線と角と円と弧
「先生が起きてるってのに、おいらが寝るわけにいかねぇでしょう」
秀助は衝立の上に顎を乗せて清次郎の背中を見、これも極々小さな声で言葉を返した。
二人は自分たち以外の家の者たちがおしなべて眠れずにいるとは思いもしていない。
万一に寝ていないとしても、少なくとも寝入り端ではあるだろうと考えていた。
だから彼らに迷惑をかけぬよう、静かにしている。しゃべることも憚っている。
そうやって気を遣いながら書き物をしている背中に、起きている秀助の、恐らく必死に眠気を堪えていることを容易に想起できる「気配」をひしひしと受けては、清次郎も気になって仕方がない。
振り向くこともせず、また手を止めることもしなかったが、秀助に声をかけずにはいられなかった。
「お前は働き者だなぁ。偉い、偉いよ」
頭を上げた清次郎は、細筆を握ったまま両の腕を突き上げて、一つ大欠伸をした。
釣られて秀助も欠伸をしそうになった。
秀助は慌てた。折角先生に褒められたというのに、直後に怠惰な行いをしたのを清次郎に気付かれまいとして、懸命にそれを飲み込んだ。
この動作のせいで、いくらか人の心を察することには鈍い清次郎にも、背中側にいる秀助の眠気の深さが察しられた
「しかたがない。こいつももう三分の二ぐらいは済んだから、今日はこれで止めにするか」
清次郎は有明行灯を手に立ち上がって、そろそろと布団まで歩み寄った。枕元に行灯を置き、夜着をまくり上げる。
行灯の灯が小さく絞られていたので、衝立から顔を覗かせていた秀助の目には清次郎の左手が幾枚もの紙と矢立、一冊の書物を持っていることには気付かなかった。
「さぁて、おれは寝るぞ。だからお前も寝てくれ」
ニコリと笑って、清次郎は布団の中に入り、夜着を頭まで引きかぶった。
秀助の顔がぱっと明るくなった。安堵満面で、
「へい、わかりやした。先生、お休みなさいまし」
素早く自分の布団に潜り込んだ。呼吸を二つ三つすると、秀助はもう眠りに落ちていた。
清次郎は聞き耳を立てた。
衝立の向こうから漏れ聞こえてくる寝息だけで、秀助がぐっすりと眠り込んでいるのがわかる。
揺さぶり起こそうとしても起きないだろう。
夜着の中の清次郎はうつ伏せになった。目は開いている。布団から腕を突き出して行灯をギリギリまで引き寄せ、枕を布団から追い出した。
枕のあった場所に、十数枚の紙、矢立、そして書籍『縫老算梯』を並べる。
江戸からの往路で秀助が齧りついて読み、巻き添えで清次郎を寝不足に陥らせたあの算学書だ。
それを書写している。
凄まじい勢いで文字を書き、定規もないのに美しい直線を引き、渾発を使うことなく真円を描く。
すでに三分の二ほどは写し終えている。夕食が終わってから、寝床に入るまでの僅かな間に、だ。
『帰国の道々、徹夜に近い事をし続けて酷い目にあった。できるだけ作業を早く終えて、できるだけ眠りたい』
しかしいくら速さが必要だとはいえ、線と角と円と弧だけは正確に書かねばならない。だから速度を上げるには文字を猛烈に早く書かねばならない。
『この本を秀助はまだ最後まで通しで読み終えていない。だがこれは我が家にも置いておきたい』
図形の間を細い文字が埋めて行く。




