこの佐山の城を攻むべし」とて、長政自身三千餘人、唐崎原左京、安宅甚太郎ら、その勢一萬六千餘人、元龜元年七月二十七日、四國の河野村より押寄せ、一息に攻め崩さんと、揉みに揉んで駈けたりける。森三左衛門五百餘騎、町口まで出張して、朝倉勢としばらく挑み戰ひしが、僞り負けて引退く。式部大輔景鏡乘って追ふところに、森が伏勢左右より一同に發し、槍ぶすまを作って朝倉勢を突き白ます。三左衛門きびしく下知して取って返せば、森が郎等道家清十郎、同助十郎、尾藤源内、同又八らの勇士、槍を揃へ突き立つれば、朝倉方さんざんになつて逃げ行くを、追詰め追詰め首を取ること數を知らず。三左衛門味方の小勢なるを顧みて、追捨てにして早く城へ引入らんとするところへ、朝倉の後陣中務丞景恒、魚住、山崎ら附入りせんと追ひ來るを、森三左衛門取って返し、猛威を奮うて相戰ひ、勝負の色も見えざる前に、淺井長政橫合より鐵砲を打ちかけ、どつと喚いて討ってかかれば、わづかなる城兵前後の大軍に取圍まれ、討たるる者數を知らず。三左衛門勇力なりといへども、續く味方もあらざれば、今はこれまでと思ひけん、郎等尾藤、道家を左右に隨へ、追ひ來る多勢の中に駈け入り、敵を討つこと二十餘人、その身も痛手あまた負ひぬれば、郎等等に防矢させ、鎧脱ぎ捨て腹十文字に掻切つて、終に空しくなりにけり。ここに尾藤、道家をはじめとして、森が郎等十餘人、敵の中へ駈け入り、刺し違へ死するもあり、亂軍の中に切死するもあり、一人も活きる者なく、みな討死をしたりける。
城中には主將九郎信治、三百餘人にて籠められけるが、はるかに森が討死を見て、今は何をか期すべきとて、青地駿河守もろともに、城戶を開いて討て出で、勝誇りたる朝倉勢に曾釋もなく突いて入り、追っ返しつ半時ばかり戰ひしが、小勢を以ていかんでか大敵に當るべき、將卒ともに戰ひ勞れ、大將信治も亂軍の中に討たれ給ひければ、青地駿河守もこれまでなりと思ひ、伸っつたる大太刀を踏み直し、群がる大軍を事ともせず、西になびけ東に追ひ、思ふほど戰うて、これも討死したりけり。大將かくのごとくなれば、誰一人も生殘るべき、ここかしこにて討たれれば、朝倉、淺井の兩勢、大いに勝鬨を揚げ、物はじめよしと勇みよろこび、それより大津のほとりを放火亂暴して、いよいよ軍威を震ひける。
〜参考文献〜
太閤記 底本:『史籍集覧』第6冊,近藤出版部 - Wikisource
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絵本太閤記 武内確斎 著 夕陽亭馬齡 編
夕陽亭文庫 Amazon Kindle https://x.com/bpaaw700




