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雨のち、分かれ道  作者: 久遠 睦


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第八章 平日のデスク、週末のファインダー

九月の第二火曜日、午前十時。九階の第三会議室はブラインドが半分下りていて、ホワイトボードのあたりだけが白く明るかった。

ボードの右上には、先週の会議で誰かが書いた「秋特集 十月一日公開」という文字が消されずに残っている。その下には何も書かれていない。

「秋の特集だけど」

飯島課長がマーカーのキャップを外し、また嵌めた。

「去年と同じ形、新作をカテゴリ別に並べて、読みものを二本つける。それでいいなら、それでいく。ほかに案がある人」

誰も口を開かなかった。空調が低くうなり、向かいの席で内藤さんがノートパソコンのトラックパッドを指でなぞる音がした。隣の杏奈は手帳を開いたまま、ペン先を紙の上で止めている。飯島課長は腕時計を見た。

里美はテーブルの木目を見ていた。見ているうちに、別の紙のことを思い出した。お盆休みの朝、机に向かって、水色のノートに書いたボールペンの字。インクがかすれて、二回なぞった「二」の字。

――二、仕事で、自分から手を挙げる。

右手が上がった。肩の高さまでしか上がらなかった。

「田中さん」

飯島課長が眉を上げた。杏奈がこちらを向くのがわかった。里美は手を下ろし、膝の上で指を組んだ。準備してきたわけではなかった。ただ、この二か月、毎朝レビューの確認をしながら何度も考えていたことがあった。

「お客さまのレビューに、写真をつけてくださる方が増えてるんです。その写真を見てると、商品より、置いてある場所のほうが気になるときがあって」

「場所」

「窓辺に湯のみが一個だけ置いてあったり、椅子の背にひざ掛けが掛かってて、その向こうにベランダの洗濯物が写ってたり。商品の写真としては使えないんですけど、なんだか、その人の部屋のいちばんいいところを見せてもらってる気がして」

言いながら、自分の声がどこへ向かっているのかわからなくなりかけた。里美は息を吸い直した。

「秋の特集を、お客さまの投稿写真で作れないでしょうか。題は、わたしの部屋の、いちばん好きな場所。うちの商品が写っていなくてもいい。その場所を見せてもらって、こちらが、そこに合いそうなものを添えていく形で」

飯島課長はしばらく黙っていた。それから眼鏡を外し、レンズをシャツの裾で拭いた。

「二年前に、レシピ募集をやったの覚えてる? うちの土鍋で作った料理を送ってください、ってやつ」

「はい」

「二週間で九件。そのうち三件は社員の家族だった。うちのお客さんは、見る人ではあっても、上げる人じゃないんだよ。公開日にページが空っぽだったら、どうする」

もっともだった。里美は反論の言葉を探し、見つからないまま口を開いた。

「金曜の朝までに、数字を持ってきます。それで判断していただけませんか」

飯島課長は眼鏡をかけ直し、ボードの空白を見て、それから里美を見た。

「金曜の朝十時。それで無理なら、去年の形でいく」

会議が終わって廊下に出ると、杏奈が後ろから追いついてきた。

「田中さん、手、挙げてましたね」

「挙げてたね」

「びっくりしました。わたし、なんか、ちょっと感動しちゃって。数字って何を出すんですか。手伝います」

里美は歩きながら、頭の中でやることを並べた。写真付きレビューの件数を月ごとに。購入後アンケートの自由記述。それから、二年前のレシピ募集が何を間違えたのか。

その夜、フロアに残ったのは二人だけだった。

写真付きレビューは、今年の一月から八月までで月平均三十八件あった。去年の同じ時期は十六件。倍以上に増えていた。問題はアンケートのほうで、自由記述が千二百四件ある。「部屋」「置き場所」「窓」「棚」で検索をかけると、三百件を超えた。

「田中さん、これ、部屋着を引いちゃってます」

杏奈が画面を指さして笑った。「部屋着みたいに肌ざわりがいい」という感想が、何十件も混じっていた。結局、検索で拾ったものを一件ずつ読むことになった。杏奈がコンビニで買ってきたおにぎりを、キーボードの横で食べた。杏奈は明太子、里美は鮭だった。

「この人、『棚のいちばん上の、手が届かないところに飾ってます』って書いてる」

「使ってないじゃん」

「使ってないですね。でも、いちばん上に置いてくれてる」

十一時近くまでかかって、場所について書いている回答は二百六十八件だとわかった。全体の二割強。里美はそれを表にし、二年前のレシピ募集との違いを一枚にまとめた。料理は作る手間がかかり、失敗したものは送れない。部屋の一角なら、いまそこにある。スマートフォンを向ければ終わる。

金曜の朝、飯島課長は里美の資料を二枚めくり、一枚目に戻った。赤ペンで「268」の数字に丸をつけた。

「集まらなかったときの手当ては」

「募集開始を九月十六日にします。二十四日の時点で八十件に届いていなければ、特集ページの後半を新作の紹介に差し替えます。前半だけでも、投稿が三十件あれば一画面は組めます」

「景品は」

「自社の商品券を三十名さまに。販促費の範囲内です」

飯島課長はペンを置いた。

「八十件って、自分で言ったね」

「はい」

「じゃあ、やってみよう」

九月十六日の正午に、投稿の受け付けが始まった。

最初の一週間で集まったのは二十三件だった。

里美は毎朝、投稿の管理画面を開く前に一度深呼吸をするようになった。二十三件のうち四件はピントが合っておらず、一件は猫しか写っていなかった。福岡の女性が、自宅の玄関の同じ棚を、朝と昼と夜の三回に分けて送ってきていた。棚の上には鍵を入れる小皿と、乾いた紫陽花が一輪。三枚とも光が違っていて、里美はそれを嫌いになれなかったが、件数としては一人だった。

その週の金曜の夜、里美は部屋の床に座って、スマートフォンで管理画面を開いたり閉じたりしていた。夕食に茹でたうどんは、半分残したまま器の中で伸びていた。二十三。数字は、何度開いても二十三だった。八十件と言ったのは自分だった。去年の形でいけば、誰も困らなかった。手を挙げなければ、今ごろは新作の撮影の段取りをして、定時に帰っていた。

テレビ台の下の段に、お盆に書いたノートが挟まっている。里美はそれを引き出しかけて、やめた。代わりに、器を流しに運んで、うどんを捨てた。

翌週の月曜の朝、杏奈が一枚の紙を持って里美の席に来た。

「これ、どうですか。発送の箱に入れるカード」

はがきより一回り小さい紙に、特集の題と投稿の方法が刷ってあった。題の横に、杏奈が自分で撮ったという、自室の本棚の角の写真が小さく入っている。

「物流の倉田さんに聞いたら、明日出荷の分から入れられるって。一日四百箱くらいだそうです」

「いつ作ったの、これ」

「土曜に、家で」

その日の昼休み、二人は会議室のテーブルで、プリンターから出てきた厚紙を裁断機で切った。四百枚を切り終えるころには、杏奈の人差し指の腹に紙の粉が白くついていた。

同じ日の午後、里美は昼休みの続きのつもりでフロアを回った。

物流部の倉田さんは五十代の半ばで、ベランダで盆栽を育てていると前に聞いたことがあった。

「社員の方の写真は、景品の対象外になっちゃうんですけど、スタッフのいちばん、っていう別の枠を作りたくて」

倉田さんは弁当の蓋を閉じ、スマートフォンを出して、黒松の小さな鉢の写真を十枚ほど見せてくれた。

「どれがいい? こっちは朝で、こっちは雨上がり」

経理の三好さんは、北向きの窓の前に置いた古いミシンの写真をくれた。祖母のものだという。社長室の秘書は、自分の机ではなく、実家の縁側を送ってきた。

それとは別に、里美は去年から今年にかけて写真付きのレビューを書いてくれた二百十二人に、一通ずつメールを書いた。定型の文面に、一行だけ、その人のレビューについての言葉を足した。ひざ掛けを猫に取られたと書いてくれた人には、猫の場所でもかまいません、と書いた。棚のいちばん上に飾っていると書いた人には、あの棚を見せてもらえませんか、と書いた。二百十二行を書き終えたのは火曜の夜で、目の奥が熱かった。

二十四日の締めの時点で、投稿は九十七件になっていた。

夕方、飯島課長が里美の後ろを通りかかり、画面の数字を見て足を止めた。

「九十七」

それだけ言って、課長は給湯室のほうへ歩いていった。戻ってきたとき、手には紙コップが二つあって、一つを里美の机に置いた。緑茶だった。

その週の土曜日、里美はクリーニング屋の帰りに、町会の掲示板の前で足を止めた。

防災訓練の案内と、盆踊りの礼状と、迷い猫の貼り紙の間に、手書きのチラシが一枚、画鋲で留められていた。

――ひだまり写真会 会員募集。初心者歓迎。第二・第四日曜、午前。会費 月五百円。

チラシの半分は写真だった。どこかの石段で丸くなっている三毛猫。背中にだけ日が当たっていて、毛の一本一本が光っていた。下に電話番号と、「森」という名前。

部屋に帰ってからも、里美はしばらく電話をかけなかった。夕方、洗濯物を取り込み終えたところで、ようやく番号を押した。呼び出し音が六回鳴って、年配の男性の声がした。

「はい、森です」

「あの、掲示板のチラシを見て」

「ああ、はい、はい。カメラはお持ちですか」

「中古の一眼レフを、先月買ったばかりで。まだ、ほとんど何も」

「それなら、ちょうどいい」

森はそれだけ言って、明日の集合場所と時間を告げた。

その夜、里美はカメラの説明書を床に広げた。光陽堂の店主が帰りぎわに一緒に渡してくれたもので、前の持ち主が折った跡が何か所かついていた。露出補正の頁の角が、とくに深く折られていた。里美は電池を充電器に差し、ストラップの金具のねじれを直し、レンズの前玉を眼鏡拭きで拭いた。目覚ましを七時にかけて、一度消して、六時半にかけ直した。

九月二十八日、日曜日。林試の森公園の西門に、九時半の十分前に着いた。

すでに六人が集まっていた。その真ん中に、白髪を短く刈った痩せた老人が、首からカメラを二台下げて立っていた。一台は里美のものよりずっと古く、角の塗装がはげて地金が見えていた。

「田中さん? 森です」

電話と同じ声だった。日に焼けた手を差し出され、里美はその手を握った。乾いていて、硬かった。

「帽子は?」

横から声がして、振り向くと、五十代くらいの女性がつばの広い帽子の下からこちらを見ていた。

「今日、晴れるわよ。九月だって油断すると焼けるんだから。はい、これ予備。返さなくていいから」

押しつけられたのは、紺色のサンバイザーだった。

「久保です。久保恵子。この会の、なんていうの、雑用係? 塩飴もあるからね。ほしくなったら言って」

塩谷さんという七十代の男性は元郵便局員で、花しか撮らないのだと久保さんが耳打ちした。大学生の岩田くんは、里美と同じくらいの年の古いカメラを持っていた。

森がその日の題を告げた。

「秋のはじまり。十一時半に東屋に集合。それまでは好きに歩いて」

それだけだった。会員たちはばらばらに散っていき、里美は一人で残された。

園内の林の縁に、彼岸花が群れて咲いていた。里美はその前にしゃがみ、ファインダーを覗いた。赤い花が、ファインダーの真ん中に収まった。シャッターを切り、背面の画面で確かめた。花は写っていた。それだけだった。空が真っ白に飛んで、花は通販の商品写真のように、ただそこにあった。

もう一枚撮り、もう一枚撮った。画面で見るたびに、消去のボタンを押した。少し離れたところで塩谷さんが地面に膝をつき、長いこと動かずにいて、それから一度だけシャッターを切った。その音が、里美には自信のある音に聞こえた。自分のシャッター音は、言い訳のように続けて鳴った。

設定の画面を開いた。絞り、シャッタースピード、感度。光陽堂の店主に教わった三つの言葉は覚えていても、どれをどちらに回せばいいのか、指が迷った。説明書は家に置いてきた。スマートフォンで調べようとして、それも違う気がしてやめた。

気がつくと、森がすぐそばに立っていた。

「見せて」

里美は画面を差し出した。森は老眼鏡を額から下ろし、何も言わずに見た。花が真ん中に写っている写真を。

「どこから撮った?」

「ここからです」

「そうだね。みんな、ここから撮る」

森は老眼鏡を額に戻し、彼岸花の群れの向こう側、林のほうへ下りていく斜面を指さした。

「写真は、何を撮ったかより、どこに立ったかだよ」

それだけ言って、森は歩いていってしまった。

里美は斜面を下りた。靴の裏で落ち葉が滑った。下から見上げると、彼岸花の向こうに木々の葉があり、その隙間から日が差していた。花びらの細い一本一本が、日を透かして、内側から明るくなっていた。里美は地面に片膝をつき、ジーンズが湿るのもかまわずに、ファインダーを覗いた。

十一時半、東屋のベンチに八人が並んだ。講評会といっても、それぞれが二枚ずつ選んで、カメラの背面の画面を隣に回していくだけだった。

塩谷さんの一枚は、彼岸花の蕊の先についた水滴に、空が丸く映り込んでいた。岩田くんは、誰も座っていないベンチの影を撮っていた。久保さんは、池の鯉に餌をやる子どもの後ろ姿で、その子の片方の靴下がずり落ちていた。回ってくるたびに、誰かが「いいねえ」と言い、誰かが「これ、どうやって撮ったの」と訊いた。

里美のカメラが回っていくのを、里美は膝の上で手を握って見ていた。

「あら」

久保さんが画面を傾けた。

「これ、花が自分で光ってるみたい」

塩谷さんが覗き込み、うなずいた。岩田くんは「逆光、いいっすね」と言った。最後にカメラを受け取った森が、老眼鏡を下ろして長く見た。

「ピントは来てない」

里美は顔が熱くなるのを感じた。

「でも、立った場所はいい」

森はカメラを里美に返した。久保さんが里美の手に塩飴を一つ握らせた。

解散の前に、久保さんが大学ノートを一冊取り出した。表紙に油性ペンで「出席帳」と書いてあり、角が丸くすり減っていた。開くと、日付の下に会員の名前が縦に並んでいる。森、塩谷、久保、岩田。何年分もの名前があり、途中で書かれなくなった名前もあった。

「次も来るなら、ここに名前書いといて。来ないならそれでもいいのよ、無理に誘うと続かないから」

久保さんはそう言いながら、もうボールペンのキャップを外して差し出していた。里美は「田中」と書き、少し考えて、下の名前も書き足した。

「里美さんね。次は十月の第二日曜。谷中を歩くの。坂が多いから、靴だけはちゃんとしたの履いてきて」

久保さんは里美の足元のスニーカーを見て、これなら大丈夫、とうなずいた。サンバイザーを返そうとすると、手のひらで押し戻された。

帰りの電車で、里美は膝の上のカメラの画面を何度も点けた。ピントの来ていない、赤い花の写真。消去のボタンには指を置かなかった。

九月三十日の深夜零時に、投稿の受け付けを締め切った。百八十六件だった。

十月一日の朝、特集ページが公開された。九十件の写真を選び、それぞれの横に、その場所に合いそうな商品を一つずつ添えた。スタッフのいちばんの枠には、倉田さんの黒松と、三好さんの祖母のミシンが並んだ。

一週間後、数字が出た。特集ページの閲覧は、去年の秋特集の同じ期間と比べて一・四倍。特集ページを経由した売上は二百十四万円で、去年は百五十八万円だった。社内の報告書の中では、目立つ数字ではなかった。里美はその表を三回見直した。

十月八日、水曜日の夕方。里美がデスクで投稿者への礼状の文面を直していると、机の端に紙が一枚置かれた。

見上げると、飯島課長だった。置かれたのは、里美が朝に出した週次の報告書で、閲覧数と売上の欄に赤い丸がついていた。

「レシピ募集、九件だったって言ったでしょ」

「はい」

「あれ、俺の企画だったんだよ」

飯島課長はそう言って、報告書の余白を指で叩いた。

「正直に言うと、今回のも、通らないと思ってた。八十件って聞いたとき、半分も行かないだろうって」

里美は何と返せばいいかわからず、ただ報告書を見ていた。

「来週の部会、この報告は田中さんからやって。俺じゃなくて」

飯島課長は自分の席に戻っていった。途中で振り返り、「礼状、手書きにするなら、切手代は販促費で落としていいから」と言った。

杏奈が隣の席から身を乗り出し、声を出さずに口の形だけで何か言った。やりましたね、と読めた。

里美は画面に特集ページを開いた。いちばん多く閲覧されたのは、群馬県の七十二歳の女性が送ってくれた一枚だった。障子の桟の影が落ちる窓辺に、一輪挿しが一つ。挿してあるのは、庭で摘んだらしい水引草で、赤い小さな粒が細い茎に点々とついている。添えられた言葉は短かった。

――朝、ここに座ってお茶を飲みます。夫がいたころは、ここは夫の場所でした。

里美はその写真を拡大した。窓辺は少し見上げる角度で写っていて、手前の畳の目が、ぼやけながら画面の下の縁を横切っていた。畳に座った人の目の高さから、撮られていた。



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