初学者
「今でも、江戸から国元に戻ってきた年寄り連中や、代替わりして国詰になった若い衆が、昔の義父殿の思い出話やらをしに来る。そいつを聞くのがまた面白くてな。
いやいや、義父殿の皆々方への教え方の、そりゃ酷いこと酷いこと。死人が出なかったのがオカシイくらいだ。
俺も一応義父殿から馬を習ったが、江戸の連中のような酷い目には遭っていなかった。
最初から義父殿から『向いていない』と見切られておったんじゃろうな」
弘は硬い笑みを顔に浮かべた。
赤松弘は馬術の手練れだ。
教わり方はどうあれ、上田藩馬術指南役・赤松巨助直伝であるのだから、下手であるはずがない。
だから「向いていない」などというのは「謙遜」に過ぎない。あるいは「大嘘」だ。嘘という単語が強すぎると言うのならば、「方便」と言い換えればよいだろう。
彼は馬が巧い。
ただし、彼の手腕は義父ほど飛び抜けたものではなかった。
それがために義父が勤めていた馬術指南の役目には就くことができなかった。
そのこと――亡義父の跡目を継げなかったこと――が、弘には幾分か引け目になっている。
弘が徒目付の職に就いたのは、まだ義父が存命であり、隠居もしていなかった頃だ。赤松家の家禄十石三人とは別に二人扶持を与えられて召出されている。
彼に与えられた徒目付という職務には、全くというわけではないが、馬術の腕前は活用できない。
「じゃから儂はな、藩から直々に『お前は馬が下手だ』と断じられたちう訳じゃいな。名手・赤松巨助に教わってもモノにならなかった、とな」
弘は笑った。
「儂は今でも馬に乗るのが好きだ。貧乏徒士じゃから家で飼うわけにはいかねぇが、余裕があれば馬小屋を建てて二頭ばかりは飼いてぇな。
だがな、儂には馬術は向いていない。向いていないが馬術が好きだ。
馬術を学ぶには向いてないが、できることならもっと学びたかった。
ああ、義父殿がもっと長く生きてござったならなぁ」
弘は笑った。笑って、洟水をすすり上げた。
「旦那様も、ご苦労をなすったのですねぇ」
秀助は小皿を手に捧げ持ったままいう。その皿を一枚、きぬ女が取り上げた。
きぬ女は箸を取り、清次郎が捧げ持っている竹の皮の中から、小豆餡のおはぎと胡桃餡のおはぎを一つずつ取り、皿に乗せた。
「直、こちらを旦那様に」
「あい」
下女の直が、小皿を少々大げさに恭しく掲げ持って、主人の膳の前へ向かった。
青々とした蕪菜が炊き込まれた飯と、蕪本体の味噌汁、塩辛い沢庵漬けの小皿の乗った赤松弘の膳に隙間を作り、無理矢理ねじ込んだ。
「ご新造様よ、俺は甘学の初学者じゃ。慣れぬ腹にいきなり二つは詰め込みすぎだろう」
弘はおはぎの皿を取り上げて起ち上がった。
きぬ女と清次郎は驚いたが、声を潜めた。弘が向かったのは、仏壇だった。
「南無釈迦牟尼仏」
仏壇の釈迦如来像に手を合わせ、鈴を鳴らし、弘は経文を唱え始めた。
「仏説摩訶般若波羅蜜多心経ぉー。
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空
度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空
空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相
不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中
無色 無受想行識 無限耳鼻舌身意 無色声香味触法
乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得
以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想
究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故
得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多
是大神咒 是大明咒 是無上咒 是無等等咒
能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多咒
即説咒日 羯諦 羯ー諦 波ー羅ー羯ー諦 波羅僧羯諦
菩提薩婆訶 般若心経ーーーーーーぉ」
弘が朗々と般若心経を真読する間、きぬ女も清次郎も、直も秀助も、座り直して自然と仏壇へ手を合わせていた。
弘の読経は玄人裸足で、その場にいた者は皆、背筋を伸ばさずにいられなかった。
経文を唱え終えた弘は、再度鈴を鳴らし、合掌と黙礼を捧げ、供えた皿を下ろして、膳の前へ戻った。




