第十四章 川沿いと線路沿い
武田にメッセージを送ったのは、写真を撮った翌週の月曜の夜だった。
『少しお時間をいただけませんか。仕事ではないお話です』
返信は五分後に来た。
『土曜の十一時はどうかな。川沿いのカフェ、前に話したところ。朝走ったあとに寄る店です』
土曜は、朝から霧のような雨だった。里美は約束の十分前に店に着いた。川に面した古い倉庫を改装したカフェで、天井が高く、窓際に長いカウンター席が並んでいた。奥の二人掛けのテーブルに、武田がもう座っていた。
白いシャツの袖を二回折り、テーブルの上に紙の手帳を閉じて置いていた。髪がまだ湿っているのは、走ったあとにシャワーを浴びてきたからだろうと里美は思った。
「早いですね」
「走る日は時間が余るんだ。五時半に起きるから」
武田は里美の分のメニューを開いて差し出した。里美はカフェオレを頼み、武田はもう半分に減ったブレンドのお代わりを頼んだ。
店員が去ると、しばらく二人とも黙った。窓の外で、川面に雨粒が細かく散っていた。対岸の遊歩道を、合羽を着た人が犬を連れて歩いていた。
「この前は、異動の話、ちゃんと言ってくれてありがとう」
武田が先に口を開いた。
「飯島さん、喜んでたよ。僕が田中さんを諦めたって言ったら、そりゃそうだろうって顔をされた」
里美は笑った。笑ってから、膝の上で両手を組み直した。
「武田さん。あのとき待ってくださいってお願いしたこと、ずっと考えてます。それで、今日は、聞きたいことがあって来ました。二つだけ」
武田の目が、わずかに見開かれた。それから、ゆっくり頷いた。
「うん。聞かせて」
「私の、どこが好きですか」
武田は、すぐには答えなかった。カップを持ち上げかけて、飲まずに受け皿に戻した。
「一つにまとめるのは難しいな。でも、順番に言うよ」
そう言って、武田は窓の外に目をやった。
「最初は、仕事ぶりだった。去年の秋の投稿企画。部会の資料で、アンケートの自由記述を一件ずつ読んで、二百六十八件を拾い出したのを見た。あとで西村さんから聞いたんだ。最初の一週間で二十三件しか集まらなくて、君が二百人以上に、一通ずつ違う一行を足してメールを書いたって。普通なら、どこかで引いて、去年の形に戻す。君は真ん中を変えなかった。困ったときに、逃げずに正面から押し返す人なんだと思った」
「それと、見えているものが違う。数字を見ていても、画面を見ていても、君は、みんなが見落としてるところに先に気づく。何が本当の問題なのかを、一番最初に言い当てる」
武田はそこで言葉を切った。
「でも、それは尊敬の話だね。好きになったのは、たぶん、もっと別のときだ」
店員がカフェオレを運んできた。武田は店員が離れるのを待った。
「十二月の、在庫の数字がずれた夜を覚えてる?」
「忘れられないです」
「夜の九時前で、フロアに残ってたのは君だけだった。僕が手帳に表を作って、君が数字を読み上げた。十二月三日の行で、十七ずれた。倉庫の記録に、同じ振り替えが二回入ってるって君が見つけたのが、十時を回ったころだったかな」
「十時二十分でした」
「そうか。十時二十分だ」
武田は小さく笑った。
「そのあと君は、二回目を入力した倉庫の宮下さんに、明日の朝いちばんに渡すメモを書いてた。報告書には名前を書かなかったのに、メモには、宮下さんのせいじゃない仕組みの問題です、って二回書いてた。それから、机の端に置いてた冷めたおにぎりを、包装を半分だけ剥がして食べてた。海苔が湿ってて、顔をしかめてた」
里美は、言葉が出なかった。自分でも覚えていない場面だった。
「あの夜、改札で別れて、ホームへの階段を下りながら、この人のことをもっと知りたいと思った。それが最初だと思う」
武田はようやくカップを口に運んだ。里美はカフェオレの表面に浮いた泡を見ていた。
「ありがとうございます」
やっとそれだけ言って、里美は顔を上げた。
「もう一つ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「私の今の生活。仕事や、写真や、一人でいる時間を。武田さんとの未来の中で、どう見ていますか」
武田は、今度は長く考えた。窓の外で、犬を連れた人が遊歩道の端の階段を下りていった。
「正直に言うと、写真のことは、僕にはよくわからない」
武田は、自分の手元を見ながら言った。
「君の撮ったものを見せてもらって、きれいだと思う。でも、どこがどういいのか、君と同じ言葉では話せない。露出とか、構図とか、たぶん何度聞いても、僕の中では数字のままだ」
「でも、君が大事にしてるものなら、大事にする。それは、わからなくてもできることだと思う」
武田は顔を上げた。
「仕事は、続けてほしい。部署が違っても、君がやりたいことをやってるのを、近くで見てたい。一人の時間も必要だと思う。僕も朝の川沿いは一人で走りたい。だから、たとえば」
武田は、テーブルの上の手帳に手を置いた。
「君の写真の時間は、最初からカレンダーに入れておこう。月に何回、土曜の午後とか、日曜の朝とか。僕の側では、動かせない予定として扱う。仕事が入っても、そこには何も入れない。そうすれば、君はいちいち僕に断らなくていい」
そこまで言って、武田は口を閉じた。
手帳の表紙を撫でていた指が止まった。武田は目を伏せ、それから、苦いものを飲んだように笑った。
「今、自分で言いながら思い出した。前に話したよね。あなたの予定表の中に、私の場所が最初から決められているのが苦しいって、言われたこと」
「はい」
「また同じことをしてるな、僕は」
武田は手帳から手を離し、膝の上に置いた。
「ただ、言い訳をさせてもらうとね。あのときの僕は、相手の場所を、僕の予定の空いたところに決めてた。今言ったのは、たぶん逆なんだ。君の時間を先に置いて、僕の予定を、その周りに組みたい。でも、結局、予定表に書くことに変わりはない。そういうやり方でしか、大事なものを守れない人間なんだと思う。それが窮屈なら、窮屈だって言ってほしい。直せるところは直す。直せないところは、先に言っておく」
武田はそこで、里美の目をまっすぐに見た。
「里美さん」
名前を呼ばれて、里美は息を止めた。
「僕は、今の君が好きだ。去年の今ごろ、君が何か大変なことを抱えてたのは、見ていてわかってた。そこから今の君になるまでを、少しだけ横で見てた。その君の暮らしを、僕の都合で形を変えたくない。それだけは約束できる」
言い終えると、武田はいつもの顔に戻った。
「……長くなったね。田中さん」
呼び方が戻ったことに、里美は気づいた。気づいて、喉の奥が熱くなった。
里美は、テーブルの上の手帳を見た。表紙から離れた武田の指が、今は膝の上で静かに組まれていた。
五時半のランニングも、定規で引いたような予定も、この人の暮らしなのだと思った。
「ありがとうございます」
里美の声は、自分で思ったより掠れていた。
「すごく、嬉しいです。本当に」
「答えは、急がなくていいよ」
武田はそう言って、伝票を先に取った。里美が財布を出そうとすると、手のひらを軽く上げて止めた。
店を出ると、雨は上がりかけていた。武田は川沿いを上流のほうへ、里美は駅のほうへ歩いた。橋の上で一度振り返ると、武田はもう角を曲がったあとだった。
里美は橋の欄干に手を置いて、しばらく川を見ていた。川面に、まだ時折、雨の名残の輪ができていた。
帰りの電車は空いていた。里美は座席の端に座り、鞄からあのノートを出した。
十時二十分。湿った海苔。
少し迷って、その下に書いた。
動かせない予定。
里美はペン先で最後の句点をつつき、ノートを閉じた。
ノートを閉じると、窓の外を、濡れた住宅街の屋根が流れていった。
蒼井と会ったのは、その四日後の水曜、彼が長野へ発つ前の晩だった。
『明日の朝一の新幹線なんで、夕方なら。いつもの公園でいいですか』
いつもの公園というのは、ひだまり写真会がよく集合場所にする、線路沿いの細長い公園だった。里美は仕事を定時で切り上げて向かった。雨は昼過ぎにやんで、雲の切れ目から、薄い橙色の光が斜めに差し込んでいた。
約束の六時半になっても、蒼井は来なかった。
里美はベンチの前に立ったまま待った。ベンチの座面には、まだ雨水が溜まっていた。六時四十五分、公園の入口から、蒼井が紙袋を抱えて走ってくるのが見えた。
「すみません! 荷造りしてたら、親父から電話がかかってきて、店の暗室の薬品、どうやって捨てるんだって話が止まらなくて」
「十五分」
「すみません」
蒼井は息を切らしながら頭を下げ、ベンチの濡れた座面に気づくと、着ていたシャツの裾で雑に拭いた。拭いたところだけ、かえって水の跡が広がった。
「あ。……これ、敷いてください」
紙袋から出てきたのは、畳まれたままの長野の地方紙だった。
「親父が送ってきたやつです。写真館閉館の記事が載ってて」
「敷いちゃっていいの? 大事な記事でしょ」
「三部送ってきたんで。一部は親父が自分で持ってて、一部は俺の部屋の壁に貼ります。これは予備」
蒼井は新聞を広げて、地域面を里美に見せた。「七十年の歩みに幕」という見出しの下に、店の前に立つ白髪の男性の写真があった。ガラス戸に金色の文字で「蒼井写真館」とあり、男性は両手を前で組んで、まっすぐにこちらを見ていた。目元が蒼井に似ていた。
「いいお写真」
「親父は、これ、ずっと文句言ってるんですよ。記者さんが立つ場所が違うって。もう二歩右に寄れば、店の看板の影が顔にかからなかったのにって。電話で三回聞かされました」
「お父さんらしいね」
「らしいです。自分が撮られるときまで、撮る側の目なんです」
二人は新聞を座面に敷いて並んで座った。紙袋の中には、ほかに、駅前の店で買ったらしい大判焼きが二つ入っていた。蒼井は一つを里美に渡し、もう一つを半分に割って、あんこの断面を見て満足そうに頷いた。
「いつ見ても、この断面はいい」
「写真撮らないの?」
「撮ったら冷めるんで」
里美は笑った。蒼井も笑い、大判焼きを一口かじった。夕方の光が、彼の頬の片側を照らしていた。
食べ終えてから、里美は膝の上で手を組んだ。
「蒼井くん。この前、待ってってお願いしたこと、ずっと考えてる。今日は、二つだけ聞いてもいい?」
蒼井は、大判焼きの包み紙を丸めかけていた手を止めた。
「……はい」
「私のどこが好き?」
蒼井は、ほとんど考えなかった。
「里美さんが、完璧な一枚を見つけた瞬間に、目がキラキラするところ」
言ってから、蒼井は自分で照れたように首の後ろをかいた。
「谷中の路地で、猫が塀の上から降りてくるのを待ってたとき、あったじゃないですか。里美さん、三十分くらい同じ場所にしゃがんでて。で、猫が降りてきた瞬間、ファインダーから顔離して、俺のほう見たんですよ。撮れた、って顔で。声は出してないのに。あの顔見てると、こっちまで嬉しくなるんです。何撮ったのか、早く見せてって思う」
里美は、その日のことを覚えていた。けれど、自分がそんな顔をしていたとは知らなかった。
「それと、構図が変なとこ」
「変?」
「いい意味で。みんなが寄るところで引くし、みんなが真ん中に置くものを端に置く。最初に会ったときの、花とビルのやつ。俺、あれ見て、この人の目で世界を見たらどう見えるんだろうって思ったんです」
蒼井は丸めた包み紙を紙袋に押し込んだ。
「二つ目は?」
「私の今の生活を、蒼井くんとの未来の中で、どう見てる? 仕事とか、写真とか、一人の時間とか」
蒼井は、公園の木々を見上げた。雨に洗われた欅の葉が、夕日を透かして光っていた。
「里美さんの生活? ……それ、なくしたら里美さんじゃなくなるでしょ」
蒼井は言ってから、大判焼きの包み紙の端を指で折った。
「俺、仕事のことは全部わかるわけじゃないし、写真だって撮れなくて嫌になる日はある。でも、里美さんが何を見て帰ってきたのかは知りたい。俺が見たものも見せたい。一緒に行く日も、一人で行く日もあっていい」
「帰ってきたら、写真見せてください。それで、俺のも見てほしい」
里美は、膝の上の鞄に手を置いた。中に、カメラが入っていた。カードには、分かれ道の写真が入ったままだった。
あの夜から十日あまり、誰にも見せていなかった。武田にも、森にも、蒼井にも。
蒼井は、しばらく欅を見上げたままだった。それから、姿勢を正して里美のほうに向き直った。さっきまでの軽さが、顔から消えていた。
「でも、言っとかなきゃいけないことがあって」
「うん」
「金のことは、正直、自信ない。四月に切られた仕事の穴、まだ埋まってない。小さい仕事をかき集めて、今月はなんとかなる。来月は、わからない。来年どうなってるかなんて、もっとわからない」
蒼井は、膝の上で両手の指を組んだり外したりした。
「それと、前に部屋で言ったこと。結婚のこと、ちゃんと考えたことないって。あれ、本当なんです。二十八にもなって、って思われるかもしれないけど、考えたことなかった。親父と母さん見てて、店と家が一緒で、ずっと忙しくて、結婚ってああいうもんなのかって、なんとなく避けてた。それに今は、港のシリーズを形にしたいって気持ちも強い。時間も金も使うと思う。生活と両立できるのか、自信はない」
蒼井は、里美の目を見た。
「でも、考えないって言うのは違うと思うから。これから考える。里美さんと。一人で考えて、答えが出てから持ってくるんじゃなくて、一緒に考えたい。……それって、ずるいですかね」
里美は首を横に振った。振ってから、それが何への答えなのか、自分でもよくわからなかった。
「ずるくないと思う」
「よかった」
蒼井は長く息を吐いて、ベンチの背にもたれた。敷いていた新聞が、背中の下でがさりと鳴った。
「明日から二週間、親父の店の片付けです。七十年分の、ネガとか、背景紙とか、額縁とか。最後の店もちゃんと撮っておきたい。港のシリーズは、戻ったらまた三崎に通って、秋の公募に間に合わせたい。親父が最後に何撮るのかも、見てこようと思って」
「写真展には、間に合う?」
「たぶん。間に合わせます。遅刻しないように」
里美が吹き出すと、蒼井も笑った。
日が沈みかけていた。線路の向こうのマンションの窓が、一つずつ橙色に染まっていった。
里美は鞄の口に手をかけた。カメラを出して、背面の画面を見せれば、それで済むことだった。十日あまり前の雨の夜、分かれ道の手前でしゃがみ込んで撮った一枚を。
帰ってきたら、写真見せてください。
さっきの蒼井の声が、耳に残っていた。
里美は鞄の口から手を離した。
「そろそろ行かないと。荷造り、終わってないんでしょ」
「……終わってないです。全然」
蒼井は立ち上がり、背中に張りついた新聞を剥がして、丁寧に畳んだ。畳み方は相変わらず雑で、角がずれていた。それを紙袋に入れ、里美のほうを振り返った。
「里美さん。ありがとう。聞いてくれて」
「何が?」
「どこが好きかって。そういうの、聞かれたことなかったから。言えてよかった」
蒼井は手を振り、公園の出口のほうへ歩き出した。十歩ほど行ったところで振り返り、もう一度、腕ごと大きく振った。振りすぎて紙袋が揺れ、中の新聞が落ちそうになって、慌てて抱え直した。
里美は手を振り返した。蒼井の背中が、線路沿いの道の角に消えるまで見ていた。
公園には誰もいなくなった。欅の葉から、溜まっていた雨粒がときどき落ちてきた。
里美はベンチに座り直し、鞄からカメラを出した。電源を入れ、再生のボタンを押した。
背面の小さな画面に、分かれ道が映った。橙色の街灯と、ほどけかけたネオンと、雨粒の輪。左右に分かれていく二本の道。手前に写り込んだ、自分の傘の先。
里美はしばらくそれを見てから、電源を切った。画面が暗くなり、そこに、夕暮れの空がわずかに映った。




