新しい朝が来た
明六つの鐘が聞こえる。
『月窓寺あたりの鐘かな』
清次郎は起き抜けに欠伸を二つほどした。
傳叟山月窓禅寺は海野町裏の赤松家から見ると北東の方角にある。
高名な戦国武将・真田幸隆の弟・常田隆永によって開基され、幸隆の孫・真田信繁が再興したと伝えられる、由緒ある曹洞宗の寺院だ。
昨晩、布団の中で早書きした『縫老算梯』の写しは完成していた。表紙を付けて製本までしてある。
原本(といってもこれも写本だが)と写本を付き合わせての校正までは、さすがに間に合わなかったが、それにしても――
「素晴らしく早く完成した。おれの筆も迅速となったものだ。我ながら感心する」
二冊を並べて、清次郎はつぶやいた。周囲に誰もいないのに、得意顔をしている。
秀助の布団はすでにきれいさっぱり片付けられていた。彼の姿もない。
台所の方向から煮炊きの音と人の静かな声がする。その中に秀助が立ち働く姿が混じっているのだろう。
清次郎も自分で布団をたたみ、着替えも済ませた。
勝手口から井戸端へ抜けようと土間へ向かった清次郎に、秀助が早足で近付いてきた。
「先生、お目覚めでしたか。お顔をお洗いになりますか? お待ちください。いま手桶で水をお持ちしますから」
秀助は清次郎の身体をグイグイと元の客間に押し戻した。
「洗面の水ぐらい自分で汲めるさ」
清次郎は押されるままにされつつも、勝手口の方を振り返り見ている。
「いいや先生。おいらに仕事をさせてくだせぇよ。何しろ権爺さんもお直さんも仕事が早ぇもんだから、おいらがやることが無くって」
「やることが無いと困るのかい?」
客間の中央まで押し込まれた清次郎は、丁寧かつ強引に座らされた。
そうしておいて、秀助は土間へ駆け向かった。
客間に戻ってきたとき、秀助は満満と水を湛えた桶と手拭いを持っていた。
足取りはそろそろ、のろのろとしている。
「そりゃ困りやすよ。だって、目の前でシャキシャキ動いている人たちがいるんですぜ。そんなとこで座ってたりしたら、尻がムズムズしちまう」
もぞもぞクネクネと身体を揺する秀助の様子の滑稽さに、清次郎は思わず噴き出した。
「本当にお前は働き者だな。つくづく感心する」
「いやいや、おいらなんか先生には敵いやしませんよ……あー、でも先生のは働き者ってんじゃなくて、勤勉とかなんとかって言った方がよろしいですかね?
夕べだって、遅くまでなんだか知りませんが熱心に書き物をなすって」
「なんだ、露顕していたのか。巧いこと隠しおおせたと思っていたのになぁ」
運ばれてきた桶の水を零さぬように、清次郎は洗顔をした。
「いや実は、夜中にちょいと憚りに行きたくなりましたんで。その時、先生の方をちらっと拝見しましたんでさぁ。
そしたら行灯の灯が、常夜灯にしちゃぁ明るかったんで、こりゃきっと先生が読み書きをなすってるんじゃねぇかと思ったんで、へい」
手拭いで顔を拭うと、清次郎は、
「ああ、故郷の水は良いなぁ」
ぽつりとつぶやいた。
早暁の空に、星が一つ二つ残っている。




