第十一章 二つの告白
四月二十二日、水曜日の朝九時四十分。EC事業部の島の端にある小会議室には、モニターが二台と、誰かが差し入れた個包装の最中が一箱置かれていた。
里美は販売管理画面を開いたまま、何度目かの確認をしていた。商品ページが十二、特集ページが一、メールマガジンの配信予約が十時ちょうど。「ひとてま」の文字は、昨夜の最終確認のあとでもう一度見直した。栗の木のしゃもじの写真の、木目の出方が気になって、深夜一時に色味を調整し直したのは自分だけの秘密だった。
「田中さん、お茶いります?」
杏奈が紙コップを二つ持って入ってきた。里美は首を振りかけて、それから受け取った。指先が冷たかった。
「杏奈ちゃん、手、あったかいね」
「田中さんが冷たいんですよ。大丈夫ですって。あれだけ準備したんですから」
ドアが開いて、飯島課長が顔を出した。腕を組んだまま画面を覗き込み、何も言わずに壁際の椅子に座った。そのあとから武田が入ってきた。紺のカーディガンに、いつもの黒い革の手帳を抱えていた。
「おはよう。配信、予約通り?」
「はい。十時ちょうどです」
「じゃあ、あとは待つだけだね」
武田はそう言って、里美の斜め後ろに立った。近すぎず、画面は見える位置だった。里美はその距離に、なぜか呼吸が楽になるのを感じた。
九時五十九分から十時までの一分が、ひどく長かった。杏奈が小声で数を数え始め、飯島課長が咳払いをした。十時。配信完了の表示が出た。
最初の注文が入ったのは十時二分だった。琺瑯の片手鍋、一点。続いて竹の盛りかご、しゃもじ、しゃもじ、片手鍋。画面の数字が、更新ボタンを押すたびに変わった。
「来てる、来てますよ」
杏奈が里美の肩を叩いた。里美は数字から目を離せなかった。十一時の時点で、初日目標の四割に届いていた。
昼を過ぎても勢いは落ちなかった。午後三時、しゃもじが在庫の半分を切り、里美は倉庫の担当者に電話をかけた。十二月の在庫トラブルのとき、夜のオフィスで武田と二人、手帳の頁に書き写した数字を一行ずつ突き合わせた記憶があった。あのとき作った連携の確認表を開き、数字がずれていないことを確かめてから受話器を置いた。
夜八時。初日の売上は目標の百三十八パーセントで締まった。
飯島課長が立ち上がり、画面を見て、それから里美を見た。
「田中さん。特集ページの、あの手元の写真。あれ、誰の案?」
「私です。お客さまが実際に使っている手を撮りたくて」
「そうか」
課長はそれだけ言って部屋を出ていった。杏奈が口を押さえて笑いをこらえ、里美の袖を引っ張った。
「今の、褒めてますよ。課長が『そうか』って言うの、最上級ですから」
武田は手帳を開いて、何かを書き込んでいた。里美が見ると、彼は手帳を閉じて顔を上げた。
「お疲れさま、田中さん。いい初日だった」
打ち上げは金曜の夜、会社から歩いて五分の居酒屋の奥座敷だった。ブランド戦略部とEC事業部、物流の担当者まで入れて十四人。乾杯の音頭を取った飯島課長が、途中で言葉に詰まって「まあ、とにかく、よかった」と締め、座敷が笑いで揺れた。
里美は端の席で、杏奈と物流の若い男性に挟まれていた。武田は反対側の端で、部長の話に相槌を打っていた。ときどき、ジョッキ越しに目が合った。武田は一度だけ、グラスを持ち上げて見せた。
九時半にお開きになり、店の前で二次会に行く組と帰る組に分かれた。杏奈は二次会組に引っ張られていき、振り返って手を振った。里美が駅の方へ歩き出すと、後ろから足音が追いついてきた。
「田中さん」
武田だった。上着を腕にかけ、いつもより頬に赤みがあった。
「来週の火曜、空いてるかな。食事に付き合ってほしい。二人で」
「打ち上げの、続きですか」
「いや」
武田は言葉を選ぶように一度口を閉じた。
「仕事の話は、しないつもりでいる」
里美は返事をする前に、自分の手帳アプリを開きかけて、やめた。空いていることはわかっていた。
「空いてます」
「よかった。店は僕が予約しておく。七時でいいかな」
「はい」
武田は頷いて、その場で手帳を取り出し、街灯の下で何かを書いた。書き終えてから、自分の手元を見て、困ったように笑った。
「癖なんだ。すぐ書く」
翌週の火曜日、四月二十八日。武田が予約していたのは、神楽坂の坂を一本入った路地にある小さなビストロだった。カウンターが六席とテーブルが三つ。壁には額に入った古い地図が一枚かかっているだけで、照明は手元に落ちるように低かった。
前菜は春キャベツと蛤の蒸し煮で、武田は白ワインを一杯だけ頼んだ。里美も同じものにした。
仕事の話はしない、と言った通り、武田はひとてまの数字に一度も触れなかった。代わりに、朝走っている川沿いの道の話をした。桜が終わって、葉桜になってからの方が走りやすいこと。毎朝同じ時間にすれ違う、柴犬を連れた老人がいること。
「最近は、向こうから会釈してくれるようになった。一年かかったよ」
「一年、毎朝ですか」
「雨の日以外は」
里美は笑った。武田も笑った。彼がこんなふうに自分の生活の細かいことを話すのを、里美は初めて聞いた気がした。
主菜の子羊が下げられ、店の人がデザートの皿を置いて離れていったとき、武田はワイングラスをテーブルの端に寄せた。グラスの脚から指を離し、両手を膝の上に置いた。
「田中さん」
里美はフォークを置いた。
「君のことが好きだ」
店の奥で、誰かが皿を重ねる音がした。
「仕事仲間として尊敬しているだけじゃない。一人の女性として、君に惹かれている。もしよかったら、僕と付き合ってくれないか」
武田の声は、会議で数字を読み上げるときと同じ高さだった。けれど、膝の上の手が、一度だけ握り直されたのを里美は見た。
何か言わなければ、と思った。口を開くと、言葉より先に息が出た。
「……いつから、ですか」
自分でも、なぜそれを最初に聞いたのかわからなかった。武田は目を伏せて、少し考えた。
「はっきり自覚したのは、十二月の夜かな。在庫の数字を二人で追いかけてたとき。君が、倉庫の記録に二重の入力を見つけて、『二回、入ってます』って言った声。あれを聞いて、ああ、困ったな、と思った」
「困った、んですか」
「同じ会社だから。君の仕事の邪魔にはなりたくなかった。だから、ひとてまが出るまでは言わないと決めてた」
武田はそこで顔を上げた。
「返事は急がなくていい。今夜じゃなくていいし、来週じゃなくてもいい。断られても、月曜からの仕事は何も変えない。それは約束する」
里美は膝の上でナプキンを折り畳んだ。一度、二度。角がきちんと合うまで。
「少し、時間をください」
「うん」
武田はそれ以上何も言わず、デザートのスプーンを取った。
「このタルト、ここの名物なんだ。食べよう」
店を出ると、坂の上から夜風が下りてきた。武田は駅の改札まで送り、そこで立ち止まった。
「気をつけて」
「武田さんも」
改札を抜けて振り返ると、武田はまだそこに立っていた。手を上げるでもなく、ただ見送っていた。里美が階段を下り始めるまで、彼は動かなかった。
乗り換えた私鉄の電車は、火曜の夜にしては空いていた。里美はドアの横に立ち、窓に映る自分の顔を見た。口紅が、食事で半分落ちていた。
鞄の中でスマートフォンが震えた。武田からだった。
『今日はありがとう。遅くまで付き合わせてごめん。ゆっくり休んで』
絵文字も、次の約束もなかった。里美は画面を見たまま、返信の欄に指を置いた。『こちらこそ』と打って、消した。『ごちそうさまでした』と打って、また消した。
窓の外を、見慣れた駅がいくつも過ぎた。里美は、武田の手帳の四月二十八日の欄を思い浮かべた。そこに何が書かれているのか、書かれていないのか。
最寄り駅の一つ手前で、里美はようやく送信した。
『ごちそうさまでした。タルト、おいしかったです』
既読はすぐについた。返信は来なかった。里美は、それが彼らしいと思った。
翌朝、里美はいつもより早く目が覚めた。枕元のスマートフォンには、新しい通知は何もなかった。昨夜のやりとりが、画面のいちばん上に残っているだけだった。顔を洗い、カメラの電池を充電器から外し、予備の電池と一緒に鞄に入れた。玄関で靴を履きながら、今日は誰にも昨夜のことを話さない、と決めた。話す相手もいなかったし、話せば、それが本当に起きたことになる気がした。
その祝日、ひだまり写真会は根津神社のつつじを撮りに行った。斜面一面の赤や薄紫の株のあいだを、会員たちが三脚を抱えて歩き回った。森はいつものように、ほとんど指示をしなかった。
蒼井はその日、集合時間の五分前に来た。久保さんが目を丸くした。
「あら、雪でも降るんじゃない」
「降ったら撮ります」
休憩は境内の外れのベンチだった。久保さんが大きな保冷バッグから、ラップで包んだおにぎりを配って回った。
「蒼井くん、二個持っていきなさい。痩せたんじゃない?」
「そうですか? 自覚ないけどな」
蒼井はおにぎりを二つ受け取って、里美の隣に座った。レンズキャップを指先で回しながら、一個目を三口で食べた。
「里美さん、聞いてくださいよ」
「なに?」
「俺、クビになりました」
蒼井は笑いながら言った。里美はおにぎりを持った手を止めた。
「クビって」
「いや、フリーにクビってあるのか知らないですけど。一番仕事くれてた制作会社があって。そこの担当の人が異動になって、新しい人が、社内のデザイナーで回すことにしたんですって。先週、電話一本で」
「一番、って、どのくらい」
「売上の、七割くらいかな」
蒼井はまた笑った。笑い声だけが先に出て、顔がついてこなかった。レンズキャップが指から落ちて、砂利の上を転がった。蒼井はそれを拾い、ジーンズで拭いた。
「まあ、これで撮影会に遅刻しなくなりますよ。夜中まで納品に追われることもないし」
「蒼井くん」
「いや、ほんと、大丈夫です。小さい仕事はほかにもあるし。前にも一回、こういうのありましたから」
そう言って、蒼井は二個目のおにぎりの包みを開けた。けれど口には運ばず、膝の上に置いたままだった。
里美は、何を言えばいいのかわからなかった。大丈夫、とは言えなかった。蒼井の家賃がいくらなのかも、貯金があるのかも、里美は知らなかった。
「……今日の、つつじ。何枚撮った?」
蒼井は里美の顔を見た。それから、やっと本当に笑った。
「二百枚くらい。全部だめです」
「全部?」
「全部。今日、なんか、どこに立っても落ち着かなくて」
森がベンチの向こうから手を叩き、休憩の終わりを告げた。蒼井は立ち上がり、膝の上のおにぎりを上着のポケットに押し込んだ。
五月四日、みどりの日。ひだまり写真会の夕景撮影会は、稲村ヶ崎だった。
集合は午後四時、海沿いを走る小さな電車の駅の改札前。里美が十分前に着くと、蒼井はもう来ていて、改札の横の柵に寄りかかっていた。
「一番乗りです」
「二回続けて?」
「二回続けて」
蒼井は得意そうに言ったが、目の下にうっすらと影があった。昨夜は遅くまで起きていたのだろう、と里美は思った。仕事なのか、仕事を探していたのか。聞かなかった。
参加者は九人。森を先頭に、住宅街の坂を下りて海沿いの道路を渡った。連休の海岸は人が多く、砂浜には家族連れやサーフボードを抱えた若者が行き交っていた。岬の公園の芝生に三脚を立てると、左手に江の島、その向こうに雲をまとった富士山の稜線が見えた。
「日の入りは六時三十二分。それまで好きにしなさい」
森はそう言って、自分は三脚も立てずに、岩場の方へ歩いていった。
里美は波打ち際まで下りた。砂が靴の中に入った。露出を決め、江の島のシルエットを画面の端に置いて、何枚か撮った。波が引くたびに、濡れた砂が空の色を映した。
五時半を過ぎると、空の色が変わり始めた。薄い水色だった空に、下の方から橙が滲んでくる。雲の縁が金色に光り、それがだんだん赤くなっていった。
「里美さん」
気づくと、蒼井が隣にいた。自分のカメラを首から下げ、里美の液晶画面を覗き込んだ。
「露出、もうちょっと下げてもいいかも。この空、明るく撮ると色が抜けるから」
里美はダイヤルを回した。画面の中の空が、深い赤に沈んだ。
「ほんとだ」
「でしょ」
蒼井は自分のカメラを構え、しばらく黙ってシャッターを切っていた。里美も撮った。太陽が水平線に近づくにつれ、空全体が燃えるような色になった。海も、砂も、周りの人の顔も、同じ色に染まった。
里美はファインダーを覗いたまま、波の形が一番きれいに崩れる瞬間を待っていた。三度、待って、三度とも逃した。四度目に指を下ろしかけたとき、隣でカメラのストラップが揺れる音がした。
蒼井がカメラを下ろしていた。
里美はファインダーから目を離した。蒼井は海ではなく、里美を見ていた。
「里美さん」
夕焼けの光が、蒼井の顔の半分を照らしていた。
「俺、里美さんが好きです」
波の音が、急に大きく聞こえた。
「ファインダーを覗いてる時の、あの真剣な目が、どうしようもなく好きだ。俺と、付き合ってください」
言い終わってから、蒼井は自分の口を手で押さえた。目が大きく見開かれていた。
「あ、いや、待って。今のは」
蒼井は手を下ろし、一歩下がり、また一歩戻った。
「今言うつもりじゃなかったんです。ほんとに。もっとちゃんと、なんか、ちゃんとした場所で、ちゃんと考えてから言おうと思ってて。でも今、里美さんが、波待ってる顔見てたら、口が勝手に」
言いながら、蒼井の顔は夕焼けとは別の色で赤くなっていった。
「最悪だ。撮影会の最中に。森さんに怒られる」
里美は笑いそうになった。笑ったら、蒼井が傷つくと思ってこらえた。こらえていると、胸の奥が熱くなってきた。
カメラを握る手に、力が入っていた。里美はストラップを首から外し、両手でカメラを持ち直した。
言わなければならないことがあった。六日前、神楽坂のビストロで、同じ言葉を聞いたこと。まだ返事をしていないこと。
言えば、蒼井はどんな顔をするだろう。言わなければ、自分はどんな顔で彼の前に立ち続けることになるだろう。
里美は口を開き、閉じた。武田の名前を、この夕焼けの中に置くことができなかった。それは武田に対しても、蒼井に対しても、違う気がした。
「蒼井くん」
「はい」
「ありがとう。すごく、驚いた」
「ですよね。すみません」
「謝らないで」
里美はカメラを胸に抱えた。
「考えさせてほしい。ほかにも、ちゃんと向き合わなきゃいけないことがあって。それを放り出したまま、返事はできない」
蒼井は里美の顔をじっと見た。何か聞きたそうに唇が動いたが、言葉にはならなかった。やがて、蒼井はゆっくり頷いた。
「待ちます」
「……」
「何週間でも。俺、待つの苦手ですけど。遅刻ばっかりしてるから、待たせる方しか知らないけど」
蒼井はそこで初めて、照れたように笑った。
「待ちます」
太陽が水平線の向こうに沈んだ。空の赤は一瞬強くなり、それから紫に変わっていった。岬の上から、久保さんの声が聞こえた。
「蒼井くーん、里美さーん。森さんが集合だって」
二人は同時に振り返った。
「はーい」
蒼井は大きな声で返事をして、三脚を担ぎ上げた。
帰りの電車で、蒼井は乗り換えの駅まで一緒だった。森と久保さんが向かいの席にいて、蒼井は久保さんに新しい仕事の当てがあるのかと聞かれ、ぼちぼちです、と答えていた。里美とはほとんど話さなかった。乗り換えの駅で電車が止まると、蒼井は立ち上がった。
「おやすみなさい」
それだけ言って、蒼井は振り返らずにホームの人混みに消えた。
その夜、里美は眠れなかった。
十二時に布団に入り、一時に起き上がった。台所で水を一杯飲み、居間の電気はつけずに、机のスタンドだけをつけた。
カメラの電源を入れた。液晶画面の明かりが、暗い部屋に四角く浮かんだ。
今日の写真を、最初から送っていった。改札前の柵に寄りかかる蒼井の後ろ姿。住宅街の坂道。海沿いの道路を渡る森の白い帽子。岬の芝生。江の島のシルエット。露出を下げてからの、深い赤い空。
波を待っていた四枚目。そこで写真は途切れていた。シャッターを切らなかったのだ。その次の一枚は、ずっとあとの、紫色の空だった。いつ撮ったのか覚えていなかった。ピントがどこにも合っておらず、水平線が斜めに傾いていた。
里美はさらに前へ戻った。根津神社のつつじ。ベンチでおにぎりを持つ久保さんの手。蒼井のレンズキャップが砂利の上に転がっている一枚。こんなものを撮っていたことも忘れていた。
もっと前へ。ひとてま発売日の夜、オフィスの窓から撮った街の灯り。打ち上げの座敷で、杏奈に「撮ってください」とせがまれて撮った集合写真。端の方で、武田がジョッキを持ち上げていた。一人だけ、カメラの方ではなく、少し横を見ていた。里美のいる方だった。
里美は画面を消した。
机の棚に、三月に武田からもらったレンズのクリーニングセットが、白い紙袋から出したまま並べてあった。黒いゴム球のブロアーと、刷毛のついたペンと、柔らかい布。その横の壁には、三月の末に蒼井がくれたプリントが画鋲で留めてあった。カメラを持つ里美の手元だけを撮った一枚。指の関節に、スタンドの光が当たっていた。
里美はブロアーを手に取った。カメラからレンズを外し、ブロアーのゴム球を握った。しゅっ、と乾いた音がして、見えない埃が飛んでいった。もう一度。もう一度。
刷毛で縁をなぞり、布を四つに折って、レンズの表面を中心から外へ円を描いて拭いた。汚れていたわけではなかった。昨日も同じことをしていた。
拭き終えたレンズをスタンドの光にかざすと、表面に、小さく曲がった机と、壁のプリントと、自分の顔が映っていた。
時計は二時四十分を指していた。里美はレンズをカメラに戻さず、手のひらに載せたまま、しばらくその重さを量っていた。




