第29話 不安と友達
社交の会場から、私は一人で抜け出した。
少しだけ、息をつきたかった。
褒章式のあとの社交の場。最初は、ただ視線が多いだけだった。
けれど、前の社交会で知り合った令嬢三人に囲まれてから、空気が少し変わった気がする。
話しかけてくる者の数は少し減った。それでも、声をかけてくる者はいる。
祝いの言葉。探るような言葉。興味を隠さない言葉。
それらに一つ一つ返していると、剣を振るうのとは違う疲れが溜まっていった。
(……慣れないことは、やっぱり疲れるな)
鍛錬なら、身体が重くなるだけだ。魔物と戦えば、息が上がるだけだ。
でも、こういう疲れは違う。
頭の中がじわじわ熱を持つような、落ち着かない疲れ方をする。
私は人の少ない回廊を抜けて、バルコニーへ出た。
夜風が、頬に触れる。
室内の熱と喧騒から一歩離れただけで、胸のあたりが少し軽くなった。
手に持ってきた冷たい飲み物を、一口飲む。
喉を通る冷たさが、妙に心地いい。
「……ふぅ」
小さく息が漏れた。
まさか、あの戦いがここまでの褒章になるとは思っていなかった。
王都の外で、目の前の魔物を斬っただけだ。
いや、だけ、というには数が多かったし、混戦だったし、危険でもあった。
それでも、私の感覚では「戦った」だけだった。
(回帰前にも、あれくらいの活躍は……何度かあった気がする)
王太子の近衛騎士だった頃。いや、まだ王太子ではなかった頃から。
私は何度も、ああいう場に立ってきた。
魔物の討伐も、敵の排除も、危険地帯での護衛も。
だが、その時の功績は表に出なかった。
出るとしても、アーヴィンの手柄になった。
私はそのための剣だったから、それでいいと思っていた。
不満だったわけじゃない。少なくとも、その時はそう思っていた。
自分の名前が出なくても、褒められなくても、問題ないと。
それが役目だと、そう信じていた。
でも今は――。
(たまには、こうして褒められるのも悪くないな)
そう思ってしまう。しかも、ただ大勢の前で褒章を受けるだけじゃない。
親しい相手に、「おめでとう」と言われる。
それが、あんなにも胸に残るなんて、前の私なら考えもしなかった。
私は、少しだけ笑ってしまった。
(……本当に、変わったな)
回帰前の私が今の私を見たら、なんと言うだろう。
甘くなった、と言うだろうか。それとも、ようやく人らしくなったと言うだろうか。
そんなことを考えていると、背後で小さな足音がした。
「お姉様」
聞き慣れた声だ。振り向くと、ルイーゼがいた。
彼女も飲み物の入ったグラスを持っている。
室内で見た時と同じように綺麗な笑顔だったが、今は少しだけ肩の力が抜けていた。
「ルイーゼ様」
「ご一緒してもよろしいですか?」
「もちろんです」
私が言うと、ルイーゼは嬉しそうに隣へ来た。
そして、私と同じようにバルコニーの手すりの近くへ立つ。
しばらく、二人で黙って夜風を浴びた。
遠くで楽団の音がかすかに聞こえる。室内からはまだ笑い声や会話のざわめきが漏れてくる。
ルイーゼが、ふわりと笑った。
「改めて、おめでとうございます。さすがお姉様ですわ」
「ありがとうございます」
私は素直にそう返した。
こういう時、彼女の祝いの言葉は本当にまっすぐだ。
社交の場での綺麗な言葉とは違う。
だから、こちらも変に身構えなくていい。
私は少し考えてから言った。
「ルイーゼ様。貴族の方への対応など、教えてくださってありがとうございました」
「まあ」
ルイーゼが目を丸くする。
「そのくらい、当然のことですわ」
「それでも助かりました。教わっていなければ、もっと変なことになっていたと思うので」
私が言うと、ルイーゼは口元を緩めた。
「私のお姉様が、こんなに素敵だと皆様に知っていただけて、嬉しいですわ」
そう言った彼女は、笑っていた。
けれど――。
(……あれ)
私はその笑顔に、ほんの少しだけ違和感を覚えた。
笑顔なのに、いつもの笑顔じゃない。
家に来た時の、あの勢いのある笑顔とも違う。
今まで社交界で彼女が他の貴族に向けていた、少し作った笑顔に近い。
「……どうしました?」
「えっ?」
ルイーゼが、少しだけ目を瞬かせる。
「いえ。なんだか、笑顔がいつもと違うように見えたので……疲れですか?」
私がそう言うと、ルイーゼは一瞬だけ黙った。
それから、困ったように笑う。
「……気づかれてしまいましたか」
「やはり、何か?」
「お姉様に見抜かれるなんて、少し恥ずかしいですわ」
そう言って笑う。
だが、やはり少しだけ誤魔化すような笑みだった。
「でも、お姉様にしか気づかれていないので。お姉様によく見られていると思うと……嬉しいです」
その言い方が、どこか柔らかかった。
私は何と返せばいいのか少し迷って、結局、正直に思ったことだけを考える。
(……よく気づいたな、私)
前の私なら、人の表情の少しの違いなんて気にしなかっただろう。
たとえ気づいたとしても、わざわざ口にしなかったはずだ。
でも今は、気づいてしまった。しかも、見過ごしたくないと思った。
ルイーゼは、夜空の方へ視線を向けた。
「お姉様が褒章を授与されたことは、大変喜ばしいことです」
「……はい」
「本当に、誇らしいですわ。私のお姉様がこれほど立派で、これほど素敵で、これほど……」
「それ以上は過大評価です」
「ふふっ」
少しだけ空気が和らぐ。
けれど、そのあとに続いた彼女の声は、やはりどこか弱かった。
「……でも、少しだけ寂しい気持ちでもあるのです」
「寂しい?」
私は彼女を見た。ルイーゼはすぐにはこちらを見なかった。
グラスの中の飲み物を見つめたまま、静かに言う。
「お姉様は騎士で、私はただの貴族令嬢ですもの」
「……」
「今日みたいに褒章を授与されて、皆様に認められて、これからもっともっと遠くへ行ってしまう気がして」
そこで、ようやく私を見た。
その目は、少しだけ不安そうだった。
「お姉様が、遠い立場の方になって。今より関わりが少なくなってしまったら、と」
私は少しだけ驚いた。
(……ああ、そういうことか)
初めて見る顔だった。いつも元気で、勢いがあって、私を引っ張っていく彼女。
少し弱気な顔。少し不安そうな言葉。
そこまで好かれているのか、と改めて思う。
嬉しい。素直にそう思った。
私は、少しだけ笑って言った。
「どこにも行きませんよ、ルイーゼ様」
ルイーゼの目が、わずかに揺れる。
「お姉様……」
「私は、その……」
言いながら、少し迷った。こういう言葉を、ちゃんと口にすることに慣れていない。
でも、誤魔化したくなかった。
私はゆっくり続ける。
「不敬かもしれませんが、ルイーゼ様を友達だと思っております」
ルイーゼが、息を呑んだ。
「だから、簡単には遠くに行きません」
私は自分でも少し照れくさくなって、視線を少しだけ逸らす。
けれど、ちゃんと伝えたかった。
「私から離れるということはありません。騎士は、側で守る者ですから」
次の瞬間、ルイーゼの目に涙が浮かんだ。
「……えっ」
私は一瞬、思考が止まった。
「る、ルイーゼ様? だ、大丈夫ですか」
慌てて声をかける。泣かせるようなことを言ったつもりはなかった。
ルイーゼは涙を拭いながら、でも笑っていた。
「とても嬉しいです……本当に。この上なく」
声が少し震えている。
私は完全に困ってしまった。
どうすればいいのかわからない。
「えっと……泣くほどでしたか?」
私がおそるおそる言うと、ルイーゼは涙を拭きながら笑った。
「泣くほどでしたわ」
「そうですか……」
「お姉様は、こういう時に本当にずるいです」
「ずるい?」
「はい。真面目な顔で、私が一番欲しい言葉をくださるので」
そう言われても、私にはよくわからない。
ただ、彼女が嬉しそうなら、それでよかった。
少しして、ルイーゼは落ち着いたらしい。
呼吸を整えてから、改めてにっこりと笑った。
今度の笑顔は、さっきの作った笑顔ではなかった。
「お姉様。不敬なんかではありません」
「……」
「私も、お姉様と親密な友達だと思っておりますわ」
「っ……そう、ですか」
私は、その言葉を聞いて、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。
やはり、嬉しい。初めてできた女性の友達。
しかも、こんなにもまっすぐに好意を向けてくる人。
「お姉様、大好きです!」
「……私も、好きですよ」
そう言って、私達は微笑み合った。
ルイーゼが、ぐっと身を乗り出すようにして言った。
「お姉様。友達の証に、ぜひお願いしたいことが……」
「なんでしょう」
「敬語を外して喋っていただきたいです。敬称も不要です」
「……いや、それは」
私は即座に言い淀んだ。
相手は侯爵令嬢だ。友達と言ったとはいえ、そこは別問題な気がする。
だがルイーゼは、またも上目遣いになった。
「お願いします、お姉様……」
(……こういうところが、やっぱりずるい)
断りづらい。本当に、断りづらい。
「……わかった、ルイーゼ」
そう言うと、ルイーゼの顔がぱっと明るくなる。
「ただ、不敬で訴えないでほしいが」
「もちろんです! あとで誓約書をお書きします!」
「そこまではしなくていい」
私は即答した。
ルイーゼは楽しそうに笑う。
私も少しだけ笑ってしまった。
夜風は相変わらず冷たい。けれど今は、不思議と寒くなかった。




