第十二章 それぞれの部屋
五月九日、土曜日の午前十時。真由の家から歩いて五分の児童公園は、砂場と滑り台とブランコが二つあるだけの小さな公園だった。
ひなたは黄色い長靴で砂場に入り、プラスチックのバケツに砂を詰めては、ひっくり返していた。うまく形が残るたびに振り返って叫んだ。
「ママ、みて」
「すごいねえ」
真由が手を叩くたびに、里美との会話は途切れた。
「で、二人とも」
真由はベンチに座り直し、水筒の麦茶を里美に渡した。
「二人とも。一週間で」
「正確には、六日」
「細かいな、相変わらず」
真由は笑いかけて、ひなたの方を見た。ひなたが砂を口に入れそうになっていた。
「ひなた、お口はだめ。……で、あんた、どっちにも返事してないの」
「してない」
「武田さんって、あの、ひとてまの人でしょ。三十三で、シニアマネージャーで、料理できて、毎朝走ってる」
「なんでそんなに覚えてるの」
「あんたが去年の暮れから、三十回くらい話してるから」
里美は麦茶の蓋を閉めた。真由は膝の上で腕を組んだ。
「普通に考えたら武田さんでしょ。三十一だよ?」
「年齢の話?」
「年齢の話だよ。ごめんね、こういうこと言う友だちで。でもさ、蒼井くん、いい子なのはわかるよ。あんたの手の写真、あたしも見たし。あれはいい写真だった。でも、仕事切られたばっかりなんでしょ。来月の家賃がどうなるか分かんない人と、あんた、何年も付き合っていける?」
里美は答えなかった。砂場で、ひなたのバケツがまた崩れた。ひなたは泣きそうな顔をして、それから黙って砂を詰め直し始めた。
「七年だよ、里美」
真由の声が低くなった。
「健太くんと七年。あんた、三十で一からやり直したんだよ。次にまた、何年も先が見えない人と始めて、三年経って、五年経って、それでだめだったら。あたし、そのときあんたの隣で、また麦茶渡すことしかできないよ」
「……うん」
「武田さんなら、少なくとも、三年後に何してるかわかるでしょ。あの人の手帳に、全部書いてありそう」
里美は、四月の打ち上げの帰り道、街灯の下で手帳を開いた武田の姿を思い出した。
ひなたが砂場から駆けてきて、真由の膝に砂だらけの手を置いた。
「ママ、おしっこ」
「はいはい。里美、ちょっと荷物見てて」
真由はひなたを抱き上げて、公園の隅のトイレへ走っていった。里美は二人の水筒と、ひなたの着替えの入った布の袋と、真由のくたびれた肩掛け鞄を膝に寄せた。鞄の口から、口紅のケースが半分のぞいていた。フィルムがまだ巻かれたままだった。
戻ってきた真由は、ひなたを砂場に放すと、ベンチにどさりと座った。
「その口紅、新しいの?」
「え? ああ、それ」
真由は鞄を引き寄せて、口紅を奥に押し込んだ。
「二月に買ったの。デパートで、なんとなく。一回も塗ってない」
「塗ればいいのに」
「塗って、どこ行くのよ」
真由は笑った。それから、砂場のひなたを見たまま言った。
「拓也はいい人だよ。ほんとに。浮気もしないし、休みの日はひなたとお風呂入ってくれるし。でもさ、この前数えてみたの。一週間で、名前で呼ばれた回数。ゼロだった。ママ、か、なあ、か。あたし、真由って名前だったよなって、スーパーのレジで思った」
「真由」
「呼ばなくていいよ、今」
真由は里美の肩を軽く叩いた。
「だから、武田さんにしなよ、って言ってるのと、ちょっと矛盾してるかもね。安定してる人と結婚しても、こうなることはある。でも、あたしはひなたがいて、拓也がいて、家賃の心配しなくていい。それは、ちゃんと大事なことなんだよ。あんたには、そっちを選べるチャンスがあるの」
ひなたが砂場の真ん中で立ち上がり、両手を広げて、何かを叫んだ。たんぽぽの綿毛を一本、握りしめていた。
「ママ、ふーってして!」
真由は立ち上がり、ひなたの方へ歩いていった。しゃがみ込んで綿毛に息を吹きかけると、白い種がいっせいに風に乗った。ひなたが歓声を上げ、真由も同じ顔で笑っていた。
里美は鞄からカメラを出し、二人に向けた。シャッターを切ったのは、綿毛が全部飛んでしまったあとだった。
週明けの月曜、昼休み。里美がデスクで弁当を広げていると、杏奈が隣の席に椅子ごと滑ってきた。
「田中さん、それ、自分で作ったんですか」
「昨日の残り」
「卵焼ききれい。……あの、田中さん」
杏奈は里美の顔をまじまじと見た。
「最近、ほんとに楽しそうですよね」
里美は箸を止めた。
「そう?」
「そうですよ。去年の夏とか、正直ちょっと心配でしたもん。お昼もデスクでゼリーだけとか。今は、なんか、画面見ながら一人で笑ってたりするし」
「笑ってた?」
「さっきも。何見てたんですか」
里美は画面を見た。ひなたと真由の写真を、休憩の前に取り込んで開いていたのだった。綿毛のない、空っぽの茎を二人で見上げている一枚。
「友だちの子ども」
「えー、見せてください」
杏奈は身を乗り出して、画面を覗き込んだ。
「いい写真。二人とも、同じ顔してる」
五月十六日、土曜日。武田の部屋は、多摩川の土手から一本入った通りの、五階建てのマンションの四階だった。
玄関を開けると、出汁の匂いがした。武田は紺のエプロンをつけていた。
「いらっしゃい。上がって。散らかってるけど」
散らかってはいなかった。玄関の靴は二足だけで、つま先が揃っていた。居間の本棚は背の高さ順に本が並び、ソファの上のクッションは角が立っていた。窓際に観葉植物の鉢が一つあり、葉先が二枚だけ茶色く枯れていた。テレビの横には、走るときに使う薄いウインドブレーカーと、秋の市民マラソンの募集要項がクリップで留めてあった。
「何か手伝います」
「座ってて。もうすぐできる」
台所は対面式で、里美はカウンターの向かいに座って、武田の手元を見ていた。鰆の切り身は味噌に漬けてあったらしく、ガーゼを外してグリルに入れる。その間に、鍋の中の新じゃがと絹さやの具合を菜箸で確かめ、火を弱める。まな板の上で茗荷を刻み、小皿に分け、使い終わった包丁はすぐに洗って水切りかごに立てる。動きに迷いがなかった。グリルの前に置いたキッチンタイマーが鳴る前に、武田はもう扉を開けていた。
冷蔵庫の横の壁に、月ごとの予定表が貼ってあった。細いペンで、日付の枠ごとに小さな字が詰まっていた。「朝ラン八キロ」「クリーニング受取」「部長面談」「母、電話」「秋マラソン申込」。今日の欄には「買い出し 十時」「仕込み 十五時」、そして「田中さん 十八時半」と書いてあった。
里美がそれを見ていると、武田が振り向いた。菜箸を持ったまま、予定表と里美を交互に見た。
「……見られたか」
「すみません」
「いや。隠すつもりもない。あとで、その話をしようと思ってた」
鰆は皮がぱりっと焼けて、身がふっくらしていた。新じゃがの煮物は甘さが控えめで、土鍋のご飯には少しおこげがあった。里美がそう言うと、武田は嬉しそうに、おこげは狙って作るのだと説明した。火を止める前の三十秒の話を、真剣な顔で。
食後、武田はほうじ茶を淹れて、ソファの前の低いテーブルに湯呑みを二つ置いた。里美の隣ではなく、斜め向かいの床に座った。
「三年前に、婚約を解消したことがあるんだ」
武田は湯呑みを両手で包んだ。
「相手は大学の後輩で、千尋っていう。四年付き合って、式場も決めて、招待状の文面まで決めてた。式の二か月前に、彼女の方から、やめたいって言われた」
里美は湯呑みを持ったまま、動かなかった。
「理由を聞いたら、こう言われた。『あなたの予定表の中に、私の場所が最初から決められているのが苦しい』って」
武田は冷蔵庫の横の予定表の方を見た。
「最初は意味がわからなかった。僕は彼女のために時間を空けてたし、記念日も忘れたことがなかったし、旅行の計画も全部立ててた。それのどこが悪いんだって、正直、腹も立った」
「……」
「でも、あとになって、彼女の手帳を思い出した。付き合ってた頃、彼女はよく、週末になってから『明日どこか行きたい』って言ってた。僕はそのたびに、もう予定があるから来週にしようって答えてた。来週の予定を、僕が組んで。彼女が行きたかったのは、明日の、その場所だったのに」
武田は湯呑みを置いた。
「彼女の言う通りだった。僕は、自分が組んだ予定の中に、人を正しく置くことが、大事にすることだと思ってた」
「今も、ですか」
「わからない。直そうとはしてる」
武田は立ち上がり、予定表の前に行って、指で日曜日の列をなぞった。里美も立って、その横に並んだ。日曜日の枠だけが、どの週も空白だった。
「日曜は何も書かないことにしてる。去年の春から。最初は落ち着かなくて、朝から何をしていいかわからなかった。今は、起きてから決める。走らない日もある」
「今日のこれは」
里美は「田中さん 十八時半」の文字を指した。武田は苦笑した。
「それは、書かずにいられなかった。仕込みの時間を逆算しないといけなかったから。……こういうところだよね」
「いいえ」
里美は首を振った。
「おこげ、おいしかったです」
武田は一瞬きょとんとして、それから声を出して笑った。
九時を過ぎて、里美は帰り支度をした。玄関で靴を履いていると、武田が後ろから言った。
「田中さん。もう一つだけ、いいかな。これは今日の話とは、別のこととして聞いてほしい」
里美は振り返った。武田はエプロンを外して、手に持っていた。
「秋から、ブランド戦略部に来てもらえないかと思ってる。ひとてまの第二弾と、既存ブランドの見直しを一緒にやってほしい。部長とはもう話してて、正式な打診は来週、飯島課長を通して行くはずだ」
「……私が、ですか」
「君の、ひとてまの数字と、特集ページの作り方を見て、部長と僕で決めた。先に僕の口から言っておくのが筋だと思った。あとで、課長から聞いて、僕が黙ってたとわかったら、君は嫌な気持ちになると思ったから」
武田は、エプロンを畳んだ。
「お願いがある。この話と、僕の個人的な話は、別々に考えてほしい。どちらの返事も、もう一方に影響させないでほしい。僕を断っても、異動は受けていい。異動を断っても、僕のことは、それとは関係なく考えてくれていい」
「そんなに、きれいに分けられるものですか」
「分けられないかもしれない。でも、僕の側では分けておく。それしか、僕にはできないから」
帰り道、里美は多摩川の土手に上がった。夜の川は黒く、対岸の街の灯りが水面に細長く伸びていた。
武田が川沿いを走って帰り、里美が台所でコーヒーを淹れる朝を思い浮かべた。予定表の日曜だけは空白で、その日にどこへ行くかを二人で決める。そういう部屋は、すぐに想像できた。
土手の上で、ジョギング中の男性が一人、里美を追い越していった。
五月二十三日、土曜日の夕方。蒼井の部屋は、高円寺の駅から北へ十二分歩いた先の、木造アパートの二階だった。外階段が、一段ごとに違う音で鳴った。
「足元、気をつけて。三段目、たまに沈むんで」
ドアを開けると、紙と埃と、何かの現像液のような匂いがした。六畳の和室と、四畳半ほどの板の間。板の間には机が二つくっつけて置かれ、大きなモニターが二台並んでいた。床には、プリントの束や、封筒や、ケーブルや、空になった炭酸水の缶が散らばっていた。モニターの縁には「三崎」「九月締切」と書いた付箋が貼られている。和室の隅に布団が畳んで積まれ、その上に三脚が倒れていた。
「片付けたんですよ、これでも」
蒼井は床のプリントを足でそっと寄せて、座布団を一枚出した。座布団には猫の毛のようなものがついていた。
「猫、飼ってるの?」
「いや、隣のです。窓から勝手に入ってくる」
蒼井は台所で、へこんだ薬缶に水を入れて火にかけた。インスタントのコーヒーの瓶を振り、底に残った粉を二つのマグカップに分けた。一つのカップの縁が欠けていて、蒼井は欠けていない方を里美に渡した。
板の間の壁に、古い写真が何枚も画鋲で留めてあった。里美は立ち上がって、その前に行った。
白黒の写真が多かった。晴れ着を着た女の子が、背景布の前で緊張した顔をしている。学生服の少年たちが三列に並んでいる。雪の積もった通りに面した、二階建ての木造の店。ガラス戸の上に、「蒼井写真館」と右から左へ書かれた看板が掛かっていた。
「これが、お父さんの」
「うん。あ、それは祖父の代かな。看板、今はもう字が薄くなってて、ほとんど読めないです」
蒼井はマグカップを持って隣に来た。
「親父、四十年、町の人の七五三と入学式と、成人式と、結婚式と、遺影を撮ってきたんです。町の人、ほとんど全員、一回は親父のカメラの前に立ってる。俺も、ここ」
蒼井は、壁の端の一枚を指した。写真館の背景布の前で、五歳くらいの男の子が、蝶ネクタイをつけて、ふてくされた顔でこちらを睨んでいた。
「七五三。撮られるの嫌で、一時間泣いたらしいです」
里美は笑った。蒼井も笑った。
「六月で閉めるんです。前にも言ったけど。俺、片付けに二週間くらい帰ることになってて。……そのときの交通費も、正直、今ちょっと痛いんですけど」
蒼井はマグカップを机に置き、椅子に座った。里美も座布団に戻った。
「仕事、どう?」
「小さいのは、ぽつぽつ。チラシとか、知り合いの店のメニューとか。でも、単価が全然違うんで。来月の家賃までは大丈夫です。再来月は、正直、分かんないです」
蒼井はそう言って、椅子の背にもたれた。
「こういうの、言わない方がいいのかもしれないけど。里美さんには、嘘つきたくないんで」
里美はマグカップの中を見た。溶け残った粉が、底に筋を作っていた。
「蒼井くん。一つ、聞いてもいい?」
「どうぞ」
「結婚とか、考えたこと、ある?」
蒼井はすぐには答えなかった。天井を見て、机の上のモニターを見て、それから里美を見た。
「正直、ちゃんと考えたことなかったです」
「……そっか」
「ごめんなさい。こういうの、ちゃんと答えられなくて。考えなきゃいけないのはわかってるんです。里美さん、俺より三つ上で、前の人と七年一緒にいて。そういう人に、付き合ってくださいって言ったんだから、ほんとは、その先のことも言えなきゃいけないんだと思う。でも、今の俺が『結婚します』とか言っても、嘘になる。来月の家賃も分かんないのに」
蒼井は両手で顔をこすった。
「かっこ悪いな、ほんと」
里美は首を振った。何か言おうとして、言葉が出てこなかった。
蒼井は椅子を回して、机の引き出しを開けた。中から、コンタクトシートを何枚か取り出して、里美の前の床に並べた。
「これ、見てほしくて呼んだんです。ほんとは」
小さなコマがびっしりと並んでいた。どれも、同じ港の写真だった。錆びた船の舳先。積み上げられた発泡スチロールの箱。岸壁に座って網を繕う老人の手。朝靄の中の、古い倉庫の並び。
「三崎。三浦半島の先っぽの。仕事切られて、夜の仕事がなくなったら、やっと行けたんです。四月の終わりから、三回。九月締切の若手の写真公募に、港のシリーズで出してみたくて。まだ全然、撮れてないんですけど」
「撮れてない?」
「撮りたいものの、半分も。朝の光が一番いいんだけど、始発で行っても間に合わないんですよ。前の晩から行かないと」
蒼井はそう言いながら、コマの一つを指で押さえた。夕方の岸壁に、漁師らしい男が一人、背中を向けて立っていた。空と海の境目が、ほとんどわからなかった。
「これは、まあまあ」
里美はそのコマを見つめた。見つめているうちに、胸の奥が静かに熱くなった。これを撮った人と、同じ場所に立ってみたい、と思った。
里美は床のプリントと、モニターの縁の付箋を見た。ここで二人で暮らしたら、夜中まで画面の灯りが消えない日も、月末に家賃のことで黙る夜もあるだろう。蒼井が前の晩から三崎へ行くと言えば、宿代をどちらが出すかでもめるかもしれない。
その先は、武田の部屋ほどきれいには見えなかった。
里美はマグカップを握り直した。
「里美さん?」
「ううん。なんでもない」
里美はコンタクトシートから目を上げた。
「これ、いい写真だね」
「ほんとですか」
蒼井は子どものように顔を明るくした。その顔を見て、里美はもう一度、マグカップを握り直した。
帰りは、蒼井が駅まで送ってくれた。商店街を抜ける途中で、蒼井は財布を部屋に忘れてきたことに気づいた。
「まあ、いいや。送るだけだし」
蒼井はそう言って笑った。改札の前で、蒼井は里美に手を振った。
「待ってます。急がなくていいんで」
五月二十五日、月曜日の夜十時過ぎ。風呂から上がると、スマートフォンに通知が一件あった。
『久しぶり。元気か? ユイとは終わった。一回だけ会えないかな。話したいことがある』
岡本健太、という表示名を、里美は長いあいだ見ていた。去年の七月、健太が残りの荷物を取りに来た日以来だった。
返信しなかった。火曜日も、水曜日も。水曜の夜、布団の中で、里美は画面を開いた。既読をつけたまま二日。健太からの追加の連絡はなかった。
里美は、健太が紺の傘を持って玄関を出ていった日のことを思い出した。あの日、ちゃんと終わらせた、と思っていた。終わらせたはずのものに、一度も会わずにいることが、終わらせたことになるのかどうか、わからなかった。
『土曜の二時。駅前の喫茶店なら』
送信してから、里美はスマートフォンを枕の下に入れた。
五月三十日、土曜日。駅前の喫茶店は、昔から変わらない、赤いビロードの椅子と、煙草の匂いの染みついた壁の店だった。里美は約束の十分前に着き、窓際の席に座った。カメラの入った鞄を、隣の椅子に置いた。この日の午後、帰りに川沿いの紫陽花を撮るつもりだった。
健太は五分遅れて来た。髪を短くしていた。見覚えのない紺色のジャケットを着ていた。
「おう。久しぶり」
健太は向かいに座ると、店員を呼んだ。
「ブレンド二つ。……お前、ホットでいいよな」
「アイスティー、お願いします」
里美が店員に言うと、健太は一瞬、眉を上げた。
「暑いか、今日」
「うん」
健太はジャケットを脱いで、里美の隣の椅子に放った。カメラの鞄の上に、紺色の布がかぶさった。
飲み物が来るまで、健太は話し続けた。会社で主任になったこと。新しく住み始めた部屋は駅から遠くて、洗濯機の置き場所が外にあること。前に世話になっていた友人とは、酒の席で揉めて、もう連絡を取っていないこと。
「ユイとはさ、三か月くらいで終わった。若すぎたんだよな。話が合わないっていうか。休みの日に何したいか聞いても、分かんないって言うし。俺がいちいち決めてやんなきゃいけなくて」
里美はアイスティーのストローを回した。氷が音を立てた。
健太はブレンドを一口飲んで、カップを置いた。テーブルの上で両手を組み、里美を見た。
「で、さ。ずっと考えてたんだけど」
「……」
「やっぱりお前しかいないってわかった。この一年、いろいろあったけど、結局、一番落ち着くのはお前といるときだったんだよ。七年だぞ。そんな簡単に、なかったことにできないだろ」
健太の声は、昔、ソファの色を決めたときと同じ調子だった。汚れ目立つだろ、それ。里美がからし色がいいと言い終える前に、もうグレーのほうに腰を下ろしていた、あの声。
「帰る場所はお前なんだよ、里美。俺、今度はちゃんとするから。あの部屋、まだ住んでんだろ?」
里美は健太の顔を見た。一年前と同じ顔だった。少し痩せて、目の下が黒ずんでいた。
健太は、里美の仕事のことを聞かなかった。去年の秋に何をしていたかも、今何を担当しているかも。隣の椅子の、自分のジャケットの下に何があるのかも、聞かなかった。里美がなぜアイスティーを頼んだのかも。
「あの部屋、まだ住んでる」
「だよな。じゃあ」
「でも、健太」
里美は、ストローから手を離した。
「私は、あなたの帰る場所じゃない」
健太は口を開けたまま、止まった。
「……は?」
「帰る場所じゃないの。私は、あそこに住んでるだけ。あなたが帰ってくるのを待ってたわけじゃない」
「いや、そういう意味じゃなくてさ。俺が言いたいのは」
「わかってる。わかってるから、言ってる」
里美は立ち上がり、隣の椅子から健太のジャケットを持ち上げて、健太の方へ差し出した。健太は反射的にそれを受け取った。その下から、里美のカメラの鞄が現れた。健太はそれを見たが、何も言わなかった。
里美は鞄を肩にかけ、財布から自分の分の代金を出して、伝票の横に置いた。
「元気でね」
店を出ると、五月の終わりの日差しが、アスファルトに白く跳ね返っていた。里美は駅前のロータリーを横切り、線路沿いの道を川の方へ歩いた。
背中の方で、店のドアが開く音はしなかった。
川沿いの遊歩道には、紫陽花がまだ半分ほどしか色づいていなかった。青くなりかけた株と、薄い黄緑のままの株が交互に並んでいた。
里美はベンチに座り、鞄を開けた。スマートフォンに、通知が二件あった。
一件は武田からだった。
『課長から、異動の件、伝わったと聞きました。返事は、どちらも、急がなくていいです。来週の金曜の定例、資料を一枚追加しておきます』
もう一件は蒼井からだった。写真が一枚だけ添付されていた。夜明け前の、紫色の空の下の港。錆びた船の舳先が、朝靄の中に浮かんでいた。文章はなかった。
里美はスマートフォンを鞄に戻し、カメラを取り出した。電源を入れ、目の前の紫陽花に向けた。青になりかけの花と、まだ何色でもない花が、一つの画面に並んだ。
露出を合わせ、ピントを合わせ、指をシャッターの上に置いた。
遊歩道の向こうから、子どもを乗せた自転車が近づいてきて、里美の前を通り過ぎていった。後ろの座席の子どもが、紫陽花に手を伸ばしていた。指先が、まだ色のない花びらに触れて、離れた。




