石塊一つ
それほど清次郎は没入していた。
いや、没入することを己に強いていた。
そうせねば胸がざわついて落ち着いておられなかった。
迷っている。焦っている。
昨日から今朝にかけての慌ただしさは、清次郎にとってはむしろ有難かった。
登城してかしこまり、お偉方に向けて堅苦しくしゃべり通し、疲れ果てて兄のもとを訪れた。
兄を待つ間の手慰みに絵図を描き、兄と語らい、からかい半分で重要な報告を済ませ、全速力で木町の木戸を駆け抜けて赤松家に戻った。
食事をすませて、半ば徹夜で写本を終わらせた。
やることの多い一日だった。多すぎて、余分なことを考えずに済んでいた。
むしろ、余分なことを考えないために無駄にやることを詰め込んだともいえる。
朝が来て目覚めた瞬間に、なにもやっていない自分に気付くと、俄に不安となって溢れてきた。
雑に布団を上げた。着替えはしたが、袴を着けるのももどかしい。着流しで刀を引っ掴むと、裸足で勝手口から飛び出した。
白刃を引き抜き、呼吸を押さえ込み、師である河合五郎太夫直義直伝の型稽古を始めた。
お直や秀助には清次郎の型稽古が、踊るような滑らかな動きに見えていた。
当の清次郎にはそのようには思えていない。
腰は据わらず、膝は笑い、肩は固まり、目は泳ぐ。
身体が田舎人形芝居の人形のようにまとまり無くカクカクギクシャクと動いている。
それが清次郎の自認だった。
『これではダメだ、これではダメだ』
不安と迷いと焦燥感を抑えるため、清次郎は無心となることを目指して、型稽古に打ち込む、つもりだった。
つもりだったのだが。
無心に打ち込もうとしているのに、頭の隅には何かが浮かび上がり、気を取られる。
気を取られれば取られるほど、太刀筋は乱れる。
清次郎は焦った。
焦れば焦るほど、呼吸が乱れる。
清次郎は呼吸を抑えようとした。
抑えれば抑えるほど、息が上がる。
「いかん、これはいかん」
口から声が漏れた。声を出したことに清次郎自身が驚いた。
「駄目だ駄目だ」
飲み込もうにも停めようにも、声はどうしようにもなく溢れてくる。
体幹も心も太刀筋も乱れた。
そのとき清次郎の、ざわめき荒れた心の奥の一片に、僅かに残っていた凪の部分が、背後から気配を感じ取った。
振り向いた。
その瞬間、清次郎の眉間に鋭い痛みが走った。
「うぎゃっ!」
覚えず、清次郎は刀を放り出した。両手で顔を覆い、膝から崩れ落ちる。額が地面に当たった。
「この、馬鹿弟子が!」
腹に響くような大声が、清次郎の後頭部に降ってきた。
誰の声なのか、すぐに解った。
背筋に冷や汗が流れた。
清次郎は恐る恐る頭を持ち上げた。顔を覆っていた手をそろそろと下ろす。頭を持ち上げられない。目玉だけを精一杯上に向ける。
想像通りの人物の顔が見えた。
「河合師匠」
清次郎は河合五郎太夫を『家老』と呼ばなかった。今この場において、河合五郎太夫は清次郎にとって『剣術の師匠』なのだ。
それにしても、この朝早くに下級藩士の家まで、家老職にある者がわざわざやってくるなど、尋常なことではない。
状況を探ろうと、清次郎の目玉が動く。
河合五郎太夫の背後に三人の人々の姿を認めた。
二人はおそらく河合家の家人だろう。そのうち一人は小荷物を抱えている。
だがもう一人は、河合家の家来ではないことに間違いない。
「兄……上……?」
芦田柔太郎が姿勢正しく立っている。
「刀を拾え、清次郎。ご家老の御前だ」
押し殺した声だった。怒りが透けている。




