第九章 先輩の導き
十月の第三木曜日、午後六時を回ったころだった。里美はエレベーターホールで、下りの箱が来るのを待っていた。部会で秋特集の報告を終えたのが三時で、その後の三時間、何をしていたのかよく覚えていない。報告のあいだ、指先が冷たかったことだけは覚えていた。
上の階から下りてきたエレベーターの扉が開くと、中に男性が一人乗っていた。紺のスーツに、ネクタイはしていない。脇に、黒い革の手帳を挟んでいた。
「田中さん、ですよね。EC事業部の」
里美が乗り込むと、男性は閉のボタンを押しながら言った。
「ブランド戦略部の武田です。今日の部会の資料、うちにも回ってきて」
名前は知っていた。十階のブランド戦略部のシニアマネージャーで、全社の会議で何度か、壇上の端に座っているのを見たことがある。声を聞くのは初めてだった。低くて、急がない声だった。
「今回の分析は見事だったと思います。特に、アンケートの自由記述から、場所について書いている二百六十八件を拾い出したところ。あれは検索だけじゃ出ない数字ですよね」
「部屋着が引っかかってしまって。一件ずつ読みました。後輩と二人で」
武田は、ああ、と声を出して笑った。
「部屋着か。なるほど」
エレベーターが七階で止まり、誰も乗ってこないまま扉が閉まった。
「もう一つ、気づいたことがあって。掲載された九十枚、日の入り方を見ると、七割くらいが午後の、西からの光なんです。朝の写真が思ったより少ない」
里美は武田の顔を見た。自分では、そこまで見ていなかった。
「みんな、休みの日の午後に撮るからでしょうか」
「たぶん。それか、午後の自分の部屋がいちばん好きなのか。どっちにしても、うちの商品写真はほとんど朝の光で撮ってるから、ずれてるのかもしれない」
一階に着いた。扉が開き、武田は開のボタンを押したまま、里美を先に降ろした。
「次は、このデータを長期的なブランド戦略にどう活かすか、考えてみるといいかもしれません。EC事業部の特集で終わらせるのは、もったいない気がする」
それから、手帳を持ち直して、軽く頭を下げた。
「引き止めてすみません。お疲れさまでした」
武田は正面玄関とは反対側の、通用口のほうへ歩いていった。里美はしばらくロビーに立って、その背中を見ていた。午後の、西からの光。帰りの電車の中で、里美は自分のスマートフォンの中の、林試の森で撮った写真を見返した。どれも、午前の光だった。
十二月の第二金曜日、夜の八時四十分。
フロアの照明は、EC事業部の島の上だけが点いていた。里美は画面を二つ並べ、左に倉庫の在庫表、右にEC側の在庫数を開いていた。年末ギフトの「冬の贈りものセット」、ひざ掛けと湯のみ二客を木箱に詰めた商品。倉庫の表では三百十二。ECの画面では三百二十九。
十七。
差の十七の分だけ、注文を受けてしまっていた。発送の引き当てができない注文が十七件、画面の隅に赤く並んでいる。昼過ぎに物流部の倉田さんから内線があり、それからずっと原因を探していた。飯島課長は親戚の通夜で五時に帰った。杏奈には、七時に帰ってもらった。明日は土曜で、倉庫は稼働する。朝の出荷までに数字を合わせなければ、十七人に遅延の連絡をすることになる。年末の贈りものの、遅延の連絡を。
同じ表を何度もスクロールしているうちに、数字が意味を失ってきた。三百十二、三百二十九、三百十二。里美は目を閉じ、また開いた。
「田中さん」
顔を上げると、通路にコートを着た武田が立っていた。肩に鞄を掛けている。帰るところだったのだろう。
「エレベーターを待ってたら、ここだけ電気が点いてたので」
「すみません、すぐ消します」
口が勝手にそう答えていた。武田は首を横に振り、里美の画面を覗き込みはしないで、少し離れたところから訊いた。
「何か、ずれてますか」
隠す理由もなかった。里美が説明するあいだ、武田は立ったまま聞いていた。聞き終えると、コートを脱いで隣の杏奈の椅子の背に掛けた。
「まず、数字を全部紙に出しましょう。画面の上だと、ずれは見えないから」
武田は鞄から手帳を出した。黒い革の表紙は角が擦れて、茶色い地が見えていた。後ろのほうの白紙の頁を開き、ボールペンで縦に線を引いて、表を作り始めた。左の列に日付。十一月二十日の発売日から今日まで。真ん中に倉庫の数、右にECの数。里美が読み上げる数字を、武田は一行ずつ書き込んでいった。字は小さく、角ばっていて、どの行も同じ高さにそろっていた。
「十一月二十日、倉庫、五百。EC、五百」
「五百、五百」
「二十一日、四百八十六、四百八十六」
二人の声のほかに、フロアには空調の音しかなかった。十一月いっぱいは、どの日も数字が一致していた。十二月一日、一致。二日、一致。
「三日。倉庫、四百五。EC、四百二十二」
武田のペンが止まった。
「ここですね」
十二月三日の行の横に、武田は小さな丸をつけた。
「この日、何か手作業で動かしたものはありませんか。返品とか、検品で弾いたとか」
里美は倉庫の作業記録を開いた。十二月三日、午前。湯のみの検品で欠けが見つかり、十七セット分を出荷不可に振り替えた記録があった。そして同じ日の午後、同じ振り替えがもう一度、別の担当者の名前で入力されていた。
「二回、入ってます」
「倉庫の表では、二回目を打ち消す修正が夕方に入ってますね。でも、ECとの連携は毎晩二時に一回だけで、振り替えと打ち消しが同じ晩に重なったから、両方とも弾かれてる」
「振り替えそのものが、こっちに届いてない」
武田はうなずき、手帳の丸の横に「二重入力/修正未連携」と書いた。
原因がわかっても、それで終わりではなかった。十七件の注文を、どの順に、どう扱うか。武田はそこには口を出さなかった。里美が十七件の注文日時を並べ、先に入った注文から順に倉庫の実在庫を割り当て、足りない分をどうするかを考えるあいだ、武田は席を立った。
十五分ほどして戻ってきたとき、手に一階のコンビニの袋を提げていた。中から、紙のカップのコーヒーが二つ出てきた。
「どっちがいいですか。片方は、ミルクだけ入れてもらいました」
「ミルクのほうを」
「そうだと思った」
里美が顔を上げると、武田は自分のブラックの蓋を開けながら言った。
「部会のとき、田中さん、いつもミルクを二つ持っていくので」
一度しか一緒に出たことのない部会だった。里美はカップを両手で包んだ。指先が温まっていくのがわかった。
十一時十分、十七件の処理が決まった。十二件は倉庫に在庫が戻った分で、明日の朝の出荷に間に合う。残りの五件は、湯のみの入荷が来週の水曜になるため、発送が四日遅れる。
「五件の方には、明日の朝いちばんに連絡します」
「それがいいと思います」
里美は倉庫部に送る報告の文面を書き始め、三行書いたところで手が止まった。二重入力をした担当者の名前が、記録に残っている。
「これ、名前を書いたほうがいいんでしょうか」
武田はコーヒーの残りを飲み干し、しばらく考えてから言った。
「僕なら、書かないかな。起きたことと、次から防ぐ方法だけ。振り替えの入力を、一日の終わりにダブルチェックする欄を作ってもらうとか。誰がやったかは、倉庫の中でわかってるはずだから」
里美は三行を消して、書き直した。
帰り支度をしているとき、武田は手帳の頁をそっと破り取って、里美に差し出した。日付と数字が並んだ、あの表だった。
「報告書に添付するなら。僕の字でよければ」
「武田さんの名前も、報告に入れていいですか。手伝っていただいたって」
「いや、それはいいです。見つけたのは田中さんだから」
「でも、紙に書こうって言ってくださらなかったら」
「僕は書き写しただけですよ」
武田はコートに腕を通した。それ以上、そのことについては何も言わなかった。
駅まで、二人で歩いた。十二月の夜の空気が、コーヒーで温まった喉に冷たかった。武田の住まいは里美とは反対方向の路線だった。改札の手前で、武田は立ち止まった。
「気をつけて。明日の朝、うまくいくといいですね」
それだけ言って、武田は自分のホームへの階段を下りていった。振り返らなかった。里美は改札を通ってから、コートのポケットの中で、折りたたんだ手帳の頁に指で触れた。角ばった、同じ高さにそろった数字。
一月の第二火曜日、十階の大会議室で、新ブランドの立ち上げ会議が開かれた。
ブランドの名前は「ひとてま」。木べらや、麻の布巾や、一人用の小さな土鍋や、手で挽く胡麻すりのような、暮らしの道具のシリーズだった。発売は四月二十二日。統括は武田で、ブランド戦略部、商品企画、物流、EC事業部から一人ずつが集められた。EC事業部からは、飯島課長の推薦で里美が入った。ECでのプロモーション担当だった。
スクリーンに映された工程表は、発売日から逆算して週ごとに区切られていた。一月第三週、商品撮影の段取り。第四週、ECの特設ページの構成案。二月の第二週までに撮影を終え、第三週に社内の確認。三月の第一週、先行予約の開始。どの週の欄にも、担当の名前と、期日と、確認する人の名前が入っていた。
里美が目を留めたのは、毎週火曜日の午後の欄だった。どの週も、そこだけが空白で、「予備」とだけ書かれている。
「火曜の午後は、何も入れないでおいてください」
武田が言った。
「何かが遅れたら、そこで吸収します。何も遅れなければ、各自、自分の仕事に使ってください。会議は入れません」
隣に座っていた商品企画の男性が、小声で「武田さんの予備が出た」と言った。からかうような口ぶりではなかった。前にも、この予備に救われたことがあるらしかった。
その予備が使われたのは、二月の最初の火曜日だった。
商品撮影を頼んでいたカメラマンが、前の仕事の延長で一日来られなくなった。その知らせが来たのが月曜の夜で、火曜の朝には、武田は撮影を火曜の午後に組み直していた。スタジオの予約を移し、商品企画から木べらと布巾の見本を運ぶ人を決め、里美には特設ページ用の横長の構図を、カメラマンに事前に送っておくよう頼んだ。午後二時、撮影は始まった。工程表の、二月第一週の欄の文字は、一つも動かなかった。
二月の半ばの水曜日、里美は昼休みに十階の休憩スペースで武田と一緒になった。特設ページの確認が長引いて、昼が一時を回っていた。
窓際のテーブルで、武田は弁当箱の蓋を開けた。黒い曲げわっぱの中に、卵焼きと、ほうれん草の胡麻和えと、鮭の焼いたのと、小さく握った雑穀のご飯が詰めてあった。卵焼きの断面が、きれいな渦を巻いていた。
「ご自分で?」
「日曜に、一週間分の下ごしらえをまとめてやるんです。朝は詰めるだけ」
里美は自分のコンビニのサンドイッチの包装をはがしながら、卵焼きの渦を見た。
「きれいですね」
「巻くのだけは得意で。一つ、どうですか」
武田は弁当箱を里美のほうへ少し押した。里美は箸を持っていなかった。武田は鞄から割り箸を一膳出した。弁当の包みの中に、いつも一膳入れておくのだという。卵焼きは甘くなく、出汁の味がした。
「田中さんは、週末は何を?」
武田が訊いた。この四か月で、仕事以外のことを訊かれたのは初めてだった。
「カメラを始めたんです。夏に、中古の一眼レフを買って。区の写真サークルにも入って、月に二回、みんなで撮りに行ってます」
「それで、あのとき」
「え?」
「十月に、エレベーターで。西からの光の話をしたら、田中さん、急に顔つきが変わったので。そうか、写真か」
武田は一人で納得したようにうなずき、それから本当に興味があるという顔をした。
「何か、見せてもらえますか。いやなら、いいですけど」
里美はスマートフォンを出し、一月の撮影会で撮った一枚を見せた。霜の降りた公園の芝生に、朝の日が斜めに差して、枯れた芝の一本一本に白い縁取りがついている写真。
武田は画面を受け取らず、里美の手の中の画面を覗き込むようにして、長く見た。
「朝の光だ」
「それしか撮ってないわけじゃないんですけど」
「いや、いいですね。寒そうで」
里美は笑った。寒そうだとほめられたのは初めてだった。
「武田さんは、週末は」
「週末というより、毎朝走ってます。五時半に起きて、家の近くの川沿いを八キロ。冬は真っ暗なうちに出て、戻ってくるころに明るくなる」
「毎朝ですか」
「雨の日以外は。走らないと、一日の順番がうまく決まらないんです。走りながら、今日やることを頭の中で並べて、帰ってから手帳に書く」
武田は胸ポケットの手帳に手を当てた。
「つまらない話でしょう」
「いえ」
里美は首を振った。本心だった。五時半の暗い川沿いを、一人で走っている男の人のことを思った。息が白くて、足音だけが続いていて、川の向こうの空が少しずつ明るくなっていく。
「今度、その川の朝を撮ってみたいです」
言ってから、里美は自分の言葉に慌てた。武田は驚いた顔をしなかった。
「五時半ですよ」
「無理ですね」
「無理だと思います」
二人とも笑った。武田は腕時計を見て、弁当箱の蓋を閉めた。一時四十分だった。
「二時から物流と打ち合わせなので。付き合わせてしまって、すみません」
武田は立ち上がり、曲げわっぱを包みに戻した。割り箸のことは何も言わず、里美の手に残したままだった。
三月十四日は土曜日だった。
「ひとてま」の先行予約は、三月三日に始まっていた。初日で百二十件、二週目に入って三百件を超え、特設ページの一人用の土鍋は、四月分の入荷予定数に近づいていた。その前日、十三日の金曜の夕方に、発売前の最終確認の会議があった。
会議が終わったのは六時半で、参加者がぞろぞろと会議室を出ていくなか、里美は資料を束ねていた。明日が三十一歳の誕生日だということは、朝、母から届いた「明日、何か送るね」というメッセージで思い出した。それから一日、思い出す暇もなかった。
「田中さん」
武田が、会議室の入口で振り返った。手に、小さな紙袋を提げていた。白い紙袋で、口が一度だけ折ってある。
「これ、よかったら」
「え」
「明日、誕生日だって聞いたので。西村さんから、先週」
杏奈の顔が浮かんだ。先週の給湯室で、来週の土曜が誕生日だと話したのを、杏奈はしっかり聞いていたらしい。
里美は紙袋を受け取り、中を覗いた。黒いゴムの球に細い筒のついたブロアーと、マイクロファイバーのクロスと、片方の先に刷毛のついたペン型のクリーナー。レンズ用のクリーニングセットだった。
「カメラをやってるって言ってたので。何がいいか、全然わからなくて、店の人に訊きました。もう持ってたら、予備にしてください」
「持ってないです」
声が詰まった。里美は紙袋を胸の前で持ち直した。
「眼鏡拭きで、拭いてました。レンズ」
「それは、たぶん、あまりよくないですね」
武田が真顔で言ったので、里美は笑ってしまった。笑ったら、目の奥が熱くなった。
武田は脇に挟んでいた手帳を持ち直した。そのとき、開いた頁の端がのぞいた。三月の見開きの、十四日の欄に、角ばった小さな字で「田中さん 誕生日」と書いてあった。先週の日付の欄には「西村さんより」とあり、その下に「カメラ レンズ用?」と、疑問符つきで書かれていた。
武田は手帳を閉じた。見られたことに気づいたのかどうか、わからなかった。
「おめでとうございます。月曜からも、よろしくお願いします」
武田はそう言って、会議室を出ていった。
一年前の三月十四日を、里美は帰りの電車の中で思い出していた。予約しておくと言っていた店に、予約は入っていなかった。健太は八時過ぎに帰ってきて、ごめん、忘れてた、と言った。それから二人で、霧雨のなかを角のコンビニまで歩いた。
あのとき、自分が何を言ったのかは覚えていない。たぶん、おいしいね、と言った。
部屋に帰ると、里美はコートを脱ぐ前に、棚の上のカメラを取った。レンズのキャップを外し、紙袋からブロアーを出した。説明書きの通りにレンズを下に向け、黒いゴムの球を握った。
しゅっ、と乾いた音がした。
もう一度握った。蛍光灯の光を映したレンズの面から、目に見えないほどの埃が落ちていった。里美はクロスを四つに折り、前玉の縁から中心へ、ゆっくりと円を描いた。拭き終えたレンズを覗くと、部屋の天井と、自分の顔が、小さく丸く逆さまに映っていた。




