わすれられた記憶
早く立ち上がって逃げなくてはという気持ちとは裏腹に、僕の体は全くいうことをきいてはくれない。立ち上がろうとはしてみるけれど、覚えのない痛みに襲われる。体中が悲鳴を上げていて、僕の思うように体を一切動かすことができない。
今まで気がつかなかった背中の焼けるような痛みに襲われて、スゥと意識が消えていきそうになる。
僕……、死ぬのかなあ。
諦めかけたその時だった。強烈な光が辺り一面に輝く。
一瞬にしてその光は消えたけれど、その強烈な光で僕の意識が急にはっきりとなる。今の光が何だったのだろうと思って、振り返ろうとした時だった。
断末魔のような叫びが、森に轟いた。
その叫びが僕の耳にはとてつもなく醜いものに聞こえて、僕は思わず両手で耳を塞いだ。
少しでも叫び声が聞こえないようにと、必死に耳を塞いで不快感に耐える。不快な叫び声は耳鳴りとなって、僕を内側から蝕んでいく。僕はなぜか自分が穢されていくように感じた。
あまりの不快感に僕はブルッと身を震わせる。
「だいじょうぶかい?」
不意に近くからかけられた声にビクッと体が反応する。僕は声の主が近づいてきたことにまったく気がつかなかった。何だかわからない物に追いかけられた記憶が新しく、目の前の存在に体が強張る。結局何に追われていたのか僕にはわからない。
いや、本当は何にも追いかけられてなどいなかったのかもしれない。
死刑宣告のように、相手が目の前でゆっくりとしゃがみ込んだ。死神の鎌が目前に迫る。
僕の目の前に突然現れた相手は、全身真っ黒な軍服を身に着けた男だった。
黒い髪は肩まで伸びて緩くウェーブがかかり、顔の右半分は長い前髪で隠れて伺い見ることはできない。僕を安心させるためか、垂れた目じりは柔和に微笑んでいる。泣き黒子が特徴的な顔だった。
不思議とその存在に僕は安心した。僕はまったく知らない地で、心細かったのかもしれない。
男は黒の軍服をきっちりと着込んでいる。そして、僕に差し出してきた手には黒い手袋をはめていた。しゃがみ込んでいてもわかるほどスタイルのいい長い脚は、黒皮の長ブーツを履いている。まるで鴉のように全身真っ黒な服装である。
「君を追っていた奴ら、俺が倒したから。だいじょうぶだったかい? それにしても酷い怪我だな」
僕ははっとした。
目の前の男は僕を心配するかのようにやさしく微笑んでいるのだ。そして、男は僕の様子を確認するためにか、僕の顔を覗き込んできた。
なんで僕を見ているんだろうとどこか他人ごとのように思ってしまった。
「俺はジン。よろしく。いつまでそこで倒れているつもりだい?」
僕はジンと名乗った男に言われるまで自分が転んだ時のまま、地面の上に倒れていることを忘れていた。死ぬかもしれないという恐怖が、僕の思考を完全に停止させていたのだ。
さすがに、いつまでも地面の上で寝そべっているわけにもいかない。
ジンは俺の手を掴んでくれと手をもう一度差し出してきた。僕はそれを掴み、痛む体に鞭を打って立ち上がる。僕を支えるようにしてジンが立ち上がりながら、僕を引っ張ってくれる。疲労した足はガクガクと笑っている。それよりも僕は背中の焼けるような痛みに襲われた。
思わずその強烈な痛みに顔をしかめる。
ジンは立ち上がった僕を下から上まで眺める。すると、ある一点を見つめて、驚いたような表情をした。
彼は僕を通して僕の後ろを見ているようだった。
「へえ。天使がここにいるなんてめずらしいなあ」
天……使?
天使ってなんだろう。ジンは何を言っているのかなあ。僕にはわからないよ。
僕には天使が何なのかわからなかった。けれど、ジンの視線の先には僕以外いなかった。ジンの言葉の感じからすると、天使とは僕のことを指すのだと知った。僕はぶしつけなジンの視線を不快に感じないほど、思考に耽ってしまった。どうして僕は自分のことなのに自分自身のことがわからないのだろうと思った。
僕の背には白い翼があり、その白い翼は僕が天使であることの証である。三対の翼が僕の背から生えている。そして、僕の翼は今負傷しているのだった。純白の翼は自分自身の血に濡れている。背中が焼けるように痛むのは、僕の翼が折れ曲がっているからだ。そして、ところどころ羽が抜けて、不自然な姿となっている。
「君、名前は?」
「わからない」
僕はすぐにジンに答えた。
ジンに自分のことを質問されても、僕は何一つ自分のことを話せそうにはなかった。本当に何も覚えていないのだ。僕はとても悲しくなってしまった。
「わからないのかい? まさか、記憶喪失!」
ジンが目を見開いて僕を見た。僕はジンが驚いている理由さえ分からない。
とりあえず僕は記憶喪失かもしれないということがわかった。どうやら僕は自分に関することを忘れてしまったらしい。
「何か覚えていることはあるかい?」
「どこかから。どこかから……、落ちたような気はするけど」
ズキッと頭が痛む。何かを思い出そうとすると、激しい痛みに襲われる。ついつい僕の視線は頼りなさげに、下へ下へと下がってしまう。
僕は初めて自分について何も思い出せないことに不安になった。
「あそこ! 楽園から落ちてきたんじゃないかい?」
ジンは空に向かって指を指した。俯いていた僕は、ジンの指し示した方へと視線を向ける。空に島が浮いていた。僕はそれを茫然として見つめるだけだった。




