第七章 私自身への約束
八月十二日の夜、母からメッセージが来た。
『お盆はどうするの。お父さんが、里美はいつ来るのかって』
里美はソファの上で膝を抱えたまま、しばらくその文面を見ていた。
去年のお盆は、健太の実家で三泊した。今年も健太は、十三日から来いと母親に言われたと言っていた。里美の実家には、もう二年、夏に帰っていなかった。今年は、どちらの家に先に行くかを決める人がいなかった。
『今年は帰らない。仕事がちょっと立て込んでて。秋の連休に行くね』
仕事は、立て込んでいなかった。会社は十三日から十六日まで休みで、里美には予定が一つもなかった。
『わかった。暑いから体に気をつけてね』
里美は、スタンプを一つだけ返した。お辞儀をしている猫の絵だった。
十三日の朝、里美は九時まで眠った。
目が覚めて、今日が何曜日かを考えて、それが関係ないことに気づいた。窓の外では、蝉がもう鳴いていた。
トーストを焼き、コーヒーを淹れて、机の前に座った。机の上には、銀色のコンパクトカメラが、先月置いたときのまま置いてあった。
引き出しを開けて、ノートを探した。奥から出てきたのは、水色の表紙の、ごく普通の大学ノートだった。最初の三ページに、自分の字で何か書いてあった。去年の年末の買い物リストだった。「餅(健太は切り餅)」「おせち予約(健太の実家の分も)」「ビール二箱」。括弧の中に、健太の名前が何度も出てきた。
里美はその三ページを、綴じ目に沿って、ゆっくり破り取った。
四ページ目の、何も書いていない白い面を開いた。
ボールペンを持った。
何を書くのか、決めていたわけではなかった。ただ、先週、会社のパソコンで次の四半期の施策を箇条書きにしているときに、自分のことを箇条書きにしたことが一度もないと気づいた。それだけだった。
一行目に、「一、」と書いた。
その後が続かなかった。
痩せる、と書いた。書いてから、誰のためにかと考えた。岸本の、必要以上にうなずく顔が浮かんだ。線を引いて消した。
英会話、と書いた。会社で、海外の工房との取引が増えるという話が出ていた。けれど、英会話を習いたいと思ったことは一度もなかった。線を引いた。
ペンの尻で、こめかみを押した。
夜、ベッドの上で膝を抱えていると、自分の体が固まっているような感じがすることがあった。肩も、背中も、首も、ずっと何かを持ち上げたまま下ろせずにいるような。駅前の商店街に、半年前にヨガのスタジオができていた。通勤の行き帰りに、二階の窓越しに、薄暗い部屋で何人もの人が同じ姿勢で手を伸ばしているのを見上げていた。
「一、毎朝ヨガ」と書いた。
毎朝、という字を見て、無理だと思った。毎朝行けなかったら、自分はきっと、行けなかった朝のことを数えはじめる。
毎、の字に線を引いて、書き直した。
一、朝、ヨガに行く
まだ何か足りない気がした。ペンの先をしばらく紙の上に浮かせてから、括弧を足した。
一、朝、ヨガに行く(続かなくてもいい)
括弧の中の字は、外の字より細くなった。
二行目は、それより早く出てきた。
「二、昇進」と書いて、すぐ消した。昇進は、自分で決められるものではなかった。
飯島課長の顔を思い出した。毎月の定例会議の最後に、課長は必ず「ほかに何かある人」と聞く。そのたびに、里美は手元の資料に目を落とした。言いたいことがないわけではなかった。去年の秋の特集ページの構成も、本当は別の案を持っていた。会議用のノートの端に書いたまま、誰にも見せなかった。
二、仕事で、自分から手を挙げる
書いて、ペンを止めた。手を挙げる、という言葉が小学校の教室みたいで、恥ずかしかった。けれど、ほかの言い方が見つからなかった。消さずに残した。
三行目を書く前に、机の上のカメラを見た。
手を伸ばして、電源を入れた。レンズが伸びた。背面の液晶に、七年前の伊豆の海が出た。何度か見返しているうちに充電はまた減っていて、電池の印が一本だけ点滅していた。
先月、久しぶりに電源を入れたときから、ズームのレバーを動かすと、レンズの奥で何かが引っかかるような音がしていた。ピントが合うまでにも時間がかかった。七年、押入れの暗がりにいたのだ。
それに、と里美は思った。このカメラは、あの吊り橋までのカメラだった。
三、カメラを買う。
句点を打って、ペンを置きかけた。
カメラを買って、何を撮るのか。仕事の商品写真なら、会社のカメラがある。旅行の記録なら、スマートフォンで足りる。健太の声が、どこかで「景色なんか」と言いかけた。
里美はペンを取り直して、句点のあとに続けた。
撮りたいものを撮る
三行を、上から読んだ。
一、朝、ヨガに行く(続かなくてもいい)
二、仕事で、自分から手を挙げる
三、カメラを買う。撮りたいものを撮る
四行目に、「四、」と書いた。
しばらく待ったが、何も出てこなかった。消しゴムがなかったので、四の字をぐるぐると塗りつぶした。黒い塊が、三行の下に残った。
里美はノートを閉じ、表紙の上に手のひらを置いた。それから、スマートフォンで駅前のヨガスタジオの名前を検索した。お盆期間限定、朝七時の体験レッスン、千円。明日の枠に、残り二名と出ていた。
予約のボタンを押す前に、一度、指が止まった。
押した。
十四日の朝、六時にアラームが鳴った。
スタジオは、駅前の商店街の、クリーニング店の二階にあった。狭い階段を上がると、受付に、白いシャツの女性が座っていた。四十代の半ばくらいで、日に焼けた腕が細く、髪を短く刈り込んでいた。
「体験の田中さん? 水野です。今日担当します」
「よろしくお願いします」
「マット、持ってきました?」
里美は手ぶらだった。予約確認のメールに、マットは持参、レンタルは三百円と書いてあったのを、今になって思い出した。
「……借ります」
「はい、三百円ね」
水野は笑って、壁際の棚から、丸めた紫色のマットを一本抜いてくれた。
部屋は窓にすだれが下ろされていて、薄暗かった。床に、もう七、八人がマットを敷いて座っていた。里美は、いちばん後ろの列の端に、借りたマットを広げた。マットは端が丸まって、なかなか平らにならなかった。両手で押さえていると、隣から声がした。
「逆に巻くといいのよ、それ」
隣のマットに、白髪をきれいにまとめた、七十近くに見える女性が座っていた。鮮やかな蛍光の黄緑色のレギンスを穿いていた。
「逆、ですか」
「丸まってるのと反対に、一回巻いて。ほら」
女性は手を伸ばして、里美のマットを手早く逆向きに巻き、広げ直した。マットは平らになった。
「ありがとうございます」
「佐伯です。ここ、五年目」
「田中です。今日、初めてで」
「わかるわよ。みんな、最初は後ろの端に座るの」
佐伯はそう言って、自分のマットの上であぐらをかき、目を閉じた。
レッスンが始まった。水野の声は低く、よく通った。
「鼻から吸って。口から、長く吐いて」
最初の十分は、呼吸だけだった。里美は、自分がいつもどれだけ浅く息をしているのかを知った。吸おうとすると、胸の上のほうで空気が止まった。
それから、体を動かしはじめた。
四つん這いから腰を高く上げて、体で三角形を作る。水野が「下向きの犬」と呼んだ姿勢で、里美のかかとは床から遠く浮いたまま、どうやっても下りなかった。太ももの裏が、ぴりぴりと引きつった。腕が震えた。
その姿勢のまま、全員で五回、深く呼吸をした。
三回目の呼吸のとき、里美の腹が鳴った。
長く、低く、ぐうううう、と鳴った。部屋には、すだれ越しの蝉の声と、全員の呼吸の音しかなかったので、腹の音は隅々まで届いた。
前の列の誰かの肩が、震えた。
里美は下を向いたまま、顔が熱くなるのを感じた。朝食を抜いてきたのだった。ヨガの前は食べないほうがいいと、どこかで読んだから。
隣で、佐伯が、ぶふっと息を漏らした。
「ごめんなさい」
佐伯は犬の姿勢のまま、小声で言った。
「私も最初の日、鳴った。三回」
水野が、前から言った。
「お腹の音も呼吸のうちでーす。はい、膝を下ろして」
部屋のあちこちで、笑いが起きた。里美も、膝を下ろしながら笑ってしまった。笑うと、腹がもう一度鳴った。
片足で立つ木の姿勢では、三秒ももたなかった。右足の裏を左の太ももの内側に当てて、両手を胸の前で合わせる。その形にしたとたん、体が右に傾いて、里美はとっさに隣の佐伯の肩をつかんだ。
「すみません」
「いいのいいの。つかまって、つかまって」
佐伯はびくともしなかった。蛍光色の脚が、床に根を張ったようにまっすぐ立っていた。
「目線をね、一点に置くの。動かないものに。あそこの、コンセントとか」
里美は、壁の下のほうのコンセントを見た。白いプラスチックの、二つ穴のコンセント。それだけを見ていると、体の揺れがわずかに収まった。五秒立てた。六秒目で、また傾いた。
最後は、仰向けに寝て、手足を投げ出す姿勢だった。
「全部、床に預けてください。頭の重さも、背中の重さも」
水野の声が、遠くなった。すだれの隙間から、細い光が一本、天井に伸びていた。蝉が鳴いていた。背中の下の床が、借り物のマット越しにひんやりしていた。
誰かが、肩を叩いた。
目を開けると、水野がしゃがんで、里美の顔をのぞき込んでいた。部屋の人は、もう半分以上がマットを丸めて立ち上がっていた。
「おはようございます」
水野が言った。
「……寝てました?」
「寝てました。いいんですよ、それで。最初はみんな寝ます。寝られない人のほうが心配」
里美は借りたマットを丸めた。丸め方がわからず、また端が跳ね上がった。
受付の前で、佐伯が水筒の麦茶を飲んでいた。
「どう、続きそう?」
「分かんないです。正直」
里美がそう言うと、佐伯は、そうでしょうね、という顔でうなずいた。
「私ね、最初の一年は、月に二回しか来てなかったの。主人の世話があったから。それでも、来た日は来た日だから」
佐伯は水筒の蓋を閉めた。
「犬の姿勢でお腹鳴らした人、久しぶりに見た。また来なさいよ。見たいから」
外に出ると、商店街の八百屋が、店先に段ボールを並べはじめていた。まだ八時半だった。空は薄く曇っていたが、雲の向こうの太陽が、アスファルトをもう温めはじめていた。
歩くたびに、太ももの裏が引きつった。明日はきっと、階段がつらい。
光陽堂には、翌日の午後に行った。
場所は知っていた。駅の裏手に出て、線路沿いの道を戻ったところにある、古い商店の並びの一軒だった。通勤の電車の窓から、毎日その看板を見ていた。ガラス戸の向こうに、黒いカメラが棚にぎっしり並んでいるのも、一度だけ前を通ったときに横目で見た。入ったことはなかった。
午後三時、ガラス戸を押すと、上のほうで鈴が鳴った。
店の中は、外より一段暗かった。古い油と、埃と、甘いような金属の匂いがした。壁の三方がガラスのケースで、どの段にも、黒いカメラと、銀色のカメラと、大小のレンズが、値札をつけて並んでいた。奥のラジオから、高校野球の中継が流れていた。
「いらっしゃい」
ケースの奥で、老人が顔を上げた。白髪を後ろに撫でつけ、この暑さの中で灰色のカーディガンを羽織っていた。片目に、筒のような拡大鏡をはめていた。手元の布の上に、分解されたレンズの部品が並んでいた。
老人は拡大鏡を外して、里美を見た。
「何か、お探し?」
「あの……カメラを、買いたくて」
言ってから、カメラ屋でカメラを買いたいと言うのは、当たり前すぎると思った。
老人は、別に笑わなかった。
「どんなのを」
「一眼レフ、の、中古で。あまり詳しくないんですけど」
「前に何か使ってた?」
里美は、バッグの中から銀色のコンパクトカメラを取り出した。なぜ持ってきたのか、自分でもよくわからなかった。家を出るときに、机の上から、つい手に取っていた。
老人はそれを受け取って、手のひらの上で裏返した。
「ああ、これ。いい機械だったね。この頃のは、よく写った」
老人は電源を入れ、液晶に出た写真を見た。宿の窓の、夕方の海だった。老人は、十字のボタンを二、三回押した。猫の写真が出た。錆びたブイの写真が出た。
「これ、あなたが撮ったの」
「はい。七年前ですけど」
老人は何も言わずに、しばらく猫の写真を見ていた。それから電源を切って、カメラを里美に返した。
「何を撮りたいの」
里美は、答えられなかった。
撮りたいものを撮る、とノートに書いた。けれど、撮りたいものが何なのかは、書かなかった。
「……わからないです」
正直に言った。
「そう」
老人は、それで十分だというようにうなずいて、ケースの鍵を開けた。
「わからないなら、重いのはやめたほうがいい。持って出ないカメラは、何も写らないから」
老人はケースの中段から二台のカメラを出して、布の上に並べた。
一台は、大きくて角ばっていて、握るところが深くえぐられていた。持たせてもらうと、腕がずしりと下がった。
「これは、仕事で撮る人が使ってたやつ。頑丈で、何でもできる。でも、あなた、これ持って一日歩けるかな」
もう一台は、それより一回り小さく、黒い表面の角が、使い込まれて白っぽく擦れていた。
「こっちは、十年くらい前の、入門用。前の持ち主が大事に使ってた。シャッターは、まだ何万回でも切れる」
里美は、小さいほうを両手で持った。右手の指が、握るところのくぼみに、すっと収まった。ファインダーに目を当てた。四角い窓の中に、店のガラス戸と、その向こうの線路沿いの道が見えた。コンパクトカメラの液晶とは違って、目の前の景色が、そのまま小さく切り取られていた。
「レンズは、これをつけて」
老人はケースの別の段から、太さのあるレンズを一本出して、カメラの前に、かちりとはめた。
「標準のズーム。広いほうから、ちょっと寄るくらいまで。最初は、これ一本でいい。これで撮れないものが出てきたら、そのときまた来なさい」
里美は、レンズの胴のリングを回してみた。ファインダーの中で、ガラス戸が近づいたり、遠ざかったりした。
「おいくらですか」
老人は、布の端に鉛筆で数字を書いた。
本体とレンズで、四万六千円だった。
里美は、その数字を見て黙った。
来る前に、三万円までと決めていた。三万円なら、夏のボーナスの中から使っても、誰にも何も言われない額だと思った。誰にも、と思ってから、もう何か言う人がいないことに気づいた。去年までなら、健太の「そんなの買ってどうすんの」が先に頭に浮かんで、店のガラス戸を押すことさえしなかっただろう。
「……ちょっと、考えてもいいですか」
「どうぞ」
老人は、また拡大鏡をはめて、手元の部品の続きに戻った。ラジオの中で誰かが打って、観客席がわっと沸いた。
里美はケースの前に立ったまま、布の上のカメラを見ていた。
四万六千円あれば、何が買えるか考えた。秋物のコートが一着。美容院に、三、四回。北海道への、安い往復の航空券。
美瑛の丘の写真が浮かんだ。ガイドブックの、付箋を貼ったページ。自分の目で見て、自分で撮ったことのない丘。
ガラス戸の外が、急に暗くなった。
ぱらぱらと、店の庇を叩く音がした。それがあっという間に、ざあっという音に変わった。線路沿いの道が、白く煙った。通りを歩いていた人が、走って向かいの軒下に飛び込んだ。
「夕立だね」
老人が、顔を上げずに言った。
「しばらく止まないよ。座ってたら」
老人は、ケースの脇の丸椅子を、足で押して寄越した。
里美は丸椅子に座った。雨の音が、ラジオの音を半分かき消していた。里美は布の上のカメラをもう一度手に取って、膝の上に置いた。手のひらに、金属の冷たさと、前の持ち主の手が擦り減らした部分のなめらかさが伝わってきた。
十分ほどして、里美は言った。
「これ、ください」
老人は、拡大鏡を外した。
「いいの。三万円の顔してたけど」
里美は、思わず笑った。
「……してました?」
「してた。値札見て、口がこう、なった」
老人は、口をへの字にしてみせた。
「四万五千にしとこう。ストラップは、おまけ」
老人は、ケースの下の引き出しから、黒い革のストラップを出した。新品ではなかった。
「これ、うちで昔売ったカメラについてたやつ。下取りでカメラだけ手放した人がいてね。革がいいから、捨てられなくて」
老人はストラップをカメラに通し、電池を入れ、記録用のカードの差し込み方と、電源の入れ方と、シャッターを半分押すとピントが合うことを、一度だけ、ゆっくりやってみせた。それから上のダイヤルを回して、緑色の四角い印のところに合わせた。
「最初は、ここ。全部、機械が決めてくれる。慣れてきたら、ここから外していけばいい」
財布には、三万二千円しか入っていなかった。
「すみません、下ろしてきます」
「逃げないよ、カメラは」
里美は、小降りになった雨の中を、二軒先のコンビニまで走った。戻ると、老人はカメラを紙袋に入れずに、ストラップを持って待っていた。代金を受け取ると、そのままストラップを里美の首にかけた。
「袋に入れたら、家まで出さないでしょう。首から下げて帰りなさい」
店を出ると、雨は上がっていた。
空の半分がまだ灰色で、もう半分が、洗ったように明るかった。西の雲の切れ目から低い日差しが斜めに差して、濡れたアスファルトを光らせていた。線路沿いのフェンスから、雨粒が一定の間隔でしたたっていた。蝉が、雨宿りしていた分を取り戻すように、一斉に鳴きはじめた。
首から下げたカメラが、歩くたびに胸の下で揺れて、腹に当たった。コンパクトカメラとは比べものにならない重さだった。里美は片手でカメラの底を支えて歩いた。
踏切の手前で、足が止まった。
踏切の脇に、古いコンクリートの電柱が立っていた。電柱から、何本もの電線が、道の向こうのアパートのほうへ垂れていた。その一番低い一本に、雨の滴が、びっしりと並んでぶら下がっていた。西からの日差しがその一粒一粒を横から照らして、電線は、光の粒を連ねた糸のように見えた。
里美は、カメラの電源を入れた。
ファインダーに目を当てた。四角い窓の中で、電線は細すぎて、どこにあるのかわからなかった。レンズのリングを回した。電線が近づいた。光の粒が、窓の中で膨らんだ。
シャッターボタンを、半分押した。
機械が、ぴぴっと鳴った。ファインダーの中で、何かにピントが合った。里美には、それが何なのかよく見えなかった。
踏切の警報機が鳴りはじめた。遮断機が下りてきた。電車が来る前に、と思った。滴が落ちる前に、と思った。
押し込んだ。
かしゃん、という音がした。コンパクトカメラの電子音とは違った。カメラの中で、何かが本当に跳ね上がって、落ちた。その振動が、右手の指から肘まで伝わった。
目の前を、電車が通り過ぎた。窓の明かりが、濡れた線路に流れて映った。風が、里美の前髪を持ち上げた。
遮断機が上がってから、里美はカメラの背面の液晶を見た。
写っていたのは、電線の向こうのアパートの、二階のベランダだった。物干し竿にかかった青いバスタオルが、くっきりと写っていた。電線はその手前で、ぼんやりとした灰色の筋になっていた。雨の滴は、一粒も形をとどめていなかった。そのかわり、画面の上半分に、白くて丸い淡い光の玉が、いくつも、いくつも浮かんでいた。
ピントは、バスタオルに合っていた。
里美は、液晶の中の光の玉を見ていた。削除のボタンの位置は、店で教わっていた。親指が、その上をかすめた。押さなかった。
顔を上げると、電線の滴は、さっきより数が減っていた。一粒、また一粒と、日差しの中で膨らんでは、足元の水たまりに落ちていた。
里美は、もう一度ファインダーに目を当てた。




