第十三章 街灯の下
六月第一週の金曜、朝の天気予報の最後に、気象台が関東甲信の梅雨入りを発表したと告げられた。
里美はトーストの耳をかじりながら、テレビの画面の端に出た日付を見た。見覚えのある並びだった。日付は一日ずれていたが、去年のあの日も、六月最初の金曜だった。
去年のこの日も、朝から雨だった。夜は健太とパスタを食べた。向かい合って、二人ともスマートフォンを見ていた。来月の家賃の話をして、光熱費の話をして、それ以外に何を話したのか、もう思い出せない。その二日後の日曜の夜に、彼のスマートフォンが鳴った。
皿を流しに置き、歯を磨き、鞄を肩にかけて玄関に立つと、傘立てには生成り色の傘が一本だけ差してあった。去年の今ごろ、そこには紺と生成りの二本が並んでいた。紺の傘は七月の終わりに健太が持って帰った。その後しばらく、一本だけの傘立ては歯が抜けたように見えていたが、いつからか、そうは見えなくなっていた。
里美は傘を抜き、ドアを開けた。雨は細く、まっすぐに落ちていた。
会社のエントランスで傘の水を切っていると、後ろから西村杏奈が駆け込んできた。
「田中さん、おはようございます。梅雨入りですって。髪が終わります」
「杏奈ちゃん、毎年それ言ってるよね」
「毎年終わるんです」
エレベーターの中で杏奈は前髪を指で押さえつけ、鏡に映った自分に向かって顔をしかめた。里美は笑いながら、その日の予定を頭の中でなぞった。午前は夏のセールのバナーの確認、午後二時から「ひとてま」の定例。
十時を過ぎたころ、飯島課長が里美の席の横に立った。
「田中さん、ちょっといいかな。十五分でいい」
小会議室の窓は雨で曇っていた。飯島は椅子に浅く腰かけ、手元の紙を裏返したまま机の上に置いた。
「秋に、新しい企画を立てたい。去年の『わたしの部屋の、いちばん好きな場所』、あれを一回きりで終わらせるのはもったいないって、上から言われてる。お客さんの投稿を季節ごとに集めて、通年のコーナーにする。商品ページとも連動させる。そのリーダーを、田中さんにお願いしたい」
里美はすぐには返事ができなかった。飯島は紙を表に返した。企画の骨子らしい箇条書きが数行並び、その一番上に「担当:田中」と鉛筆で書いてあった。
「去年、あの企画を最初に聞いたとき、俺は反対したよね。投稿なんか集まらないって」
「はい。覚えてます」
「集まった。百八十六件。八十件って聞いたとき、俺は半分も行かないと思ってた」
飯島は眼鏡を外して、レンズを指で拭いた。
「正直に言うとね、ブランド戦略部のほうから、田中さんを欲しいという話が来ているのも知ってる。武田くんから、筋を通すために一応って、俺のところに話があった。だから無理にとは言わない。でも、うちとしては、始めた人に続けてほしい。来週の水曜までに返事をもらえるかな」
席に戻ると、画面の中で夏のセールのバナーが点滅していた。里美はしばらくそれを見ていた。
五月の半ば、武田の部屋で夕食をとった夜のことを思い出した。土鍋の蓋を開けたときの湯気と、新じゃがの煮物の控えめな甘さ。帰りぎわの玄関で、武田は、ブランド戦略部に来ないかと言った。ひとてまの第二弾を一緒にやってほしい、と。その声には、仕事の話をするときの彼の真剣さがあった。里美はそれが嬉しかった。嬉しかったから、答えを先延ばしにしていた。
ブランド戦略部に行けば、見えるものは増える。けれど、席に戻ってからも、飯島の紙のいちばん上にあった「担当:田中」の文字が頭に残った。
去年の秋、投稿の写真が一枚ずつ届き始めた朝のことを、里美はよく覚えていた。窓辺に置かれた多肉植物の鉢、使い込まれた木のまな板、猫が寝ている座布団。知らない誰かの部屋のいちばん好きな場所が、画面の中に積み上がっていった。あの企画は、誰かに渡されたものではなかった。自分で手を挙げて、一晩でアンケートを読み込んで、飯島に数字を突きつけて通したものだった。
里美はメモ帳を開き、「自分で始めたものを、自分の手で続けたい」と一行だけ書いた。
午後二時の定例は、いつもの第三会議室だった。「ひとてま」の発売から一か月半、売上の推移と、秋に向けた追加商品の話。武田はいつものように紙の手帳を開き、進行表の余白に細い字で何かを書き込みながら、各部署の報告を聞いていた。
会議が終わり、皆が資料を抱えて出ていくと、里美は席を立たずに待った。武田が気づいて、手帳を閉じた。
「田中さん、何か」
「五分だけ、いいですか。仕事の話です」
武田は頷き、開いたままだったドアを閉めた。
「先月いただいた、ブランド戦略部への異動のお話です。お断りさせてください」
武田の表情は変わらなかった。ただ、手帳の上に置いた指が、表紙の角を一度だけなぞった。
「理由を、聞いてもいいかな」
「秋に、今の部署で新しい企画を任せてもらえることになりそうなんです。去年の投稿企画を、通年にするもので。あれは、私が自分で始めたものなので、自分で続けたいと思いました。武田さんのところで働けたら、きっとたくさん勉強になるのはわかってます。でも、今はまだ、自分の始めたものの行き先を見届けたいんです」
言い終えてから、里美は付け加えた。
「それと、これは、もう一つのお話とは関係ありません。そこは分けて考えました」
武田は窓のほうを見た。雨の筋がガラスを斜めに流れていた。
「わかった」
それから、ほんのわずかに口元を緩めた。
「いや、正直に言うと、残念だ。君と一緒に秋の計画を組めたら面白いだろうと思って、もう頭の中で線を引いていたから。でも、今の理由は、いい理由だと思う。僕が同じ立場でも、たぶん同じことを言う」
「すみません、せっかく声をかけていただいたのに」
「謝ることじゃないよ」
武田は手帳を開き、あるページの一行に定規で引いたような線を一本引いた。何が書いてあったのか、里美の席からは見えなかった。
「飯島さんには、僕からも一言伝えておく。田中さんを取り合って揉めたと思われたくないからね。それと」
武田は手帳を閉じ、里美を見た。
「さっき君が言ったとおり、今のは仕事の話として聞いた。もう一つの話とは、混ぜない。僕もそうする」
里美は頷いた。会議室を出るとき、背中に、ありがとうと言われた気がした。振り返ると、武田はもう進行表に何かを書き込んでいた。
翌日の土曜、ひだまり写真会の月例会は、区の地域センターの二階、和室で開かれた。
畳の上に長机が二つ出され、会員がめいめいに持ってきたプリントが並んでいた。窓の外では雨が紫陽花の植え込みを叩いていた。久保恵子が魔法瓶から麦茶を注いで回り、一人ずつに紙コップを手渡した。
「里美さん、これ、うちの近所のお菓子屋さんのかりんとう。黒糖のほう、おいしいから」
「ありがとうございます、久保さん」
主宰の森敏夫は、床の間の前に座布団を敷いて胡坐をかいていた。六十八歳の元新聞カメラマンは、いつものように首から古いカメラを下げ、膝の上に手帳を広げていた。会員が揃ったのを確かめると、手帳を閉じて咳払いをした。
「さて、七月の写真展の話です。今年も区民ギャラリーを借りられました。七月の第三週、火曜から日曜まで。一人二点。額はこっちで用意します。出品作は七月の頭までに決めて、私に見せてください」
久保さんが、待ってましたとばかりに手を叩いた。何人かが顔を見合わせ、去年は何を出したとか、今年は花にするとか、口々に話し始めた。
里美は膝の上で、タブレットの写真フォルダを指で送った。九月に初めて参加した撮影会の、林試の森の彼岸花。十月の谷中の路地。十一月の紅葉、十二月の夜の駅前。一月の霜柱。三月の梅。五月の湘南の夕景。
どれも、撮ったときのことは覚えていた。それぞれに、うまく撮れたと思ったものもあった。けれど、額に入れて壁に掛け、知らない人の前に出したいかと自分に聞くと、どの一枚も首を横に振った。
「田中さんは、どうする」
森が、老眼鏡の上から里美を見ていた。
「それが、まだ決められなくて」
「うん」
森はそれ以上何も言わず、麦茶を一口飲んだ。里美が続きを待っていると、森は紙コップを畳に置いて、窓の外の雨を顎で示した。
「決まらないうちは、撮りに行けばいいんだよ。梅雨はいい季節だ。みんな嫌がるけどね」
会の途中、襖が開いて、濡れた髪の蒼井が顔を出した。
「すみません、遅れました。電車が」
久保さんが、電車は遅れてなかったわよ、と言い、和室が笑いに包まれた。蒼井は頭をかきながら里美の隣に座り、鞄から出したタオルで首を拭いた。
「写真展、もう聞きました?」
「今聞いたところ。蒼井くんは、何出すの」
「たぶん、親父の店のです。再来週から長野に帰るんで、そこで撮れたら」
蒼井はそう言って、タオルを膝の上で畳んだ。畳み方が雑で、角が揃っていなかった。
その夜も雨はやまなかった。
夕飯のあと、里美は窓辺に立って、街灯の下を斜めに落ちる雨を見ていた。部屋の中は乾いていて、明るくて、何をしてもよかった。テレビをつけてもいい。本の続きを読んでもいい。
里美は棚からカメラを下ろした。光陽堂で買った中古の一眼レフは、この一年でストラップの革がすっかり手に馴染んでいた。レンズにフードをつけ、カメラごと透明な雨よけのカバーをかぶせた。生成りの傘を持って、部屋を出た。
駅までの道は、濡れた舗道に家々の窓明かりが滲んでいた。駅の改札の前を通り過ぎ、線路沿いを裏手に回ると、光陽堂はもうシャッターを下ろしていた。シャッターの前に、店主がいつも出している古い丸椅子が、雨に濡れないよう軒の奥に寄せられていた。
駅裏の商店街は、八時を過ぎると半分以上の店が閉まる。開いているのは焼き鳥屋と、年中同じ演歌が流れている居酒屋と、コインランドリーくらいだった。里美は商店街を抜けず、途中の八百屋の角を曲がって、一本外れた路地に入った。
路地は狭く、雨の音が両側の壁に反響していた。古い木造の家の雨樋から水があふれ、足元で細い川になっていた。
五十メートルほど歩いたところで、道が二つに分かれていた。
左は、住宅の並ぶ暗い坂道だった。ブロック塀の上から伸びた紫陽花の枝が、雨の重みで垂れ下がっていた。右は、飲み屋の続く細い通りで、赤や青や緑のネオンの看板が、濡れた空気の中で輪郭をぼかしていた。
分かれ目のちょうど手前に、古い街灯が一本立っていた。今どきの白い光ではなく、橙色の、ぼんやりとした明かりだった。その下の舗装がくぼんで、大きな水たまりができていた。
里美は足を止めた。
水たまりの中に、もう一つの路地があった。街灯の橙色が真ん中に落ち、その両側に、右の通りのネオンが赤と青と緑の帯になって揺れていた。雨粒が落ちるたびに輪が広がり、ネオンの色が崩れては、また元の形に戻った。左の坂道の暗さも、水たまりの縁にちゃんと映っていた。
里美は傘の柄を肩と首の間に挟み、カメラを構えた。
最初は右の通りに一歩入り、ネオンを大きく入れて撮った。背面の画面を見ると、色はきれいだったが、よくある飲み屋街の写真だった。次に左の坂道に入り、紫陽花越しに街灯を撮った。暗くて、湿っていて、それだけだった。
どちらの写真も、何かが足りなかった。
里美は分かれ道の手前まで戻った。二つの道がちょうど等しく見える位置を探して、半歩ずつ足を動かした。ここ、と思ったところでしゃがみ込み、膝が濡れるのもかまわずに、水たまりすれすれまでカメラを下げた。
九月の林試の森で、森に言われたことを思い出していた。彼岸花の前にしゃがんで、みんなと同じ場所から、同じ角度で撮っていたときだった。
写真は、何を撮ったかより、どこに立ったかだよ。
あのときは、言われるままに斜面を下りてみただけだった。言葉の意味は、まだよくわかっていなかった。
感度を上げ、シャッターを三十分の一秒にした。絞りは開け気味に。ファインダーの中で、水たまりの街灯が真ん中に来て、その向こうに、分かれていく二本の道が左右に伸びていた。どちらの道にも、人はいなかった。
雨粒が一つ、水たまりの真ん中に落ちるのを待った。
輪が広がった瞬間に、シャッターを切った。
それから同じ位置で、同じ構えのまま、十枚ほど撮った。雨粒の落ち方が一枚ごとに違った。傘の縁から垂れた水が首筋に入り、里美は小さく声を上げた。焼き鳥屋から出てきた男が二人、しゃがみ込んでいる里美を不思議そうに見ながら、右の通りへ消えていった。
部屋に帰り着いたのは十時近くだった。濡れた傘を玄関で開いて干し、タオルで髪を拭き、カメラのカバーを外してレンズの水滴を布で押さえた。三月の誕生日に武田からもらったクリーニングセットの布は、柔らかくて、よく水を吸った。
ノートパソコンにカードを差し込み、今夜の写真を読み込んだ。
最初の数枚は、右の通りと左の坂道の写真だった。飛ばした。分かれ道の手前で撮った十数枚が続いた。一枚ずつ拡大して見ていき、七枚目で手が止まった。
水たまりの真ん中に、橙色の街灯が映っていた。その光を中心に、雨粒の輪が一つ、きれいな円を描いて広がっていた。輪の外側で、赤と青と緑のネオンがほどけかけていた。水たまりの縁の向こうには、本物の路地が二つに分かれていて、右は色に満ち、左は暗く、どちらも奥へ行くほど雨に霞んでいた。
そして画面のいちばん手前、水たまりの縁ぎりぎりのところに、しゃがんだ自分の傘の先が、黒い影になって少しだけ写り込んでいた。
里美は長いこと、その一枚を見ていた。
この一年で撮ったどの写真とも違っていた。うまく撮れたかどうかではなかった。これは、自分が撮った写真だ、と思った。
伊豆で撮った写真を健太に茶化されてから、七年。去年の今ごろなら、雨の夜にカメラを持って一人で外へ出ることもなかった。
今夜は誰にも誘われていない。右へ入って、左へ入って、どちらも違うと思って、自分で手前まで戻ってきた。
里美は椅子の背にもたれた。
画面のいちばん手前に写った、自分の傘の先が妙に気になった。右にも左にも入らず、ここに立っていた印だった。
五月の喫茶店で、健太は里美のこの一年について何も尋ねなかった。
武田が手帳から指を離した瞬間と、蒼井がコンタクトシートを覗き込んでいた横顔が、順に浮かんだ。
里美は画面の傘の先に目を戻した。
しばらくして、棚の引き出しから、あのノートを取り出した。
去年の八月、お盆休みにリストを書いたノートだった。開くと、自分の字で三行が並んでいた。
一、朝、ヨガに行く(続かなくてもいい)
二、仕事で、自分から手を挙げる
三、カメラを買う。撮りたいものを撮る
ヨガは十一月にやめて、今は時々、出勤前に近所の公園を一周している。仕事では手を挙げた。カメラは買った。撮りたいものは、今夜撮った。
里美は次のページを開き、ボールペンの先をしばらく紙の上に浮かせたまま考えてから、書いた。
私のどこが好きですか。
一行空けて、もう一つ。
私の今の生活を、あなたとの未来の中で、どう見ていますか。
里美は二行を読み返した。
ノートを閉じると、窓の外の雨の音が戻ってきた。
玄関で、開いたままの生成りの傘から、水滴が一つずつたたきに落ちていた。




