第十五章 見せたい写真
六月第四週の月曜、仕事が終わってから、里美は武田に会った。
武田が朝に走っている川沿いの遊歩道の、橋のたもとにベンチが一つあった。夕方の雨は七時前にやみ、空はまだ明るさを残していた。里美が着いたとき、武田はベンチに座らず、手すりにもたれて川を見ていた。上着を腕にかけ、手帳は持っていなかった。
「ここ、朝はもっと人がいるんだ」
武田はそう言って、ベンチのほうを手で示した。二人は並んで座った。座面は拭いてあった。武田が来てすぐに、ハンカチで拭いたのだろうと里美は思った。
里美は、家を出る前に何度も考えた言葉を、頭の中から全部どけた。
「武田さん。この前の、お返事をしに来ました」
「うん」
「武田さんとは、お付き合いできません」
武田は川を見たまま、しばらく何も言わなかった。対岸の遊歩道を、自転車が一台、ライトを点けて通り過ぎていった。
「そうか」
声は穏やかだった。けれど、膝の上に置いた手が、指を一本ずつ握り込むように閉じていくのを、里美は見ていた。
「理由を、言わせてください。言わないまま帰るのは、違うと思うので」
「……聞くよ」
里美は、両手を膝の上で重ねた。
「この前、カフェで話してくれたこと、全部嬉しかったです。十二月の夜を覚えていてくれたことも、私の時間を先に置こうとしてくれたことも」
里美はそこで一度、川に目をやった。
武田が、里美のほうを向いた。
「あの日から、武田さんと暮らす朝を何度も想像しました。たぶん穏やかで、私は大事にしてもらえると思います」
川面を、小さな葉が一枚、ゆっくり下流へ流れていった。
「それなのに、雨の夜に撮った写真を、最初に見せたいと思ったのは、武田さんじゃなかったんです」
武田はしばらく黙っていた。やがて、小さく息を吐いた。
「そうか」
「ごめんなさい。うまく説明できないけど、それが私の答えでした」
武田は手すりの向こうの川面に目を戻した。夕方の光が水の上で細かく揺れていた。
「写真のことはわからないって、自分で言ったからなあ」
「そういう意味じゃ」
「わかってる。わかってるよ」
里美は、何か言おうとして、言えなかった。
武田は腕時計を見て、ベンチから立ち上がった。上着を肩にかけた。
「明日の朝もここを走るよ。秋の大会までに、そろそろ距離を戻さないと」
冗談の形をしていたが、声の終わりがかすかに揺れた。武田はそれを咳払いでごまかし、いつもの仕事の声に戻った。
「それと、金曜の『ひとてま』の定例。秋の追加分のEC側の数字、水曜までにもらえると助かる」
「はい。水曜の午前中に送ります」
「頼む」
武田は里美に向かって軽く頭を下げ、上流のほうへ歩いていった。里美はベンチに座ったまま、その背中が橋の下の暗がりに入っていくのを見ていた。一度も振り返らなかった。それが彼の礼儀なのだと、里美にはわかった。
その週の金曜、第三会議室の定例は、午後二時ちょうどに始まった。
武田は手帳を開き、進行表を配り、各部署の報告を聞いた。里美の番になると、水曜に送った数字をスクリーンに映して説明した。秋の追加商品三点のうち、木製の鍋敷きだけが予約の伸びが鈍いこと。商品写真を、使っている場面のものに差し替えたいこと。
「いいと思う。差し替えの写真、お客さんの投稿から使えないかな。秋の新企画のほうと、つながりが作れると面白い」
「確認します。投稿してくださった方の許可が要るので、来週までに」
「うん。それと、この前年比の数字、出典を脚注に入れておいてもらえる? 役員会に出すから」
「わかりました」
会議が終わると、西村杏奈が里美の袖を引いた。
「田中さん、武田さんと何かありました?」
里美の心臓が一つ跳ねた。
「どうして?」
「いえ、今日の武田さん、いつもより田中さんの資料に突っ込むの早かったなって。仲良しだなあと思って」
杏奈はそう言って、自分のノートパソコンを抱えて出ていった。里美が振り返ると、武田はまだ席にいて、窓の外を見ながら手帳に何かを書いていた。窓ガラスに、梅雨の終わりの、薄く明るい空が映っていた。
七月の最初の金曜の夜、里美は新幹線の改札の前に立っていた。
電光掲示板に、長野からの列車の到着時刻が表示されていた。予定では八時十二分。里美が着いたのは七時五十分だった。改札の向こうから、到着した客が波のように出てくるたびに、その中に蒼井の顔を探した。
八時二十分を過ぎても、蒼井は出てこなかった。
メッセージアプリに通知が来た。
『すみません! ホームで親父からの電話に出てたら、エスカレーター逆に乗りました。今行きます』
里美は画面を見て、声を出して笑った。隣で待っていた年配の女性が、不思議そうに里美を見た。
八時二十六分、改札の向こうに、大きなリュックを背負い、両腕で段ボール箱を抱えた蒼井が見えた。日に焼けていた。髪が伸び、無精髭も伸びていた。蒼井は改札の前で箱を抱え直し、切符を取り出そうとして手が足りず、後ろの人に頭を下げながら、箱を床に置いてからようやく改札を抜けた。
「里美さん」
蒼井は、里美の前で立ち止まった。二週間前より、声が低くなっている気がした。
「おかえり」
「ただいま」
蒼井は照れたように笑い、足元の段ボール箱を見下ろした。
「これ、親父が持ってけって。店で最後まで使ってた、蛇腹のカメラです。重いんですよ。腕が抜ける」
二人は駅の地下の、閉店まぎわのコーヒースタンドに入った。蒼井は段ボールを足元に置き、アイスコーヒーを半分まで一気に飲んだ。
「店、どうだった」
「空っぽになりました。七十年分、全部。ネガは町の資料館が引き取ってくれることになって。背景紙は、近所の保育園が工作に使うって」
蒼井はストローで氷をつついた。
「閉める前の最後の日に、お客さんが来たんです。予約じゃなくて、ふらっと。近所の、八十過ぎのおじいさんとおばあさんで。五十年前、まだじいちゃんが店に立ってたころに、うちで結婚写真を撮った人たちだった。最後にもう一回、二人で撮ってほしいって」
「お父さんが撮ったの?」
「撮りました。蛇腹のカメラで。親父、手が震えるから、最近はデジタルでしか撮ってなかったのに、そのときだけは。俺、横でレフ板持ってました」
蒼井はそこで言葉を切った。
「そのあと、二人が帰って、店の明かり落としてから。親父に、店の前に立ってくれって頼んだんです。新聞のやつ、立つ場所が違うって文句言ってたから。俺が撮るよって」
「撮れた?」
「撮れた。二歩右に寄って、看板の影がかからないとこで。親父、撮られながら、もう半歩右だとか、絞りはいくつだとか、ずっとうるさくて」
蒼井は笑った。笑いながら、目の端を指でこすった。
「俺、親父を正面から撮ったの、初めてだったんです。二十八年、写真館の息子やってて」
里美は何も言わず、テーブルの上の蒼井の手を見ていた。指の節に、段ボールの角で擦ったらしい赤い跡があった。
しばらくして、里美は鞄からカメラを出した。
「見せたいものがあるの」
電源を入れ、再生のボタンを押し、背面の画面を蒼井のほうへ向けた。
蒼井はカメラを両手で受け取った。画面を見て、何も言わなかった。親指で拡大し、画面の端から端までゆっくりと動かし、また縮めて全体を見た。
「これ、どこ」
「駅裏の、商店街から一本入ったとこ。六月の最初の土曜の夜」
「……どっちにも行ってないんだ」
「うん。行く前に撮った」
蒼井は画面から目を上げずに言った。
「ここ、手前に写ってるの、里美さんの傘?」
「気づいた?」
「気づくよ。これがあるから、見てる人が、ここに立ってる気がするんだ」
蒼井はカメラを里美に返した。返す手が、画面を名残惜しそうに見ていた。
「これ、写真展に出すでしょ」
「出す。森さんにも、まだ見せてない。最初に見せるの、蒼井くんって決めてたから」
蒼井の顔から、表情が抜けた。
里美はカメラを膝の上に置き、両手でその上を覆った。
「帰ってきたら、写真を見せてって言ったでしょ。だから、見せた。それで、これからも、見せたいの。撮ってきたもの、全部。蒼井くんと一緒にいたい」
コーヒースタンドの店員が、奥で椅子を机に上げ始めていた。蒼井は、しばらく口を開けたまま里美を見ていた。
「……俺、今、すげえ顔してると思う」
「してる」
「撮らないでください」
「撮らない。冷めるから」
蒼井は吹き出し、それから、両手で顔を覆った。指の間から、長い息が漏れた。
「お金のことも、結婚のことも、これから一緒に考えるんでしょ」
「考える。ちゃんと、考える」
「それと、遅刻は考えるだけじゃだめ。直して」
「……はい。努力します」
「今日も十四分」
「エスカレーターのせいです」
里美が笑い、蒼井も顔から手を下ろして笑った。店員が、申し訳なさそうに、閉店ですと声をかけた。蒼井は段ボールを抱え上げ、里美はリュックの肩紐を片方持ってやった。重かった。二人で、よろけながら地上への階段を上った。
翌週の日曜、里美は真由の家を訪ねた。
リビングの床いっぱいに、ひなたの画用紙とクレヨンが散らばっていた。拓也はひなたを連れて公園に行くところで、玄関で里美に会釈をして出ていった。真由は二人分の麦茶をグラスに注ぎ、ソファに沈み込むように座った。
「で?」
「うん」
里美は、武田に会ったこと、蒼井を駅で待ったことを話した。真由は途中で一度も口を挟まず、最後まで聞いた。聞き終えると、天井を見上げて、長く息を吐いた。
「そっちかぁ」
それから、声を上げて笑った。
「いや、わかってたけどね。この前電話で、武田さんの話してるときと、蒼井くんの話してるときで、里美の声の高さが違ったもん」
「嘘」
「ほんと。蒼井くんのときだけ、半音高い」
真由は麦茶を一口飲み、グラスをテーブルに置いた。
「私なら武田さんって言ってたと思う。今でも、蒼井くん、来月の家賃大丈夫なの、って心配はするよ。何回でも言う」
「言って」
「言う。で、もし泣かされたら、うちに来な。拓也にカレー作らせるから」
真由は、床に落ちていたクレヨンを一本拾い、手の中で転がした。
「私さ、この前、ひなたの保育園の写真をアルバムにしてて気づいたの。この三年分、私が写ってる写真、ほとんどないんだよね。全部、私が撮ってるから」
里美は、鞄の中のカメラに手を伸ばした。
「真由。そこ、座ってて」
「え、何」
「動かないで」
里美はカメラを構えた。窓からの光が、真由の横顔と、散らかった画用紙の上に落ちていた。真由は、やめてよ、すっぴんだよ、と言いながら、クレヨンを持った手で顔を隠しかけて、途中で笑い出した。
その笑った瞬間に、里美はシャッターを切った。
七月の第三週、区民ギャラリーの白い壁に、ひだまり写真会の三十六点が並んだ。
里美の二点は、入口から三つ目の壁に並べて掛けられた。左が、真由の写真だった。散らかった画用紙の上で、クレヨンを持った手を半分上げ、目を細めて笑っている。題は「日曜の午後」。右が、分かれ道の写真だった。題は「雨の夜、手前で」とつけた。
初日の火曜の夕方、展示の最終確認に来た森が、里美の二点の前で足を止めた。老眼鏡を額に上げ、しばらく黙って見ていた。
「田中さん、ここに立ったんだね」
森は、分かれ道の写真の、手前に写り込んだ傘の先を指さした。
森はしばらく黙って見てから、もう一度、手前の傘の先を指した。「右も左もちゃんと写ってるのに、目が戻ってくるのはここだな」
森は老眼鏡を鼻に戻した。
「いい場所に立ったよ」
それだけ言って、森は隣の壁のほうへ歩いていった。久保恵子が、受付の机から身を乗り出して、よかったわねえ、と里美に向かって口の形だけで言った。
蒼井が来たのは、その週の土曜だった。約束の二時を十五分過ぎていた。
「すみません。いや、今日は家は時間通りに出たんです。出たんですけど、途中で、いい感じの錆びたトタン塀があって」
「撮ってたのね」
「撮ってました」
蒼井の二点は、奥の壁にあった。一点は、白髪の男性が、ガラス戸の前に立つ写真だった。看板の影は、顔にかかっていなかった。もう一点は、空っぽになった撮影室で、壁に一枚だけ残った背景紙に、窓からの光が斜めに差している写真だった。
蒼井は、自分の写真の前にはほとんど立たなかった。里美の分かれ道の前に立ち、腕を組んで、長いこと動かなかった。後ろを通る客が、二人を避けて歩いた。
「何度見ても、いい」
「何度目?」
「駅で見て、そのあと写真展の搬入の日に見て、今日で三度目。でも、紙になると全然違う。水たまりの黒が、ちゃんと黒い」
最終日の日曜、閉館の五時を過ぎると、会員たちが壁から作品を下ろし始めた。里美は自分の二点を外して、額を布で包んだ。受付の片付けをしていた久保さんが、里美を呼んだ。
「里美さん、これ。今年の芳名帳。森さんが、皆さんに回してって」
里美は受付の椅子に座り、芳名帳をめくった。区内の住所がほとんどだった。会員の家族の名前、近所の人の名前、写真について一言添えてあるもの。真由の丸っこい字で「日曜の午後、額に入れて返してください。小野寺」とあり、里美は声を殺して笑った。
木曜の日付のページに、一行だけ、見覚えのある字があった。
細い、罫線にきちんと沿った、定規で引いたような字だった。
「いい写真でした。武田」
名前以外に、住所も連絡先もなかった。どの写真とも書いていなかった。木曜の、昼の十二時台の時間帯に記帳した人たちの名前に挟まれていた。会社から区民ギャラリーまでは、電車で二十分かかる。
里美は、その一行の上に指を置いた。指の下で、紙がかすかにへこんでいた。強く書いたのだと思った。
久保さんが、どうしたの、と聞いた。
「いいえ。何でも」
里美は芳名帳を閉じ、久保さんに返した。
七月最後の土曜の朝、気象台が関東甲信の梅雨明けを発表した。
その日の午後、里美と蒼井は、三崎口の駅からバスに乗った。半島の先に向かう道は、両側がキャベツ畑と、ところどころに古い平屋の並ぶ集落だった。窓を開けると、土の匂いのあとに、潮の匂いが混ざって入ってきた。
終点で降りて、坂を下ると、古い漁港があった。
蒼井が何年も撮りたいと言い続けていた場所だった。コンクリートの岸壁は角が欠け、係留柱は赤茶色に錆びて、ロープの跡が幾筋も擦れていた。岸壁の端に木造の倉庫が並び、壁の板の隙間から、中に積まれた網の緑色がのぞいていた。小さな漁船が十艘ほど、船首を揃えて舫われていた。どの船にも、手書きの船名があった。岸壁の日陰で、猫が一匹、腹を見せて寝ていた。
「ここ。ここなんです」
蒼井は岸壁の端に立ち、両腕を広げた。
「子どものころ、店の奥の引き出しで、この港の写真を見つけたんです。親父の師匠がこの町の人で、その人のお墓参りに来たとき、親父、墓参りそっちのけで、ずっとこの港撮ってたらしくて。何十枚も。俺、それ見て、なんでこんなとこばっかりって思ってた」
「それで、撮りたかったんだ」
「親父が何撮ってたのか、今ならわかる気がして」
日が西に傾き始めていた。港の入口の向こうで、海が橙色に染まり、防波堤に寄せる波が、白く砕けては引いていった。
蒼井は三脚を立て、防波堤と、その向こうの夕日と、手前の漁船を一枚に収める位置を探した。何度も三脚を持ち上げては半歩動かし、また下ろした。里美も隣で三脚を立てた。
蒼井が一枚撮り、背面の画面を見て、首をかしげた。
「うーん。波がうるさい」
里美は蒼井の画面をのぞき込んだ。防波堤に当たって砕けた波が、細かい飛沫のまま止まっていた。きれいだったが、画面全体が落ち着かなかった。
「シャッタースピード、もう少し落としてみたら? 波の動きがもっと滑らかに写るよ」
蒼井が、里美の顔を見た。
「絞り込んで、感度を一番下にして。二秒とか、四秒とか。そしたら、波が煙みたいになるから」
「なるほど!」
蒼井の声が港に響き、日陰の猫が片目を開けた。蒼井は子どものように三脚の前にしゃがみ込み、ダイヤルを回し始めた。回しすぎて、戻して、また回した。
「四秒。いきます」
シャッターの開く音がした。一、二、三、四。閉じる音がした。
蒼井は背面の画面を見て、しばらく黙った。それから、画面を里美のほうへ向けた。
防波堤に寄せる波が、白い霧のようにほどけて、岩の上に薄く広がっていた。漁船の輪郭だけがくっきりと残り、その向こうの空と海が、一つの橙色に溶けていた。
「……里美さん。これ」
「いいじゃない」
「いい。すげえいい。親父に送る」
蒼井はもう一枚撮るために三脚に向き直り、それから、思い出したように振り返った。
「里美さんのも見せて」
里美は自分のファインダーをのぞいた。
蒼井のカメラより右、二歩ぶん寄った位置だった。防波堤と夕日と漁船の手前に、岸壁の端に立つ蒼井の背中と、三脚の脚の影が入っていた。潮風が吹いて、里美の前髪がファインダーの縁にかかった。指で払い、もう一度のぞいた。
蒼井が、三脚の前で、次のシャッターを押そうと身をかがめていた。
里美は、シャッターのボタンに指をかけた。波が防波堤に寄せて、白く崩れ始めた。




