足を洗う
柔太郎の声は河合五郎太夫の大声とは反対に静かであったが、良く通った。
清次郎は低く身を起こした。刀を拾い上げ、懐紙で拭い、鞘に収める。
刀を身体の右側に置き、改めて身を正して深く礼をした。眉間がヒリヒリする。
「面を上げよ、清次郎。お前の義父親と話をしたい。通せ」
「承知いたしました。……しかし、恐れながらご家老、その前に一つお伺いしてよろしいでしょうか?」
深く頭を下げたまま清次郎が言うのに、五郎太夫はクスリと笑って応じる。
「相変わらずお前という奴は無駄に度胸があるな。わしはこれでも藩の重役で、お前にとっては剣術の師匠じゃぞ」
言葉は厳しいものであったが、国家老は寛大にも清次郎の希望を入れたのである。
「恐れ入ります。実はご家老にではなく、兄……芦田柔太郎殿に、訊ねたいことがありまして」
「随分と他人行儀な物言いじゃな」
五郎太夫はチラリと柔太郎に目をやった。
柔太郎は軽く会釈を返した後、清次郎の方に目を落とす。
兄の視線を感じ取った清次郎が、少しばかり頭を上げて、
「石を投げたのは、兄上ですよね?」
「なぜそう思った?」
「河合師匠ならもっと容赦なくぶつけてくると思いましたんで。こう、額が割れて血が噴き出す程度には」
「ぶはははは!」
笑ったのは河合師匠だ。呵々として大笑する。
河合家の家人達は顔を背けて笑いを堪えている。
芦田柔太郎は苦虫を噛んだような顔をした。
一頻り笑い尽くしたらしい河合五郎太夫は、顔を藩の重役らしい真面目顔に整えて、
「さあ清次郎。赤松弘の元へ案内を頼む」
「はっ」
深く頭を下げ直した清次郎は中腰で起ち上がり、そのまま後ろ歩きに前庭から勝手口方向へ進む。
そこには様子をうかがっていた秀助とお直がいる。清次郎は小声で命じた。
「お直、急ぎで濯桶を二つ用意しておくれ」
土や砂利、あるいは石畳の舗装路であっても、草履や草鞋で歩いたなら、足は埃まみれになる。たとえ足袋を履いていても、細かい土埃は防ぎきれない。
だから屋内に入るときには、桶に汲んだ水で玄関や土間で足を洗う。これが濯桶だ。
「お二つで、よろしいんで?」
お直はチラリと前庭の方を覗き込んだ。
四人分の人影が見える。
「家の中まで上がるのは、多分二人までだろうからね。いや、もしかしたら内に入るのはご家老だけかも知れない。
そしてご家老のご家中の方は玄関前で待機することになる。だからその二人にはお茶か白湯をお出ししておくれ」
すると今度は秀助が前庭に目をやって、
「家ン中に入るのがご家老さまだけだったとして、お一人はご家来の方と一緒に残ることになるんじゃねぇですかね。
そうしたら先生。お茶は、お飲みになるかどうかは別として、三つは準備しておいた方がよろしいんじゃありませんか?」
不安そうな視線を受けて、清次郎はニタリと笑った。
「あ、残り一人にゃお茶なんか要りゃしないんだよ。
濯桶を出すのも、相手の足をキレイにしようっていうより、あの人のよごれた足で家ン中を汚させないためなんだ。
なにしろここンところは晴天続きでほこりっぽいからね」
声は小さかった。お直と秀助にだけ聞こえれば充分の言葉だからだ。
それなのに、なぜか、
「聞こえているぞ、愚弟!」
というよく通る声が、玄関前から聞こえた。




