赤松小三郎
弘が持ち上げかけた尻を、音も立てずに元の位置に戻す。
「ご家老と養父上との真剣勝負の前に、おれから皆様にお話ししたいこと、というか、お願いいたしたいことがありますので、聞いて頂けますか?」
清次郎は河合家老の方に頭を向けて、深く伏した。
河合五郎太夫、赤松弘、芦田柔太郎の三人の目が、空中で錯綜する。
一つ部屋に様々な立場の人間がいる場合、誰もが自由勝手に発言できるというわけではない。身分という面倒なものが関わってくるからだ。
例えばこの場では、柔太郎が一番身分が低い。次が赤松家の家長である弘。そして一番上にいるのが河合家老である。
たとえ五郎太夫と弘が碁友としてその場所でのみ「対等」であったとしても、やはり少しは気兼ねというものがあるだろう。
ましてや、若輩者の柔太郎が口火を切れる筈がない。
弘にしても、たとえ河合五郎太夫に「友と思え」と許されたにしても、国家老を前に声を挙げるのは気後れがする。
二人の気まずさを察したのか、五郎太夫が穏やかな声で、
「ほう、何を聞いて欲しいと?」
清次郎に問うた。
「はっ」
清次郎は五郎太夫に対して深く礼をした。
頭を上げたあと、居住まいを正して、一同を見回す。
「おれには生まれつき一人の兄がおりました。そこで小賢しそうな顔をしている、実際に賢しい男、芦田柔太郎です」
柔太郎の顔が僅かに歪んだが、反論を飲み込んだ。清次郎がまだ言葉を続けたがっているのが見て取れたからだ。
文句は続きを聞いてから言えば良い。
実際、清次郎は言葉を続ける。
「そして、今、新しく兄が増えることとなりました」
その場にいた全員が、各々、他人に気付かれない程度の僅かさで驚いた。
その中で、最も早く清次郎の真意に気付いたのは、弘だった。
「二人目の兄は、お藩から罰せられても尚、己が志した茶の道を極めようとしておられる、赤松家の長男たる善斎兄上です」
弘の口元に、薄い微笑が浮かんだ。
清次郎は続ける。早口で、まくし立てるように、だ。
「兄が二人いるならば、おれは三男坊ということになりましょう。
そうなったなら、おれは『次郎』を名乗るべきではない。
ぜひにも『三郎』を名乗りたい。
それも、未だ修行の足りない、学問の足りない、経験の足りない、ちっぽけな三郎と……」
清次郎は赤松弘に正対して、深く頭を下げた。
「どうか父上、おれが『小三郎』と名乗るのを許して頂きたいのです。赤松小三郎、と。よろしいでしょうか?」
弘の声が返ってこない。清次郎は更に深く頭を下げる。額が畳に擦り付けられた。
柔太郎は驚き、また感心した。
『あの気位の高い清次郎が、例え義父に対してだとはいえ、まるで潰れた蛙のようにぺたんと這いつくばることができるものなのか』
驚きは清次郎の行動に対して覚えたものではない。自分が弟のことをまるで知らないのだ、と、たった今になって知ったことに対しての驚きだった。
『私は家族のことを知らない。人間のことをまるで知らない。学問が足りぬな』
柔太郎は弟の総髪を結んだだけの太い髷の、元結の白い紙撚を見つめた。
それが、僅かに動いた。




