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雨のち、分かれ道  作者: 久遠 睦


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第六章 瓦礫の撤去

健太からメッセージが来たのは、七月二十三日の水曜、夜の十一時過ぎだった。

『日曜の二時、残りの荷物取りに行く。段ボールはこっちで持ってく』

疑問符がついていなかった。

里美はその文面を、会社でもらった試供品のルイボスティーを飲みながら読んだ。日曜の午後は、美容院の予約を入れていた。六月からずっと伸ばしたままだった髪を、ようやく切ろうと決めて、先週電話で取った予約だった。

『日曜は予定がある。土曜か、日曜の夕方以降なら』

打ってから、送信のボタンの上で指が止まった。七年のあいだ、健太が決めた日時に、里美が何かを言い返したことがあっただろうか。帰省の日程も、引っ越しの日も、友だちを呼ぶ週末も、健太が先に決めて、里美が自分の予定をずらした。

送信した。

返事は二十分後に来た。

『土曜は無理。日曜の二時で頼む。一時間で終わらせるから』

里美は長いこと画面を見ていた。それから美容院のサイトを開いて、予約変更のページを探した。翌週の土曜に空きがあった。

『わかった』

とだけ返した。

日曜は朝から晴れていた。梅雨明けが発表されて四日目で、ベランダの手すりは、九時にはもう触れないほど熱くなっていた。

里美は午前中に、健太の残りの物を部屋の真ん中に集めた。クローゼットの半分を占めていた冬物のコート。ゴルフバッグ。テレビ台の下のゲーム機と、コントローラーが二つ。本棚の二段分の漫画。洗面所の、使いかけの整髪料と、替え刃の箱。一つずつ運ぶたびに、どれが健太の物で、どれが二人の物で、どれが自分の物なのか、境界の曖昧な物が出てきた。二人で使っていたドライヤー。健太が選んで、里美が毎朝使っていたトースター。

曖昧な物は、とりあえずそのままにした。

二時になっても、インターホンは鳴らなかった。

二時十八分に鳴った。

モニターの画面に、健太の顔が映っていた。画面越しでも、髪を短く切ったのがわかった。

ドアを開けると、健太は畳んだ段ボールの束を脇に抱え、ガムテープを手首に通して立っていた。見たことのない、紺の縁取りのある白いシャツを着ていた。

「悪い、電車一本逃した」

「うん」

「……鍵、持ってんだけどさ。使っていいのか分かんなくて」

健太はそう言って、笑った。里美は笑わなかった。

「上がって」

健太は靴を脱ぎ、揃えずに上がった。いつもそうだった。里美はその靴を、いつものように揃えかけて、手を止めた。

部屋に入った健太は、真ん中に積まれた自分の物を見て、「おお」と言った。

「全部出してくれたんだ。助かる」

段ボールを組み立てる音が、部屋に響いた。健太がテープを引き出す、びいっという音。里美が箱の底を押さえ、健太が十字にテープを貼った。七年前の引っ越しの日も、こうして二人で箱を作った。あのときは、どちらが押さえるかでじゃんけんをした。

今日は、何も言わずに里美が押さえた。

漫画を詰め、冬物を詰めた。健太はコートを一枚ずつ畳まずに丸めて入れた。里美は見ないふりをした。

「これ、まだ着れるかな」

健太が、紺のダッフルコートを持ち上げて言った。

「大学のときから着てるやつ。お前、これ初めて会ったとき着てたって言ってたよな」

「言ったっけ」

「言ってたよ。飲み会の帰り、駅のホームで。俺、これ着てて」

健太は、コートの袖を眺めた。

「あの頃、お前、俺の後ろくっついてきてさ。可愛かったよな」

里美は、ゲーム機のコードを束ねる手を止めなかった。コードは長く、途中で何度も絡まっていた。

健太の声は、懐かしいものを語る柔らかさを帯びていた。部屋の空気を、昔のほうへ押し戻そうとしているのがわかった。わかったから、里美は顔を上げなかった。

「このソファもさ」

健太は、壁際のグレーのソファを顎で指した。

「二人で家具屋行って、一日中座り比べたよな。覚えてる?」

覚えていた。

里美は、からし色のソファがほしかった。店の奥に置いてあった、背の低い、布張りのものだった。座面に手を置いたとき、窓からの光が当たって、あたたかい色に見えた。これがいい、と言いかけた里美の横で、健太は「汚れ目立つだろ、それ」と言って、隣のグレーのソファにどさりと腰を下ろした。

「こっちのほうが広いし。俺、ここで寝れるわ」

それで決まった。里美は、からし色のソファの値札を一度だけ振り返った。

「……うん、覚えてる」

とだけ、里美は言った。

健太はそれを、同意だと受け取ったようだった。

「沖縄も行ったよな。三年前」

里美が行きたかったのは、北海道だった。美瑛の丘を、夏に見てみたかった。ガイドブックに付箋まで貼っていた。健太は、会社の先輩がよかったと言っていたからと、沖縄のリゾートホテルを予約した。ホテルのプールサイドで健太は一日中寝ていて、里美は隣のデッキチェアで、鞄の底に入れてきた、美瑛のページに付箋を貼ったままのガイドブックのことを考えていた。

帰省の時期も。正月は必ず健太の実家が先で、里美の実家には三日の夜に顔を出すだけだった。一度だけ、里美の祖母の具合が悪かった年に、先に自分の実家へ行きたいと言ったことがあった。健太は「うちの親、もう準備してるから」と言った。それで終わった。

一つ思い出すと、次が出てきた。引き出しを開けたら、奥にもう一つ引き出しがあったようだった。カーテンの色。週末に観る映画。外食の店。里美が「どっちでもいい」と言うのが先だったのか、健太が決めてしまうのが先だったのか、もうわからなかった。

「楽しかったよな、なんだかんだ」

健太が言った。

里美は、束ね終えたゲーム機のコードを、箱の隅に押し込んだ。

「健太」

「ん」

「一時間で終わらせるって言ってたよね」

健太は腕時計を見た。三時を過ぎていた。

「……ああ。うん。急ぐわ」

そこから先、健太はあまり喋らなかった。

洗面所の物を袋に入れ、ゴルフバッグを玄関に運び、段ボールを四つ、ドアの前に積んだ。健太が電話で頼んだ軽トラックの便利屋が、四時に下に来ることになっていた。

最後に、健太は洗面所の鏡の前で立ち止まった。洗面台のコップには、もう一本しか差さっていなかった。

「……あのさ」

健太は、鏡越しに里美を見た。

「ユイとは、もう連絡取ってないから」

里美は廊下に立ったまま、その背中を見ていた。

「聞いてないよ」

「いや、一応。言っとこうと思って」

「うん」

健太は何か続けようとしたようだった。口が一度開いて、閉じた。

玄関で、健太はスニーカーを履き、それから傘立てに目をやった。

里美の傘の隣に、紺の傘が差さっていた。六月のあの夜から、ずっとそこにあった。雨の日に出かけるたびに、里美はその傘を避けて自分の傘を抜いた。一度、急いでいて紺のほうをつかみかけたことがあった。柄の太さが違うので、握った瞬間にわかった。

「これ、俺のだよな」

健太は紺の傘を抜いた。晴れた日の午後に、傘を持って帰る人になった。

健太はそれから、ジーンズの尻のポケットからキーホルダーを出した。木彫りの小さな魚が、鍵の束の端で揺れた。七年前、伊豆の土産物屋で、里美が「これかわいい」と言って手に取ったのを、健太が買ったものだった。健太はそれに気づいているのかいないのか、慣れた手つきでリングに爪をかけ、部屋の鍵を一本、抜き取った。

「これも」

鍵は、下駄箱の上に置かれた。かちり、と、思ったより軽い音がした。

「じゃあ」

「うん」

「……元気でな」

健太はドアを開け、段ボールを一つ抱えて出ていった。便利屋の若い男が階段を上がってきて、残りの箱とゴルフバッグを運んでいった。

ドアが閉まった。

里美は、下駄箱の上の鍵を見た。自分の鍵と同じ形の、同じ刻みの鍵だった。キーホルダーも何もついていない、裸の鍵。拾い上げると、健太の体温がまだ残っているような気がしたが、指で包んでいるうちに、それが自分の手の温度なのかわからなくなった。

傘立てには、自分の傘が一本だけ差さっていた。隣が空いたぶん、傘は傘立ての中で斜めに傾いていた。

夕方の五時を過ぎても、外は明るかった。

健太の物が積まれていた場所だけ、フローリングの色が違って見えた。里美は掃除機をかけ、それから押入れの襖を開けた。

上の段の奥に、段ボール箱が一つあった。側面に、自分の字で「思い出」と書いてあった。いつ書いたのか思い出せなかった。たぶん、この部屋に越してきた最初の年だ。字が、今より丸い。

踏み台に乗って、箱を引き出した。思ったより軽かった。

蓋を開けると、埃と、古い紙の匂いがした。

一番上に、写真屋で現像した写真の束が、白い紙袋に入ったまま載っていた。付き合いはじめの頃、スマートフォンの写真を紙に焼くのを面白がっていた時期のものだった。河川敷の花火大会。浴衣を着た自分と、甚平の健太。健太の実家の犬。水族館の青い水槽の前で、健太が変な顔をしている写真。

その下に、チケットの半券が、輪ゴムでまとめてあった。映画館の半券が十枚以上。どれも、健太が観たいと言った映画だった。一枚だけ、里美が観たいと言って、健太が途中で寝てしまったフランス映画の半券があった。水族館の入場券。遊園地のフリーパスの紙の腕輪。特急の指定席券が二枚。日付は七年前の十月で、東京から伊東まで。

伊豆に行った旅だった。この部屋に越してきて、まだ半年も経っていなかった頃。

指定席券の下に、銀色の、手のひらに収まるほどの四角いものがあった。

コンパクトカメラだった。

里美はそれを両手で持ち上げた。こんなに小さかったかと思った。表面には細かい傷がいくつもついていて、レンズのカバーを開けるスライドが固くなっていた。大学に入った年に、アルバイト代で買った。

電源のボタンを押した。何も起こらなかった。

箱の底を探ると、絡まったコードと一緒に充電器が出てきた。電池を抜いて充電器に入れ、コンセントに差した。赤いランプが点いた。

ランプが緑に変わるまで、二時間ほどかかった。

そのあいだに、里美はゴミ袋を三枚出した。燃えるゴミの袋が二枚と、燃えないゴミの袋が一枚。

映画の半券を、一枚ずつ見ながら、燃えるゴミの袋に落とした。途中から見るのをやめて、輪ゴムごと落とした。フランス映画の半券だけが、指先に残った。しばらく考えて、それも落とした。

箱の中から、健太のセーターが出てきた。グレーのケーブル編み。付き合って最初の冬、健太の部屋から借りて、返しそびれたものだった。健太は自分がどこかに置き忘れたと思っていたが、本当は里美が返さなかった。袖口がすり切れていた。袋に入れた。

写真の束は、迷った。

一枚ずつめくった。健太が笑っている。自分が笑っている。二人とも、今よりずっと若い顔をしていた。その若さが、写真の中で、何かを疑いもせずに信じている顔に見えた。

里美は束の中から一枚だけ抜いた。河川敷の花火大会の写真で、健太は写っていなかった。健太が撮った、浴衣の里美が一人で、りんご飴を持って振り向いている写真だった。自分が一人で写っている写真が一枚もないと思ったのは、一週間ほど前の夜のことだった。

その一枚を机の引き出しにしまい、残りを袋に入れた。

水切りかごには、まだ健太の黒いマグカップが伏せてあった。縁の欠けたそれを新聞紙で包んで、燃えないゴミの袋に入れた。自分の白いマグは残した。一つだけになると、並んでいたときは気にならなかった、取っ手の付け根の細いひびが目についた。

遊園地の腕輪と、水族館の入場券は、どちらの袋にも入れられずに、床の上に置いたままになった。

充電器のランプが、緑になった。

電池をカメラに戻し、電源を入れた。レンズが、じいっと音を立てて伸び、背面の液晶が光った。

再生のボタンを押した。

最初の一枚は、特急の窓から撮った海だった。窓ガラスに車内の蛍光灯が映り込んで、海の上に白い線が走っていた。

次は、伊東の駅前。次は、宿へ向かうバスの窓からの、海沿いの道。次は、宿の部屋の窓から見た、夕方の海。水平線の近くに、船が一艘、影になって浮かんでいた。

里美は、十字のボタンを押して、一枚ずつ送っていった。

翌朝の写真。宿の庭の、濡れた石灯籠。朝食の、鯵の干物。健太は写っていなかった。まだ寝ていたのだ。里美は一人で早起きして、宿の周りを歩いて、目に入るものを撮っていた。石垣の上で丸まっている茶トラの猫。漁港の、網を干している柵。赤く錆びたブイが、ロープで束ねてぶら下がっている。

自分がこんなものを撮っていたことを、里美は忘れていた。

猫の写真は三枚あった。一枚目は猫が遠すぎて、二枚目は近づきすぎて顔半分が切れていて、三枚目で、猫はこちらを見ていた。朝の低い光が、猫の耳の縁を透かしていた。

城ヶ崎海岸の写真が続いた。黒い岩の崖に、白い波がぶつかっている。吊り橋の上から見下ろした、渦を巻く海。

その次の写真に、健太が写っていた。吊り橋の真ん中で手すりにもたれて、つまらなそうに海を見ている横顔。

里美は、その写真を撮った瞬間のことを、はっきり思い出した。

吊り橋は風で揺れていた。橋の上から見る岩の形が面白くて、里美は何枚も撮っていた。立ち止まっては撮り、何歩か歩いてはまた撮った。後ろを歩いていた人たちが、里美を追い越していった。

健太は先に橋を渡りきりかけて、振り返った。

「また撮ってんの?」

健太は笑っていた。からかう笑い方だった。

「景色なんか後でネットで見られるだろ」

里美は、そうだね、と言った。それから健太に向けてカメラを構えて、一枚撮った。健太は「俺撮ってどうすんだよ」と言って、顔を背けた。その背けかけた横顔が、この写真だった。

里美は、次の写真に送った。

宿に戻った夜の、健太が缶ビールを持っている写真。健太に「撮って」と言われて撮った一枚だった。翌日の、健太が海鮮丼を前にピースをしている写真。これも、健太に言われて撮った。帰りの駅のホームで、健太が売店のソフトクリームを持っている写真。

それが最後だった。

液晶の右上に、二百十四という数字が出ていた。二百十四枚のうち、猫も、錆びたブイも、濡れた石灯籠も、吊り橋より前にしかなかった。吊り橋から後ろは、健太と、健太の食べ物と、健太が持っている物だけだった。

あの旅から帰って、このカメラを箱にしまったのだと思った。いつしまったのかは覚えていなかった。ただ、次の旅行にも、その次の旅行にも、持っていかなかったことは覚えていた。沖縄にも、持っていかなかった。

もう一度、最初から送った。

宿の窓の、夕方の海を、しばらく見ていた。切手ほどの大きさの液晶の中で、船の影は、爪の先ほどしかなかった。それでもあの夕方、自分が窓枠に肘をついて、この船が水平線を横切るのを待っていたことを、体が覚えていた。

里美は電源を切った。レンズが、じいっと縮んだ。

カメラは、ゴミ袋には入れなかった。机の上の、ノートパソコンの横に置いた。充電器のコードを巻いて、その隣に置いた。

火曜の朝は、燃えるゴミの日だった。

里美は七時四十分に、ゴミ袋を二つ提げて階段を下りた。集積所のネットの下に、もう近所の人の袋がいくつも並んでいた。自分の袋を並べると、中の写真の白い紙袋が、ビニール越しに透けて見えた。里美は袋の口を一度ほどいて、紙袋を奥のほうへ押し込んでから、結び直した。

燃えないゴミの日は、第二と第四の木曜日だった。マグカップの入った袋は、玄関の隅で、八月の第二木曜を待つことになった。

遊園地の腕輪と水族館の入場券は、火曜になっても、水曜になっても、床の同じ場所にあった。木曜の夜、里美はそれを拾って、机の引き出しの、花火の写真の下にしまった。捨てると決めたわけでも、取っておくと決めたわけでもなかった。

その木曜の夜は、蒸し暑かった。

会社から帰って、エアコンのリモコンに手を伸ばしかけて、やめた。代わりに、ベランダの窓を開けた。

網戸越しに、夜の空気が入ってきた。昼間の熱をまだ抱えた、湿った空気だった。どこかの家の室外機が回る音。遠くの踏切の警報機。アパートの前の道を、自転車が一台、ブレーキをきしませて通り過ぎた。

七年、夏の夜にこの窓を開けたことはほとんどなかった。健太が暑がりで、夏のあいだはずっとエアコンをつけていたからだ。窓開けたら虫が入るだろ、と健太は言った。

網戸の外で、蝉が一匹、思い出したように鳴いて、すぐにやめた。

里美は窓際に座った。フローリングがひんやりしていた。振り返ると、机の上の銀色のカメラが部屋の明かりを受けて、角のところだけ白く光っていた。



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