↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
竜頭――柔太郎と清次郎――  作者: 神光寺かをり
清次郎と柔太郎

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
80/85

駑馬十駕

 足音を立てず、しかしばたばたと、赤松家の人々は各々屋内を動き回った。

 まず二揃い(セット)の濯桶(すすぎ)が用意された。

 河合家老は外(そと)履(ば)きの紺(こん)足(た)袋(び)を脱いで足を洗い、中(ちゅう)間(げん)が差し出す室内用の白足袋に履き替える。

 他方、芦田柔太郎は素足に草(ぞう)履(り)履きだった。履き替える足袋もない。土(つち)埃(ぼこり)によごれた足を良く濯(すす)ぎ、己の手拭いで丁寧に水気を拭き取った。


 玄関横に古い竹の縁(えん)台(だい)が据えられた。これを担いできたのは秀助だった。

 家老が脱いだ紺足袋を懐(かい)紙(し)に包んで懐に仮仕舞いした中(ちゅう)間(げん)には、固く絞った手拭いも渡される。


 そこへ二揃いの茶菓が用意された。茶(ちゃ)請(う)けは凍(しみ)餅(もち)だった。


 凍餅は餅を寒晒し(フリーズドライ)にした保存食だ。

 通常は一刻(二時間)ほど水に浸してから水を切り、軟らかい餅状に戻し、黒(くろ)蜜(みつ)や黄(きな)粉(こ)を振って食べる。あるいは焼いて醤油をかけ廻すのもよい。

 多めの湯を注いで溶かし粥(かゆ)状にすれば、赤子の離乳食や年寄りの介護食、病人の養生食といった役に立つ。


 だが戻す時間も溶かす時間もない忙しい時には、一口大に割ってから茶やお湯に軽く浸す。

 餅のような柔らかさはない。煎(せん)餅(べい)のような堅さもない。サクサクとした軽い口当たりになる。


 この二揃いの茶菓は、玄関先で主人を待つ河合家の家臣達に供された。

 添えられていた凍餅は、水で戻されたものではない。

 つまりこの凍餅を割って茶に浸して食べてくれ、ということだ。


「なんとも乙(おつ)な食い方をさせるね(な)ぇ(い)」


「いやいや、むしろ有難いわい。わしはこっちの食べ方の方が口に合う」


 河合家の草(ぞう)履(り)取(と)りと小荷物持ちは、楽しげな言葉を一つずつ発したあとは、無言で茶を喫(きっ)した。小ぶりな赤松家の徒(か)士(ち)屋敷の玄関と、その先にあるであろう座敷の方へチラチラと視線を送っている。

 秀助も同じ方向をチラリと見た。

 中間達はそちらにいるだろう自分の主の姿を、秀助もそちらにいるであろう「先生」の姿を、それぞれ想像していた。


 事実、座敷の上座には、床の掛け軸を背に河合家老が座していた。

 河合家老の左斜め後ろには、芦田柔太郎がおさまり悪そうに座っている。

 彼らの前方、つまり下座に、赤松弘がおり、その左斜め後ろに実弟・清次郎がいる。


 床の間の軸には「夫(それ)驥(きは)一(いち)日(にち)而(にして)千(せんり)里(なるも)、駑馬十駕(どばもじゅうがすれば)、則(すなわち)亦(また)及(これ)之(に)矣(およぶ)」とある。

 達筆とは言い難いが、力強い筆遣いだった。これは赤松家先代の巨(おお)助(すけ)本人の筆だということだ。

 簡単に訳せば

「名馬は一日で千里を走るというが(もしその馬が全力を出し切っていないなら)、足の遅い馬が十日間たゆまず走り続ければ、これに追いつくことができる」

 といった意味になるだろうか。

 これは、「人間は基本的には悪であり、善性は教育によってこそ培(つちか)われる」という性(せい)悪(あく)説(せつ)を唱えた思想家の荀(じゅん)況(きょう)による書物「荀(じゅん)子(し)/修身篇」にある言葉だ。


 赤松巨助が何を思ってこの文章を書いたか、今となっては真意は知れない。

 しかし、幼年期に儒学をたたき込まれた清次郎には、なんとなく解った。


『駿馬でないなら、たゆまず走り続けよ。駿馬であっても、力を惜しむな』


 清次郎は顔も知らない義理の祖父に背中を叩かれた思いがした。


 きぬ女が高(たか)茶(ちゃ)台(だい)を河合家老の前に置き、柔太郎の前に茶(ちゃ)托(たく)を置いたのを合図として、赤松弘と清次郎が平伏した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。