第十章 違う絞り値
十月の第二日曜日、午前九時半。日暮里駅の北改札を出たところに、ひだまり写真会の九人が集まった。
久保さんが出席帳に丸をつけていき、最後に顔を上げて、改札のほうを見た。
「あら。時間通り」
改札を抜けてきたのは、黒いパーカーの若い男だった。背が高く、髪は寝癖なのか癖毛なのか、後ろのほうが一か所だけ跳ねている。肩から提げたカメラのストラップは、擦り切れたところに黒いビニールテープが巻いてあった。
「久保さん、それ、俺がいつも遅れてるみたいな言い方」
「いつも遅れてるでしょう」
男は笑って、森のほうに頭を下げた。
「森さん、お久しぶりです」
「来たね」
森は里美を振り返った。
「蒼井くん。前に、写真の講習会で知り合ってね。ときどき顔を出してくれる。こちらは田中さん、九月から」
「蒼井です。よろしくお願いします」
蒼井は里美のカメラに目をやり、それから黒い革のストラップに目を留めた。肩に当たる部分に、二つの文字が小さく刻印してあった。
「K、S」
「前の持ち主のイニシャルなんです。カメラ屋さんが、おまけにつけてくれて」
「へえ。じゃあ、そのストラップ、今は二人目の人生なんだ」
蒼井はそう言って、自分のテープの巻かれたストラップを指でつまんだ。
「俺のは三人目。前の二人とも、たぶん乱暴だった」
その日の題は「坂と路地」だった。一行は谷中銀座の商店街へ下りる石段、夕やけだんだんの上で最初に足を止めた。
石段の上からは、商店街の屋根の連なりと、その上に広がる空が見えた。雲が薄く流れていて、日差しは強かった。里美はファインダーを覗き、屋根と空を半分ずつ入れて、シャッターを切った。画面で確かめると、空は白く、屋根ばかりが暗く沈んでいた。
「今の設定だと白飛びしちゃうかも」
声は横からだった。蒼井が、里美の画面を覗き込むでもなく、石段の手すりに片肘をついて、同じ空を見上げていた。
「露出補正をマイナスに振ってみると、空の青がもっと深く出ますよ」
「露出補正」
里美は親指で本体の上のダイヤルを探した。説明書の、前の持ち主が角を深く折っていた頁のことを思い出した。あの頁だ、と思った。
「そこ。それを左に、二つくらい」
言われた通りに回して、もう一度撮った。画面の中で、空に色が戻っていた。雲の縁が見えた。屋根はさっきよりも暗くなったが、その暗さの中に、瓦の線が一本ずつ浮いていた。
「あ」
「ね」
蒼井は、自分が撮ったみたいにうれしそうな顔をした。
「前の持ち主の人も、そこ、よく回してたんじゃないかな。ダイヤルの刻み、そこだけ擦れてる」
里美は手の中のカメラを見た。言われてみれば、ダイヤルのマイナスの側の二つ目の刻みのあたりだけ、黒い塗装が薄くなっていた。
商店街を抜けて、細い路地に入った。古い木造の家と、新しい集合住宅とが、一軒おきくらいに並んでいる。一軒の家の玄関先に、発泡スチロールの箱を鉢がわりにした植木があり、白い秋明菊が五、六輪、風に揺れていた。その家のすぐ裏に、十階建てほどの真新しいマンションが建っていて、ベランダの手すりが同じ間隔で上まで続いていた。
里美は花の前にしゃがみかけて、やめた。後ずさりして、路地の反対側の塀に背中がつくところまで下がった。そこからファインダーを覗くと、白い花が画面の下のほうに小さく入り、その上に、手すりの線がどこまでも積み重なっていた。
シャッターを切ったとき、後ろで足音が止まった。
「面白い構図ですね」
蒼井が塀の角のところに立っていた。
「普通この花を撮るときはもっと寄るけど、あえて引きで背景のビルを入れるんだ」
里美は振り返って、少し困った顔をした。
「寄ると、花の写真にしかならなかったので。前に、森さんに言われて。どこに立ったかだよって」
蒼井は声を出して笑った。
「それ、俺も言われた。二十歳のとき。最初の撮影会で、猫ばっかり撮ってたら」
蒼井は里美の横に来て、同じ塀に背中をつけ、同じ花と同じマンションを見た。
「花が、ビルのこと見上げてるみたいだ。見せてもらっていいですか」
里美は画面を差し出した。蒼井は画面に顔を近づけ、しばらく何も言わなかった。
「右の端、電線が一本、ちょっとだけ入ってるでしょ。それ、たぶん、わざとじゃないですよね」
「わざとじゃないです」
「残しといたほうがいいと思う。わざとじゃないのが、いい」
十二時に、一行は根津寄りの古い喫茶店の二階に上がった。講評会のあいだ、蒼井は誰の写真にも同じくらいの時間をかけて見入り、塩谷さんの萩の写真には「これ、どこですか、俺も行きたい」と本気で訊いた。蒼井の番が来ると、みんなが身を乗り出した。回ってきた画面には、石段に座り込んだ老人の、ズボンの裾から見える靴下の柄だけが写っていた。
久保さんがコーヒーのお代わりを頼みながら、里美に耳打ちした。
「町会の掲示板のチラシ、見たでしょ。あの猫、蒼井くんが撮ったのよ」
石段で丸くなっていた三毛猫。背中にだけ日が当たって、毛の一本一本が光っていた写真。里美は向かいの席の蒼井を見た。蒼井は塩谷さんと、萩の咲いている寺の場所の話を続けていた。
十一月の第四日曜日は、六義園の紅葉だった。集合は駒込駅に九時半。
蒼井は来なかった。森が入園券を人数分まとめて買い、一行は庭園に入った。池のまわりの楓は、赤くなりきったものと、まだ黄色の残るものとが入り混じっていた。十時を過ぎても、蒼井は来なかった。
十時十分、池の端の石灯籠のところで、久保さんの携帯電話が鳴った。
「今どこ。……正門? 入ってらっしゃい、入園券は自分で買って」
五分後、蒼井が早足で小道をやってきた。パーカーの上にダウンを羽織り、目の下が黒ずんで、髪は朝よりもさらにひどく跳ねていた。
「すみません。四十分」
「四十分よ」
久保さんは腕を組んだ。
「夏の花火のときは一時間。先月は時間通りで、ほめてあげたのに」
「昨日の夜、納品で。朝の六時に送って、目覚まし三つかけたんですけど、三つとも止めたらしくて」
「らしくて、じゃないの」
久保さんはそう言いながら、自分の鞄からアルミホイルの包みを出し、蒼井の手に押しつけた。
「梅干し。食べてから撮りなさい」
蒼井はおにぎりを三口で食べた。それから、何も言わずに池の縁のほうへ歩いていった。
里美が次に蒼井を見たのは、二十分ほど後だった。池の端の、水面すれすれに張り出した岩の上に、蒼井は片膝をついてしゃがみ、カメラを構えたまま動かずにいた。対岸の楓が水に映っている。風が吹くたびに、水面の赤が崩れて、細かい波紋に砕けた。蒼井はそのたびにカメラを下ろさず、ただ待っていた。
一行は次の見どころへ移っていった。里美は残った。蒼井から三メートルほど離れた石の上に腰を下ろし、同じ水面にカメラを向けた。
風が止んだ。水面の赤が、ゆっくりと形を取り戻した。楓の枝の一本一本が、逆さまに、はっきりと水の中に現れた。
蒼井のシャッターが一度鳴った。里美も押した。
「今の、撮れました?」
蒼井が、はじめて里美のほうを見た。
「たぶん」
「俺も、たぶん」
蒼井は岩から立ち上がり、膝についた苔を払った。ジーンズの膝が濡れて、色が変わっていた。三十分近く、そこにいたことになる。
講評会が終わり、一行は駒込駅で解散した。里美が改札に向かおうとすると、蒼井が「田中さん、どっちですか」と訊いた。乗り換えの駅まで、二人は同じ電車だった。
「一駅、歩きません? 座ってると寝ちゃいそうで」
駒込から巣鴨まで、線路沿いの道を歩いた。午後三時の日差しが、もう傾きはじめていた。
「さっきの、ずっと待ってたの。風が止むの」
「待つのだけは得意なんです。遅刻はするけど」
蒼井は自分で言って笑った。
「実家が、写真館で。長野の北のほうの、小さい町の。蒼井写真館っていう、そのまんまの名前の」
里美は横を歩く蒼井を見た。
「親父が一人でやってて。七五三と、入学式と、成人式と、あとは、遺影。町の人の、ほとんど全部の節目を、親父が撮ってる。ショーウィンドウに、もう四十年以上、同じ花嫁さんの写真が飾ってあって。小学生のとき、あの人は誰なのって訊いたら、知らないって言われた。前の店主の頃からあるって」
蒼井は線路の向こうの、フェンス越しの空を見上げた。
「撮影のとき、親父、大きいカメラの後ろで黒い布かぶって、ずっと待つんです。子どもが泣きやむのを。子どもがこっちを見るのを。十分でも二十分でも。俺、あれを見て育ったから」
「だから、待てるんだ」
「そうなのかな。親父は、俺に店を継いでほしかったと思う。でも、俺は東京に出て、デザインの学校に入って、写真じゃない仕事で食ってる。まあ、食えてるって言っていいのか、微妙だけど」
歩道橋の階段の手前で、蒼井は立ち止まった。
「三崎って、行ったことあります? 三浦半島の先の」
「ないです」
「古い漁港があって。市場の建物とか、船の錆とか、魚を運ぶ台車とか。写真で見たことしかないんだけど、いつか、ちゃんと撮りたくて。もう五年くらい、行こうとしてるんです。そのたびに、前の晩に仕事が入る」
「前の晩に、仕事を入れなければ」
里美が言うと、蒼井は目を丸くして、それから声を上げて笑った。
「田中さん、正しいこと言いますね」
巣鴨の駅が見えてきた。蒼井はダウンのポケットに両手を入れ、欠伸を噛み殺した。
二月の第三土曜日、里美は一人で高円寺に行った。
古本屋の脇の細い階段を上がった二階に、そのギャラリーはあった。白い壁の、教室の半分ほどの広さの部屋で、入口の紙には手書きで「五人の冬」とあった。蒼井からの案内は、一月の撮影会で渡された葉書一枚だった。
受付の机に座っていた四十代くらいの女性が、里美を見て「どうぞ」と言った。
「蒼井くんのお知り合い? ごめんなさいね、今日は在廊するって言ってたのに、まだ来てないの。本人が言ったのにね」
女性は須田と名乗り、このギャラリーの持ち主だと言った。
蒼井の写真は、奥の壁に六枚並んでいた。題は「町」。
一枚目は、雪の夜の、明かりのついたショーウィンドウだった。ガラスの向こうに、色の褪せた花嫁の写真が一枚、額に入って立てかけてある。ガラスの表面に、道の向こうの街灯と、降っている雪が映り込んでいた。
二枚目は、シャッターの下りた商店が並ぶ通り。三枚目は、屋根から落ちた雪の塊。四枚目は、雪に埋もれた郵便ポストの赤い頭。
五枚目の前で、里美は足を止めた。
薄暗い部屋の中に、灰色の布の背景が吊ってあり、その手前に、木の三脚に載った大きな蛇腹のカメラがあった。カメラの後ろで、黒い布をかぶった人が、腰をかがめている。顔は見えない。布の下から出た手が、カメラの側面のつまみにかかっている。手の甲に、染みがいくつか浮いていた。背景の布の前の椅子には、誰も座っていなかった。
里美はその写真の前に、長いこと立っていた。須田さんが一度、後ろを通っていった。
「それ、いいでしょう」
振り返ると、蒼井が入口に立っていた。肩が雨で濡れていて、手にコンビニの袋を提げていた。袋の中で、肉まんの紙の包みが透けていた。
「来てくれたんだ」
「今日、いるって書いてあったから」
「いるって書いたんです。いるつもりだったんです」
須田さんが受付の机から「二時って言ったのよ、二時」と声をかけた。壁の時計は三時十分だった。
蒼井が肉まんを一つ差し出し、二人で受付の横のパイプ椅子に座って食べた。そのあいだに、蒼井の携帯電話が二度鳴った。一度目は出なかった。二度目に出て、椅子から立ち、窓際で背中を向けた。
「はい。……はい、すみません。来週の金曜には、必ず。……はい、入金があり次第」
電話を切って戻ってくると、蒼井は肉まんの残りを口に入れ、しばらく噛んでいた。
「プリント屋さん。額装の分の請求、先月のがまだで」
「大丈夫なの」
「取引先の入金が、月末から、来月末にずれちゃって。よくあるんです。よくあっちゃだめなんだけど」
蒼井は紙の包みを小さく畳んだ。
「額も、部屋で自分で組んだんですよ。マットの切れ端が床じゅうに散らばってて、今、床が見えてるの、玄関と布団の上だけ」
里美は笑ったが、蒼井の指先に、カッターでつけたらしい細い傷が二本あるのに気づいた。
「あの、五枚目。お父さん?」
蒼井は壁のほうを見た。
「去年の正月に帰ったとき、撮りました。親父、撮られるの嫌いだから、黒い布かぶってるときしか撮れなくて」
「椅子が、空いてる」
「撮る相手がいなかったんです。正月だから、お客さん来なくて。でも親父、毎朝ああやって、ピントだけ合わせるんですよ。誰も座ってない椅子に」
「田中さんは? 最近、何撮ってるんですか」
里美はカメラの画面を点けて、一月の朝の公園で撮った、霜の芝生の写真を見せた。蒼井は画面を受け取ると、首を傾けて、自分のカメラのように何度も前後に送った。三枚前の、霜の上に残った誰かの靴跡の写真で、指が止まった。
「こっちのほうが好きだな、俺」
「それ、失敗したと思って消しそびれたやつ」
「失敗したやつ、消さないでくださいね。一年くらいたってから見ると、だいたいそっちがいいから」
須田さんが受付から「それ、蒼井くんが言っても説得力ないわよ。この人、失敗したのを全部床に積んでるだけだから」と言い、蒼井は、積んでるんじゃなくて置いてるんです、と言い返した。
帰りぎわ、階段の上まで蒼井が見送りに出てきた。下の古本屋の軒先から、雨の音がしていた。
「里美さん、今日、来てくれて、ありがとう」
里美は階段の二段目で振り返った。
蒼井は、あ、という顔をした。
「すみません。なんか、田中さんって呼ぶの、ずっと、出席帳を読み上げてるみたいだなって思ってて。いやだったら、戻します」
「いやじゃない」
里美はそう言って、階段を下りた。古本屋の軒先で傘を開くとき、上を見ると、蒼井はまだ階段の上に立っていて、濡れた肩のまま、手を一度だけ振った。
三月の第四日曜日は、石神井公園の梅の終わりと、早咲きの桜だった。
講評会のあと、ボート乗り場の前で解散になりかけたとき、久保さんが里美の腕をつかんだ。
「そうだ、忘れてた。里美さん、先週だったんでしょ、お誕生日。三十一。おめでとう」
前の撮影会のとき、来週が誕生日だと久保さんに話したのを、里美も忘れていた。塩谷さんが「おめでとう」と言い、岩田くんが拍手をした。森はうなずいた。
少し離れたところで三脚をたたんでいた蒼井が、手を止めた。
「え。いつ」
「十四日」
蒼井は三脚を持ったまま、数を数えるように目を動かした。
「先週の、土曜……ごめん。知らなかった」
「言ってないもの」
「そうだけど」
蒼井はそれ以上何も言わなかった。三脚の脚を一本ずつ縮め、ケースにしまい、ファスナーを最後まで閉めた。前の撮影会を、蒼井は寝坊で休んでいた。
四日後の木曜日の夜、蒼井からメッセージが来た。今夜、里美さんの駅の近くを通るので、五分だけいいですか、とあった。
九時過ぎ、駅前のロータリーのバス停の屋根の下で、蒼井は待っていた。今度は、遅れなかった。手に、大判の茶封筒を持っていた。
「これ。遅くなったけど」
封筒の中には、厚手の紙に焼かれたプリントが一枚入っていた。里美はバス停の蛍光灯の下で、それを引き出した。
手だった。カメラを握った、里美の手。右手の人差し指がシャッターボタンの上で止まり、親指が露出補正のダイヤルにかかっている。指の関節が寒さで赤くなっていた。手首のところに、黒い革のストラップが掛かっていて、刻印の「K、S」が、半分だけ見えていた。背景は、赤い色がぼんやりと溶けているだけだった。
「六義園の。池のとこで、風待ってたとき」
「いつの間に」
「里美さんが、水面ばっかり見てたから」
蒼井はダウンのポケットに手を入れた。
「今年、何かあげられるものって考えたら、それしか持ってなくて。ほんとにごめん」
里美はプリントを封筒に戻さずに、両手で持ったままでいた。
バスが一台、ロータリーに入ってきて、誰も降ろさずに出ていった。
「そういえば」
蒼井がバスの尾灯を目で追いながら言った。
「親父から、葉書が来て。六月で、店を閉めるって」
里美は顔を上げた。
「写真館?」
「うん。親父、葉書しか書かないんです、電話が嫌いで。六月末で閉めます、片付けを手伝えるなら、手伝ってください、って。それだけ。二行」
蒼井は笑おうとして、うまく笑えていなかった。
「六月に、二週間くらい帰ることになると思う。あのショーウィンドウの花嫁さん、どうするんだろうな」
蒼井が改札のほうへ歩いていくのを、里美はバス停の屋根の下から見ていた。改札の手前で一度振り返り、蒼井は手を上げた。
里美はもう一度、プリントを蛍光灯にかざした。裏返すと、隅に鉛筆で、小さな字が書いてあった。
――十一月二十三日 六義園 里美さんの手




